白の無双
瞬間。
シグマは全触腕を地面に叩きつけ、反作用により空高くへ跳躍する。
目を見張るほどの速度で頂点へと達し、そのまま刹那の浮遊。真下で巡る戦場を睥睨しながら、弧を描くようにして落下する。
「ひゃあああぁぁぁぁ――――――⁉」
すぐ傍でハウルが間抜けな悲鳴を上げているが、彼女の安全は細心の注意を払っている(つもり)なので、気にしないことにした。
そしてシグマは、盛大な轟音を響かせて着地。敵味方入り乱れていた戦場の中心で巻き上がる砂塵の紗膜。まるで隕石が落ちてきたかのような光景に、誰もが場違いにも動きを止めた。
その直後、紗膜を引き裂くようにして、何本もの触腕が天へと伸びる。
砂塵の晴れた舞台に立つ異様の姿は、果たして無類の安寧をもたらす神か、あるいは対峙することすら恐怖するほどの悪魔であるのか。その判別は当人の立場によって左右される。
ただ、人の身から外れつつあるシグマは、淀みのない真直の声でこう宣言した。
「―――リューズビーリア王位継承者、シグマ。これより参戦するッ‼」
咆哮のような参戦表明は、大気を振動させ戦場の彼方まで響き渡った。
そしてシグマは前に倒れ込み、まるでクラウチングスタートのような構えを取り、そこから一気に前方へ弾け跳んだ。
突然の事態に呆けていた兵士たちに、その動きが捉えられるはずもない。
「え?」
目下の標的とされたトゥロイの兵士は、眼前でシグマが触腕を振り下ろすその時まで、何が起こったのかを理解できないままでいた。
直後、振るわれた触腕の一撃が、射程圏内の内側にいた敵兵を尽く吹き飛ばす。そして被害はそれだけに止まらない。
人智を超えた一撃により砲弾の如き速度で吹き飛ばされた肉塊は、そのまま後衛の兵士に着弾し、二次的被害をもたらす。人の質量を持った物体が高速でぶつかればどうなるか、その結果は想像に難くない。
人体から聞こえてはならない粉砕の音と共に、大量の血飛沫が戦場を紅く染め上げる。
そこまでして、ようやくトゥロイ軍の兵士たちは我に返った。彼らは標的を目の前のリューズビーリア兵からシグマへと切り替え、得物の切先を突きつける。
だが、もう遅い。
シグマに先手を取られた上、今のような凄惨かつ圧倒的な一撃を目の当たりにしてしまった彼らは、もはやシグマの存在に恐怖せずにはいられない。
未だ逃げ帰らない辺り戦士としての矜持は残っているのだろうが、一度根付いた恐怖はその身を竦ませる。
そうして生まれる躊躇は、万に一つの可能性さえも水泡に帰すだろう。
『ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼ 悦いぞ、それでこそだ! 我が力が圧倒的に敵を蹂躙するこの感覚は、如何なる甘味にも勝るほどの快楽! 一度味わってしまえば、更に求めてしまうのが道理というものだ!』
シグマの頭で鳴り響くシャルベリアの快哉は止まらない。
『だが、これで手を緩めるな! 貴様と対峙する敵を全て屠るまで戦いは終わらない! 躊躇は己を殺す自刃と思え!』
「わかってる。わかっているさ」
シグマが両手を水平に掲げると、その腕のあちこちから皮膚を食い破って新たな触腕が顕現する。あまりにもグロテスクなその光景に、トゥロイ兵だけでなく、味方兵すらも後ずさる。
「シグマ、それは……!」
未だ触腕に抱きかかえられているハウルは、その行為がもたらす代償の負荷を懸念して、悲痛な面持ちで彼の名を呼ぶ。
しかし、
「王になるため、想いに応えるため、そして、大切な人を守るために、僕はこうなることを受け入れたんだ」
苦痛に悶える悲鳴や絶叫は、いくら待てどもその口からは出てこない。代わりにあるのは、一切の震えを見せない意志を籠めた言葉だけだ。
その様相に、ハウルの困惑は加速する。
どうしてシグマは規格外の激痛に身を縛られていながら、あのように平常の様相でいられるのか。
先ほどからある嫌な予感に口が震えて、その問いを訊ねることはできなかった。
その間に、シグマは再び戦闘態勢を整え終わる。
新たに増えた無数の触腕を携えて、眼前に広がる敵の群れを真っ向から睨み見た。
「行くぞ。僕の覚悟を受け止める覚悟のある者だけが掛かって来い‼」
そして、今度こそ明確な蹂躙が幕を上げる。
先ほどのように、凄まじい速度で敵陣に吶喊したシグマは、そのまま触腕を乱雑に振り回して立ち塞がる兵を薙ぎ払っていく。
その様は、まさしく圧倒的という他ない。真っ向から挑みかかっては勝ち目はないのは、誰の目にも明らかだった。
そこでトゥロイ軍は現状を打開するためにある行動にでる。それは、
「―――っ⁉ 気をつけて、何かの魔術が来る!」
微弱な魔力の余波を感じ取ったハウルが、急かすように警告してきた。その声にシグマが足を止めると、その足元に魔法陣が出現し、その規模を拡大させていく。
そしてその拡大が停止した途端、魔法陣の紋様が怪しく煌かせる。
すると何の前触れもなく―――霧が出てきた。
あまりにも不自然過ぎるその発生は、明らかに魔術によるもの。シグマがそう分析している間にも、辺りの霧はどんどん濃ゆくなり、もはや一寸先も見通せないほど真白色に視界が染め上げられる。
おそらく目暗ましのつもりなのだろうが、そこで一つの疑問が産まれた。
「これだけの濃霧じゃ、向こうも僕を捉えられないんじゃ……」
「違う! 前に本で読んだことがある、トゥロイ国の人間は幻術系の魔術を得意とするって……! たぶんこの霧も私たちが見てる幻覚、向こうはそれが無いから普通に見えている!」
呟いた問いに、ハウルが必死に状況分析の答えを返してくる。
彼女の言葉が真実だとすれば、トゥロイ兵にとってまさしく今こそが絶好の好機となる。おそらく我先にと、多くの兵が得物を構えて突撃してくることだろう。
しかしそれが解っていても、見えていないのでは対処のしようがない。
まさに窮地と思われた、その矢先―――
「なら、全方位を守ればいいだけのことだ」
窮地の状況に似合わない、極めて冷静な声。
直後、シグマの生み出した触腕が、彼自身を包み込むようにして収縮し、巨大な純白の繭を築き上げる。彼の周囲を覆う繭の壁は堅牢であり、刃の一つも簡単には通さない。
現に、視界は霧で覆われているものの、聴覚は突き立てられた武器が繭に阻まれ鈍い音を上げるのを立て続けに捉えた。
そして、周囲の兵士たちが驚愕に息を呑む気配も。
「ハウル、この霧はどうにかできる?」
一方、攻撃を受けたはずのシグマは、何事も無さげに彼女にそう問いかけた。
「っ……、もうやってる!」
その様を見せられてさらに膨らんでいく嫌な気配に焦りを感じながらも、ハウルは『摂理を統べる魔導の書』を展開し、敵の魔術に対抗する。
ちょうど彼らの頭上で浮遊する古本は、激しくページを捲ると、何も記載されていない白紙の頁を開く。すると両開きとなった白紙の中央から、スポットライトのような光が照射され、シグマの足下にある魔法陣を照らし出す。
「魔法陣は術式によって成立しているから、その術式を『摂理を統べる魔導の書』で読み取って解析する!」
光を放つ白紙のページに、独りでに謎の文字の羅列が印字されていく。此れこそがハウルの言う解析とやらなのだろう。
やがて全ての術式を転写し終わったのを確認すると、ハウルは自らの手に古本を呼び寄せた。
「解析できたのなら干渉できる。干渉できたのなら阻害することができる。阻害することができたのなら―――術式を破綻させることができる‼」
そして、ハウルは手元に戻ってきた開いたままの古本を勢いよく閉じると、それを一気に地面に―――魔法陣に向かって投げつけた。
『摂理を統べる魔導の書』が接地した瞬間、まるでガラスに石を投げつけたかのように、甲高い破砕音を上げて魔法陣が粉々に砕け散る。
瞬間、晴れ渡るシグマの視界。
始めに見えたのは、シグマの生み出した繭の隙間から窺える、攻撃を阻まれたトゥロイ軍の驚愕の相だった。
「うん、よく見える。ありがとう」
シグマは短く礼を言って、繭を形成していた触腕に力を籠めた。
……大前提として、この戦場に居る兵士は皆、平均以上には自らを鍛え上げている。弱肉強食である戦場では、最も頼りになるのが自力であるのだから、命を落とさないためにも誰もが必死で鍛錬を続けてきた結果といえよう。
だが、そんな屈強な兵士たちの、それも複数がかりの膂力を以てしても、シグマの力の前にはまるで意味を為さなかった。
故に、シグマが触腕に力を籠めたことで覆っていた繭は弾け飛び、周辺で武器を構えていた兵士たちは微塵も受け止められずに吹き飛んだ。
その圧倒的な対決を見せられて、味方からは感嘆の息が、敵軍からは畏怖の声が、それぞれ漏れた。
しかし、当の本人は周囲の様子など目もくれず、その場で自身の手を握っては開いてを繰り返し、様子を確かめる。
「シグマ、代償は……痛いのは大丈夫なの⁉」
吊るされたまま、ハウルはようやく先ほどからの疑問を口にする。
だが、返ってきたのは―――
「大丈夫、まだやれる。まだ、戦える」
彼女の方を向いたシグマの顔に浮かぶのは、いつも通りの、あまりにもいつも通りの、彼らしい微笑み。
暖かな日常の中で見せていたそれが、今この戦場にあることに、ハウルは心底ゾッとした。
しかしそんな彼女の心情に気づくことなく、シグマはさらに触腕を躍らせる。
『こんなところで止まるなよ主。我はまだ満たされていない、数千年空かされた我の空腹は、この程度では収まらない! 故に、もっとだ。もっともっと、この甘美なる戦場を心行くまで我に享受させてみせるがいい!』
「いいとも、戦いはまだ終わっていない。僕が勝利するその時まで、君が望むものを見せてやる」
そして再び蹂躙が始まる。
すでに彼が居る位置は敵陣の中央部分。前後左右どこを見渡しても、そこにはトゥロイの兵士しかいないはずなのに。
飛び散る血潮が、舞う血肉が、響き渡る悲鳴が、全て彼らの物であるのは、いったい何の冗談なのか。
それまである程度は釣り合って見えた両軍の拮抗は、シグマの参戦に伴い大きく片方に傾こうとしている。
もはやこのままでは、瞬く間にトゥロイ軍は敗走の一路を辿ることになるだろう。
このまま、では。
◇◇◇◇◆
「……おーおー、それはまたよくない状況でしゅねぇ」
トゥロイ軍後衛部隊、それらが率いる荷車の中で、その男は斥候が持ってきた状況報告に、つまらなそうに返事をした。
「ま、ボクちんみたいな天才がいなけりゃ、凡人の群れなんてそんなもんでしゅ。気にすることはないでしゅよ」
荷車周辺を護衛する屈強な兵士とは裏腹に、男は肥満一歩手前のような体型であった。彼は痩せようという気はまるでないと言わんばかりに、手元に置かれた果物を口に運んで咀嚼する。
「けど凡人は数だけは居るんだから、せめてボクちんが到着するまでは耐えてほしいものでしゅね。そこんとこ、前衛の部隊に伝えてほしいものでしゅ」
威厳の文字がまるで似合わないこの男の物言いに、それでも斥候は恭しく一礼すると、音も立てずに離れていった。
まるで大御所を扱うようなその対応に、男は気分よさげに鼻を鳴らす。
「天才は終わらない。だからボクちんはこの世界に呼ばれたんでしゅ」
果物を握った手を癒しく舐め取り、男はその手を空にかざす。
開かれた手の五指のうち、人差し指には紫赤色に煌く指輪が嵌められていた。
「―――この世界の王になるのは、ボクちんでしゅ」
次は12/23に更新します