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「……うみゅ……」


 背後で可愛らしい呻き声が聞こえ、シグマは振り返る。


 見れば、ハウルが眠そうに目を擦りながら起床していた。


「おはよう、ハウル」


 入口で座っていたシグマは腰を上げ、彼女の下へ近づいた。


「あ……おはよう……シグマ……ふわぁ……」


 完全に意識が覚醒してないのか、ハウルはぼんやりとした目で今にも消えそうな返事を返す。両手で口を隠し欠伸をする仕草が実に子供らしくて、シグマは失礼ながら親御のような気持ちになった。


「どう? ぐっすり眠れた?」


「うん、かなり疲れも取れたよ。……って、あれ? これって……」


 ハウルは今更ながら、自分に被せられているシグマのジャケットに気づいたらしい。不思議そうにそれを手に取る彼女に、シグマは頭を掻きながら申し訳なさそうに謝罪した。


「ごめん。風邪引いちゃうとまずいかなと思って掛けたんだけど……迷惑だったかな?」


「え……あ、いや、ううん! 迷惑だなんてそんな……!」


 自分がどういう状況だったのかわかった途端、ハウルの顔がみるみる紅潮していった。


「そ、その、ありがとうございました!」


 混乱した頭で何とか礼を言い、シグマのジャケットを畳んで返すハウル。が、テンパった状態で慌てて畳んだため、その出来栄えは何ともひどい有様、ぐしゃぐしゃにして丸めたのと大差なかった。


 シグマはそれを咎めることなく、微笑みながら「どういたしまして」と彼女から差し出されたジャケットを受け取り、再びそれを羽織った。


 なぜか、ハウルはそれで気恥ずかしい感覚に陥る。ただでさえ紅潮していた顔が、また赤くなっていった。


「……ハウル、なんだか顔が赤いけど……もしかして風邪ひいた?」


 慌てて首をぶんぶんと横に振るハウル。そんなおかしい彼女の行動に、シグマは眉をひそめて訝しんだ。


(なにか……なにか話題を変えないと……!)


 ショート寸前の思考で別の話題を探そうとする。と、一つ思い出したことがあった。


「あ、そうだ! シグマ、見張りは大丈夫だった? なにも変なことは起きなかった?」


 昨夜、シグマに見張りを頼んで、自分は就寝したのだったとハウルは思い出す。


 ここで無事に話ができているということは何も起きなかったということなのだが、今の彼女は話題を変えることばかりに目が行って気がついていない。


「うん、特に異変は無かった」


「よかった。じゃあ今度は私が見張るから、シグ、マ……は……」


 突然ハウルの言葉が萎れていき、最後にはポカンと口を開いて呆けてしまった。


「どうしたの?」


 疑問に思ったシグマの声にも答えず、彼女の視線はただ一点を見つめている。


 それはシグマの背後に向けられており、つられるように彼も振り返ってみた。


 ところが特に呆けるような物は何もない。彼女の視線の先にあるのは、()()が差し込む入口から見える森だけだ。


「……あれぇ⁉」


 ようやく放心状態から解除されたハウルは、始めに驚愕の声を上げた。そして弾かれたように入口まで走っていき、外の様子を確認しに行く。


 綺麗な晴れ模様だった。いくつか空に漂っている雲が青空の色彩に対していい塩梅になっており、見ているだけで気持ちの良くなるような朝である。


 朝。そう、朝。もう陽は上っており、完全に眠る時間では無くなっている。


 おかしい。たしか自分は見張りの番を交代するはずではなかったか。そして自分が見張りをやってる間にシグマが寝るという話ではなかったかと、ハウルは予想以上に自分が寝てしまっていた事実に呆然とした。


 が、そんな彼女の心境などいざ知らず、シグマは彼女の隣までやってくると、


「いやー、良い朝だねぇ」


 なんて能天気な台詞を、気持ち晴れ晴れといった様子で言ってくる。


「いや違うよね⁉ 私途中で起こしてって言ったよね⁉ 見張りも交代するって言ったよね⁉ なのになんでシグマは一人でずっと起きてたの⁉」


 ハウルは彼の胸ぐらを掴み、糾弾するようにガクガクと揺らす。そんな彼女の揺さぶりに眼を白黒させながら、シグマも何とか答える。


「いや、だって、君が、気持ち、よさそうに、寝てたし、起こす、のは、悪い、かなって」


「そんなことで徹夜したの⁉ 別に起こしてくれてよかったのに!」


「ごめんごめん。でも大丈夫だよ、森で寝たからか、あんまり眠くならなかったし。それに、考える時間もできたからね」


 というのも、シグマは夜が明けるまでひたすら思考していた。自身の答えを見つけるために、余分なものを排斥して納得できる形に削り上げるために。


 この徹夜はとても有意義なものだったと、シグマは胸を張って言える。その妙な達成感を得ているからか、不思議と睡魔は訪れなかった。


 そんなわけで彼的にはまったく問題ないのだが、どうもハウルはそれが気に入らないらしく、今もウガーと怒っている。


 そこでシグマは一つ提案することにした。


「ハウル、朝ご飯を食べよう。昨日と同じものだけど、お腹がいっぱいになれば気分よくなるよ」


「別にお腹が空いてるからシグマに八つ当たりしてるわけじゃないからね⁉ というか話の脈絡無視してそんなこと言うって、さては全然私の話聞いてないでしょ!」


 どうやら火に油を注いでしまったらしい。


 しかし、シグマとしては夜通し起きていたせいでかなり空腹であり、思考し続けた脳の疲労回復のために糖分を摂取したいところだった。


「うん、まずは朝ご飯だ。その後ならお説教でもなんでも受けるからさ、まずは収穫しに行こう!」


 するとシグマは勢いよく洞窟から飛び出した。そのまま勢いよく崖をよじ登っていく。


「あ、コラー! まだ話は終わってないよー!」


「続きは食べながらでも聞くよー! その前に早く来ないとハウルの分が無くなるかもしれないよ!」


「ちょ……⁉ それダメ! ちゃんと行くから私の分も残してて! ていうかシグマちょっとおかしいよ⁉ 徹夜して情緒不安定になってない⁉」


 文句の混ざった返答を返して、ハウルは急いで準備を整えることにした。


 たとえどれだけ近い距離であっても、『儀式剣』を置いていくわけにはいかない。まだ追手に追われている身の以上、どんな場所にも肌身離さず持っている必要がある。


 一方、シグマは無事に崖をよじ登り、昨日倒してしまった木へ向かう。当然ながら倒木したままのその枝には、未だ多くの果実が実っていた。


 ふと、後ろを振り返る。今まさに崖を上っているのであろうハウルの、「シグマ―、待ってー!」という声が崖下から聞こえてきた。


 少し意地悪し過ぎたかな、と頬を指で掻き反省する。


 思い返してみれば、ハウルの説教は全部シグマの身を案じてのものだった。出会ってまだ一日しかたっていない彼女が、そこまで自分の心配をしてくれたのは素直に嬉しい。


 先程は空腹状態と徹夜明けのコンボでテンションが異常に高まってしまい、あのような強行手段を取ってしまったが、冷静になってみれば赤面ものの恥態である。

そのため誰もいないとわかっていながらも、思わずシグマは眼を伏せてしまった。


 そこでお詫びの思いも籠めて、ハウルの分も収穫しておくことにした。些細なことではあるが、何もしないよりかはマシだろうと考える。


 そして、収穫を始めようと倒木の方へ振り返ったその時―――


「―――ごきげんよう」


 目の前に、ローブを纏った男がいた。


 あまりの突然さに眼を剥く。


 先程まで周囲には確かに人影はなかったはずだ。だというのに、この男はなんの事前動作も無く現れた。まるで、空間から溶け出でるように。


 こんな不自然さ、もはや不気味を通り越して気味が悪い。


 たまらずシグマは足を一歩引く―――だがそれよりも先に、男の右腕が動いた。

 その掌は、優しく添えるようにシグマの腹に向けられた。その行為の意味することが解らず、シグマは硬直する。


 一秒後、そうしてしまったことが失策だったことに気づく。


「では、どうか黄泉路に気を付けて」


 男がそう告げた、直後だった。



 ―――シグマの腹に、巨大な風孔が開いた。



「………………え、………………?」


 何か、爆発のような音が聴こえ、シグマは放心した声を上げる。


 音源は下からだった。恐る恐る彼は視線を下げていく。


 そうして視界に入ってきたのは、直径十五センチほどの孔から鮮血が流れ出ている様。既にかなりの量が流出しており、足元では小さな血溜まりがその規模を拡大させていた。


 途端に、足から力が抜ける。とても立っていられず、その場に膝を付く。すると下から押し上げられたように、口から赤黒い血塊が零れ出た。


 状況が理解できない。事態に思考が追いつかない。理由が何もわからない。


 ただ、ただ、ただ、解っているのは―――自分が、もう間もなく死ぬということ。


 そして、とうとう膝付きの状態ですら自重を支えることが叶わず、その場に倒れこむ。


 とてもゆっくり、ゆっくりと―――違う、これはシグマが見ている景色だけが停滞しているだけだ。


 走馬燈を見せようにもその記憶を持ち合わせていない彼の脳は、せめて祈る時間だけでも授けようと世界の速度を遅延させることにしたらしい。


 だけど祈る言葉も知り得ない彼は、呆我のまま倒れることしかできなかった。


 どさりと、倒れた速度にしては重たい音が、耳の中で何度も反響する。


 そして完全に、芝生の地面に横たわった途端―――今さら痛みが爆発した。


「……ぁ、ガ……」


 腹の肉が消失した痛みが、容赦なく痛覚神経を刺激する。荒れ狂うような痛みに声を上げようとするも、口を開ければ悲鳴の代わりに血塊が溢れるだけ。代わりに激痛に耐えようと歯を食い縛るも、力が入らず上下の歯を合わせるのがやっとだった。


 この痛みに抵抗する術は無い。否、あったところで意味が無い。


 この傷は間違いなく致死のものだ。もう間もなくすれば、シグマは息絶える。


 それが大量の血液流出に伴った失血死か、前例のない痛みを味わい続けることで心臓が停止するショック死かはわからない。


 ただ、もうシグマは助からない。これだけは逃れられない不可避の未来だった。

 だというのに、


「ふむ。一応これで致命撃にはなったと思いますが……そうですね、念には念を籠めておいた方が良いでしょう」


 目の前にいる男は、これでもまだ足りないと言っていた。そして先程彼の腹に孔を開けた掌を再び翳してくる。


 だけどシグマは抵抗できない。全力を振り絞ったとしても、せいぜいゆっくりと起き上がるのが関の山だ。


 シグマは翳される掌を虚ろな目で見届けることしかできず、その間にも流出する血液は体から温度を奪っていく。


 あれだけ丁度良かった温度が、今では極寒の中にいるみたい。


 痛く、冷たく、暗くて、怖い。



 怖い、怖い、怖い、怖い。




 嗚呼、死ぬ。




「『闇夜を穿つ(オダーフ)―――!」


 その時、声が聴こえた。この世界に来て、誰よりも話した者の声だ。


 だが種類が違う。この声はシグマと話していた時のような優しいものではなく、もっと獰猛に、怒りに打ち震えた憤怒の声。


 そしてハウルは高らかに、シグマを降した男への一撃を告げる。


「―――眩き閃光(スピーシカ)』‼」


「むッ―――⁉」


 直後、彼女の周りに配置されていた五つの光球が、恐るべき速度で男に殺到する。シグマに気を取られていた男に避けることなどできるはずがなく、そのまま彼方へと吹き飛ばされた。


 仕留めたか。それとも仕損じたか。ハウルの表情は未だ厳しいものだ。


「シグマ、大丈夫⁉」


 倒れているシグマの下へ駆け寄ったハウルは、彼の傷を見て表情を強張らせる。当然だ、今回の傷の度合いは昨日の火傷と比べものにならない。


「こんな、こんなの……⁉」


 何かを悟ってしまったのか、ハウルは知らず震え出す。その様子を見たことで、シグマも虚ろな思考で理解してしまった。


 ―――この傷は、ハウルでも治せない。


 最後の希望とは思っていない。なにせこれだけの傷だ、たとえ彼女じゃなくても治せる者などいるはずがない。とうにわかっていたことだった。


 でも、なぜかハウルはシグマを置いて行こうとはせず、それどころかその小さな体で懸命に彼の肩を抱いて起き上がるのを手伝う始末。


 正直、ハウルがなんでこんな無駄なことをするのか、シグマには理解できなかった。


「ハウ、ル……もう、いい……逃げ、るんだ……」


「いいから黙ってて! それよりシグマ、今から飛ぶから気を付けて!」


 今から飛ぶ。その言葉の意味をシグマが把握する、それよりも速く、


「『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』ページ切り替え―――『吹き荒ぶ嵐の咆哮(ボレア・ヴズリーフ)』‼」


 魔導書のページが勢いよく捲られ、開かれたページに書かれていた文字が緑色に発行する。そしてそれに呼応するように、立ち上がったハウルの足下手前に周囲の空気が収束していく。


 それは嵐の卵と言うべきものだった。収束した空気は、それでもその動きを止めることなく、むしろさらに速度を増して球状を形成していく。


 その球状の内部だけで荒れ狂う暴風は、もはや人智の外にあるものだ。もしもその風速の嵐が地上に顕現しようものなら、あらゆるものが薙ぎ倒されて後には何も残らないだろう。


「同時起動、防御(ブラストランスト)結界(・レザーシッド)!」


 そしてその嵐の卵が成熟しきる前に、ハウルは同時並行で防御力を高めていく。


「シグマ、意識を保ってしっかり歯を食い縛ってて。強い衝撃が来るよ!」


 どことなく焦りの色を見せるハウルの言葉を聞いて、シグマは渾身の力で歯を食い縛る―――も、その瀕死の身体では歯と歯を合わせるだけで精いっぱいだった。


 それを見届けて、ハウルは目の前の嵐の卵に視線を戻す。内部成長を順調に遂げたそれは、今にも決壊しそうなほどに肥大しており、もうまもなく彼女のお腹の辺りまで巨大化していた。


「『吹き荒ぶ嵐の咆哮(ボレア・ヴズリーフ)』―――術式開放!」


 ハウルがそう叫んだ途端、その卵の殻が盛大に割れる。


 限界まで膨らませた風船を破裂させたと考えればいい。風船という枠の中に無理やり押し込められていた空気は、風船の破裂と同時に盛大に外へと走り出す。


 今回起こった現象も、本質的にはそれと同じだ。―――ただし、その規模は桁違いだが。


 なにせありとあらゆるものを吹き飛ばすような風速の嵐が、殻が割れたことで一斉に外へ溢れ出したのだ。その勢いは瞬間的であっという間に勢力を縮小させるだろうが、その一瞬の風圧をまともに受ければとても立っていられない。


 そして、その瞬間的な暴風を浴びることになるのは、嵐の卵の真正面にいたハウルとシグマだ。


 互いに肩を抱き合う形になっていた二人は、その瞬間的最大風速にゴミの如く吹き飛ばされる。


 本来なら人をも吹き飛ばすその風を受けて人体が無事であるはずがないのだが、今回はハウルが事前に防御結界を張っていたおかげで、その被害を二人が被ることは無かった。


 ただし、その代わりとして二人は天高く宙を舞う。さらに吹き飛んだ方向には崖があり、二人は難なくその崖っぷちを飛び越えた。


 そして落下が始まる。本来なら全身強打で済んだであろう高さが、今では崖を超えたことで落ちれば全身粉砕骨折は免れない高さとなっていた。


 その事実を恐怖しても、落下の事実は変わらない。二人は大きく弧を描くように、段々と地面めがけて落ちていく。


 だが、その結末を易々と受け入れるほどハウルは計算なしではない。


「―――っ、『吹き荒ぶ嵐の咆哮(ボレア・ヴズリーフ)』着地地点に再展開! 私が触れると同時に開放して!」


 すると、吹き飛ばされた彼女に付いてくるように飛んできた魔導書が、一瞬で彼女の下を離れて二人が着地するであろう地点へと向かっていった。


 そしてその場所で術式を展開、再び嵐の卵が設置される。


「シグマ、もう一度衝撃が来るけど、何とか耐えて……!」


 もう意識が薄れつつあるシグマに、ハウルは必死の声で警告してくる。もう返事すらまともにできない彼は、それでも彼女の行為を無駄にはしないようにと、また歯を食い縛る。


 そして彼らが地面に落下する直前、ハウルの肢体が卵に触れた。


 その瞬間、再び卵は割れて、中の暴風が解放される。


 今回は熟成までの時間が短かったため、先ほど二人を吹き飛ばしたほどの威力は無い。


 だが、それでも落下の速度を遅めることには成功した。一瞬だけホバリングした二人は、何とか衝撃を最小限に留めて着地し、地面を少し転がった。


 それはハウルにとっては些細な衝撃だったが、死に掛けのシグマには生死を揺るがす衝撃である。意識を失わなかったのは僥倖と言うべきだろう。


 だが、それでも彼の命が風前の灯であることは変わらない。


「っ……!」


 事態が刻一刻と悪化していくことに、ハウルは歯噛みする。それは目の前でシグマが衰弱していることだけに対してではない。


「ハハハ、今のは驚きましたよハウル! ですがこれでは意味が無い、私を屠るには至らない!」


 崖の上から聞こえてきた、愉快そうな物言いは、先ほどハウルが吹き飛ばした男―――ヅィーヴェンのものだ。オークを絶命たらしめた一撃を受けてなお、その声音には苦悶の色が聴こえない。


 もとより始めからわかりきったことである。ヅィーヴェンの実力は、彼女の全てを凌駕しているのだから。


 だから逃げなければならない。だけどシグマは置いていけない。だけど立ち向かえば敵わない。


 どう転んでも、打開の一手を想像できない。だが立ち止まっていては、シグマは死んでハウルは捕まるという、およそ考えられる限り最悪の結末になってしまう。


「……ゥ、ル……も、う……」


 その時、倒れたままのシグマが、息も絶え絶えの声でそう言ってきた。


 ―――自分を置いて、逃げろ、と。


 カッと、ハウルの頭を感情の焔が白く灼いた。


 見捨てない。自分は彼に何度も助けてもらった。その恩義を返さないまま見棄てるくらいなら、そんな外道に堕ちるくらいなら、そんな自分は今すぐに死んだ方が世のためだ。


 絶対に助ける。そう決意し、ハウルは儀式剣を抱えて、シグマのもとへ駆け寄った。


「シグマ、私と契約して! そうすればシグマは儀式剣を扱える。この儀式剣の力さえ借りれば、もしかしたらその傷も治るかもしれない。だから!」


 意識も朦朧とし始めていたシグマは、それでもハウルの言葉が信じられないという風に目を剥いた。


「でも……それ、は……大罪じゃ……」


「それでも私はシグマを助けたい! ここでシグマを見棄てて逃げるくらいなら、大罪の一つくらい犯してみせる! だからシグマ、私と契約して! 生きるために、この儀式剣を受け取って‼」


 始めはハウルの気迫に圧倒されていたシグマだったが、それでも彼女の決意を理解すると「なにを……すればいい……?」と、契約の仕方について訊いてきた。


「私が今から唱える言葉に、同意して」


 説明はそれだけだった。


 するとハウルは、倒れたままのシグマの右手を両手で包み、静かに目を閉じる。


「異界より寄りし王の器よ。我らを導きし威光の権化よ。

 汝、忠誠を示す意志は有りや。

 汝、臣下を導く器は有りや。

 汝、覇道を制す覚悟は有りや。

 これら凡てを是とするならば、王の剣を授けよう。

 汝、その意を唱えよ。絶対の忠義と覚悟を以てして、その意思を指し示せ―――!」


 それらの言霊が紡がれた途端、周囲に得体の知れない『氣』が充満する。その変化は、死に掛けのシグマにも感じ取ることができた。


「僕は……」


 問われた内容について考える。


 意志、器、覚悟―――それらはきっと、王となるために最低限必要なことだ。今の問いは、その必要最低限のものを持ち得ているかを計るための問いなのだろう。


 でも、シグマはわからない。〝有る〟とか〝無い〟とかではなく、〝わからない〟。


 王の有り方など持ち得る知識には無く、王として君臨したこともない。だからこそ、問われたものを自分の価値観で答えていいものか、シグマは迷う。


 王の責務とは、自分が考える以上に過酷で非情なものかもしれない。あるいは、案外温く容易く行えるようなものかもしれない。


 こんなあやふやな価値観では、答えたところで意味が無い。


 だから、


「今はわからない。でも、いつか必ずその問いに応えてみせる……だから―――!」


 シグマはここで答えを明白にすることを辞めた。


 そうだ、ここで契約が成立したところで、彼はすぐさま王になるわけではない。


 答えなど、これから彼が歩む道の中で見出していけばいいだけだ。


 だけど、その道を歩むためには力が必要になる。


『シグマは力に固執するばかりで、それを何に使いたいのかあやふやになってる。そんな目的の無いまま手に入れた力なんて、いつか使い所を見失って暴走するだけだよ』


 昨晩、ハウルに諭された言葉が脳裏を過ぎる。


 たしかにあの時のシグマは目的が大雑把し過ぎていた。


 でも、今は違う。


 日を跨ぎ夜を超えて思考を重ね続けた結果、ようやくシグマは、今の彼は自分が何のために力を翳したいか見出した。


 ならばもう、彼が力に呑まれるようなことはないだろう。


 少なくともその目的が歪んだものでないことは、彼の毅然(きぜん)とした目を見ればおのずとわかる。


「僕は契約を受け入れる‼ これが僕の全てを懸けた答えだ!」


 渾身でハウルに包まれた右手を握りしめ、叫ぶようにシグマは答えた。


 そのボロボロでありながら力強さを見せる彼の意思表示に、ハウルは大きくい頷いて、


「此処に契約は成立した!

 我が名を背負いし王の器よ、その威光を以って進む道先を照らし征け!

 汝の覇道に祝福があらんことを―――!」


 契約の締結を表す、最後の一節まで唱えた。


 途端、周囲に充満していた『氣』が鳴動した。それは大きく渦巻き、やがてシグマの身体の中へ流れていく。


 それはとても暖かく、優しかった。シグマは死の淵に瀕しているにも拘らず、それが自分に取り込まれていくことに安らぎを感じた。


「……契約完了。これでシグマの中にも魔力が生成されるようになった。……この契約で得られる魔力は、契約した相手のものと全く同じになるんだけど……大丈夫? 痛かったり苦しくはない?」


 そう訊かれて、初めてこの温もりの正体が、ハウルの魔力であることに気がついた。


(ああ、だからこんなにも安心するんだ……)


 感じた安堵に心から納得する。


「大丈夫、むしろ少し楽になった。これなら……ッ⁉」


 そういって起き上がろうとした途端、再び全身を許容オーバーの激痛が支配する。その痛みにたまらず顔を顰めると、慌てた様子でハウルがその行為を止めにかかる。


「だ、ダメだよ! 契約が完了したからって、まだ傷が完治したわけじゃない! ちょっと待ってて、すぐに次の契約の準備を整えるから」


 するとハウルは次の段階へ進むために、『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』の頁を再度切り替える。開かれた頁の文字は淡い緑色の光を滲ませ、その光はハウルの腕に纏うように収束していく。


 その魔術を、シグマは目にしたがことがあった。


「それ、は……」


「『傷痕を癒す(リチャーブネ)治癒の光膜(・スウェート)』。でも、もう術式を完全に確立させる暇は残ってないし、なによりシグマの傷はこの術式でも治しきれない。だから、この術式は完全なものを使うんじゃなくて、その過程だけを利用する!」


 そして彼女が光で包まれた両腕でシグマの身体に触れた途端、彼は自分の身体から意識だけが弾き出された感覚に陥る。


 自分の意識は確かに在るのに、それでも動かす身体は遥か遠くにあるように感じた。


(なるほど。僕の意識を体から切り離したのか……)


 たとえるならば、操っていた機体を降りて、外部から遠隔操作するようになった、というところだろうか。そのため身体を動かすには一瞬のラグがあるが、代わりに受けていた感覚―――主に痛みはかなり和らいだものになっている。


 些か傷痕に不快感を感じるものの、それでも激痛に苛まれていたときと比べればだいぶマシだ。


「上手くいったね。それじゃ、シグマ……これを」


 少しばかり緊張した面持ちで、ハウルは急ぎながら、かつ丁寧に、儀式剣を包んでいた布を解き、現れた純白の鞘に納められた短剣を、慎重にシグマに持たせた。


 今のシグマはほとんどの感覚を失っている。だが、それでも持たされたその短剣の重さは、彼の魂まで響かせるほど、その手に重くのしかかる。


「……これが、儀式剣……」


 見た目からは想像もできない重量。この剣を抜きさえすれば、彼はこの窮地から脱することのできる何らかの力を手に入れることができる。


 やっと、やっと、やっと―――


 そうして覚悟を決め、いざ鞘から剣を引き抜こうとしたその瞬間、


「……シグマ、」


 突然ハウルがつらそうな面持ちで、剣を抱えた彼の手に、そっと自らの手を添えた。


「その儀式剣はね、今まで何人もの人が抜こうとしたけど、そのあと一人として生き残った人がいない、本当の魔剣なの。……その剣を抜いた人たちが何を受けたかは知らないけど、きっとそれはシグマにも襲いかかる。そんな目にシグマが合わなきゃいけない状況を、私は作ってしまった。

 ……ほんとうに、ごめんなさい……」


 いたたまれなく頭を垂れて、泣きそうになるのを堪えながら謝罪をしてきた。


 だがシグマは感情を荒げることなく、静かに首を横に振る。


「少なくとも僕は、君のせいだと思っていない」


 それはシグマの偽りない本心だ。


 だから気にしないでと、シグマは震える手で彼女の頭を撫でようとしたが、その手はべっとりの自らの血で濡れていたため自重した。


 行き場を失ったその手は、代わりに剣の柄を掴む。


 その時だった。


「ああ、ようやく見つけましたよ、ハウル」


 ―――死神が、追いついた。


 バッと、項垂れていたハウルは勢いよく顔を上げ、すばやく立ち上がり転身する。


「先生……!」


「おや、取込み中でしたか? それは申し訳ありません。では私はここで待っていますので、どうぞ存分に彼の遺言を聞き届けてあげてください」


 語るヅィーヴェンの声色は、ひどく飄々としている。


 それはきっと、対峙している二人に一切の脅威を見出していないからだろう。


 それは事実だ。シグマはもう死に体で脅威たりず、ハウルの攻撃も通用していない。


 故に、警戒する必要など何処にも無い。彼は仰々しく両手を水平に掲げ、被ったローブの奥で残酷に嗤う。


 弱者を虐げる悦びを、慎ましく隠すことなく。


 今の彼は、そういった強者の立場に酔狂していた。


「……シグマ、あの人は私が何とかする」


 ハウルは「戦う」とは言わない。それは彼女自身が、ヅィーヴェンとの実力差を理解しているからだ。


 彼女では彼に勝てない。彼女の全てを以てしても、彼を踏破するには至らない。


 立ち向かえば待っているのは一方的な蹂躙だけ。どれだけ譲歩しても戦いと呼べるものではない。


 だというのに、ハウルは立ち向かうことを選択した。


 それがどれだけ勇気を要したことか。現に、未だ彼女の身体は恐怖によって震えていた。


 だが、逃げることは絶対に認めない。


「『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』ページ切り替え! 『闇夜を穿つ(オダーフ)眩き閃光(・スピーシカ)』ッ‼」


 恐怖で折れそうになる心を無理やり鼓舞するように、彼女は大声で術式を唱える。


 直後、ハウルの背後に無数の光球が配置され、それら全てが一斉にヅィーヴェン目掛けて射出される。


 昨日、森でも見せた、あの屈強な規格外の体格を誇るオークをも屠ったその一撃。


 今回もまた、その威力は同等か、あるいはそれ以上。それは標的となったものの造形を破壊し尽くし、例外なく残骸へ変貌させる恐るべき威力を持つ。


 そんな、凶悪にして強力極まりないその魔術は、瞬く間にヅィーヴェンを呑み込んだ。


 光弾が地面をえぐり、砂塵を上げる。番えられた光球が全て射出されたとき、ヅィーヴェンがいた辺り一帯は頽廃的な荒れ地と化した。


 だが、そんな全てが破壊された景観の中で、それでも変わらず元の形を保っているのが一体だけ。


「無駄ですよ。未熟な貴女の魔術では、私の防壁は破れない」


 ヅィーヴェン。彼もまた魔術師であるがため、魔術を以て魔術に対抗していた。


 よく目を凝らして見れば、彼の周囲を薄い青色の膜が覆っている。一見するとシャボン玉のように脆そうなものだが、それでもあの膜がハウルの渾身の一撃を受け止めたのだろう。


 その事実にシグマはゾッとする。だが対照的に、ハウルは薄く微笑んでいた。


「はい、わかってます。これじゃ先生に敵わないってことくらい」


 まるで、まだ手が残っているとでも言うように。


 その余裕さに怪訝な顔をするヅィーヴェンだったが、直後に変化に気づいた。


 それは彼女の隣に浮かんでいる、先ほど『闇夜を穿つ(オダーフ)眩き閃光(・スピーシカ)』の展開に伴い、開いた頁の文字を黄色く発光させていた『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』。


 それが今は、()()()()()()()()()()()()()()()()


「だから本命はこっちです!」


 そして、彼女の後ろに生み出されていた『吹き荒ぶ嵐の咆哮(ボレア・ヴズリーフ)』―――つまりは、暴風を収束させた卵が、その殻を破り解放される。


 凄まじい爆風は一番近くにいたハウルの華奢な体躯を吹き飛ばした。まるで、砲弾のような速度(スピード)で。


 断じて逃走の為ではない。その逆、ハウルは闘争の為に自らを吹き飛ばしたのだ。


 なぜなら彼女が吹き飛んだ方向は、真正面。射出された彼女の射線には、ヅィーヴェンがいる。


 であれば、ハウルが彼へ向かって突撃するのは明白だった。


 直後、ハウルとヅィーヴェンの防御結界が衝突し、大気を震わせる爆音を響かせた。


「くぉッ⁉」


 さすがのヅィーヴェンも、この一撃だけは虚を突かれた。今まで逃げるだけに徹していた者が、あろうことか自ら突進してくるなど、予期することができなかったのだ。


 そして二人は、ハウルの突進の慣性に従って彼方へと転がっていく。


 それを見て、シグマはハウルの行動の意図に気がついた。


(ハウルは、あの敵を僕から引き離してくれたのか……!)


 シグマはハウルとの契約は終わらせたものの、未だ儀式剣の力を得てはいない。


 そのため、これから彼が行うのは儀式剣との契約―――彼の手の中にある純白の鞘から、その剣を引き抜かなければならない。


 ハウルは、その時間を稼ぐために単身でヅィーヴェンに向かっていった。自らの身を賭す、囮となって。


 その行動に感謝したのは最初だけ。すぐに彼女が自殺に等しいことをしでかしていることに気づき、焦燥が感情を占めていく。


 ―――一刻も速く、この儀式剣を抜いて担い手とならなければならない。


 だが、


「いたぞ兄者。ヅィーヴェン様が仰っていた継承候補者だ」


「よく見つけた。しかしなんだこのザマは、すでに死に体ではないか」


 背後から、二人分の声が聴こえた。


 恐る恐る振り返ってみると、そこにはオオカミの顔を持った狼男―――レノウ兄弟がいた。


 ここにきての更なる敵の出現に、シグマの焦燥感は加速する。


「……く……っ!」


 もはや一刻の猶予もない。


 シグマは柄を握った手に、再び力を籠める。


「お、こいつ、儀式剣を抜こうとしてるぞ。抜いたら死ぬっての、知らねぇのか?」


「いや、知らないというよりは、そうするしかないんだろう。なにせこの傷だ、放っておいてもじきに死ぬ。これはこいつに残された、いわゆる最後の足掻きというやつだろう」


 その二人の会話が、今まさに剣を抜こうとしていたシグマの手を止めた。


 抜けば死ぬ。死ぬかもしれない、ではなく、確実に死ぬ。


 ハウルだって言っていた。その剣を抜いた者で、生き残った者は一人もいないと。


 この剣が何をもたらすかなど、シグマは知らない。知らないからこそ恐怖する。


 いったい先人たちはどうやって死んでしまったのか。そして自分はこれから何を受けることになるのか。


 そう考えると心が折れそうになる。いっそのこと、このまま死んでしまった方が楽ではないか、とさえ考える。


 もしかしたら、これがシグマだけの問題であったのなら、あるいは彼はその末路を選択していたかもしれない。


 でも、それはできない。それを選べば、ハウルの行動の全てを無に帰すことになる。


 こんなところで折れるわけにはいかない。まだ、死ぬわけにはいかない。


 シグマは、覚悟を決めた。


「頼む、僕に力を貸してくれ―――!」


 最後の力を振り絞り、逡巡の鎖を断ち切るようにして。


 遂に彼は、儀式危険を鞘から引き抜いた―――



 実のところ、シグマは内心、儀式剣を抜くことによる影響を少しだけ軽視していた。


 原因は彼がヅィーヴェンから受けた致命的な傷。それは掛け値なしの激痛をもたらし、容赦なく彼を死に至らしめるものだった。


 そう、彼は死ぬような損傷を、剣を抜く前に負っていた。だからこそ、彼は儀式剣の影響がどんなものであろうと、今受けているこの傷よりはマシだろうと、無意識のうちに侮っていたのだ。


 抜けば死ぬという情報を教えられて、それでも彼が抜く気になったのはその無意識の考えによる影響が大きい。


 たしかに、物事を別の何かと比べることで、それを乗り越えようとするのは有効だ。


 このテストはとても難しそう。でも、前に受けたテストよりは簡単だろう。


 この競技はとてもつらそう。でも、前にやってたあの競技よりは楽だろう。


 そうやって比較することで不安や躊躇は軽減され、心の負担も軽くなり、物事をスムーズに進めることができる。


 ……だが、もしもそうやって比較して、物事を他の物とはマシだと決め込んで、蓋を開けてみたら比較対象に出したものの方が遥かにマシだった時、跳ね返ってくるダメージは倍増し、容赦なく心を破壊してしまうだろう。


 つまりは、シグマがやったことはそういうことだった。



 シグマは剣を引き抜いた。


 直後―――()()()()()()


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