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あれから三日が経過した。
振り返ってみれば、案外いつもと変わらない日常だったように思う。少なくともホームシックに陥ったり、帰れない事実に苦悩するといった憂いはまるで無かった。
それはきっと、シグマがこの世界に適応していることの証明なのかもしれない。
訪れているのは間違いなく非日常の世界なのに、そこで暮らす日々はありきたり過ぎるほど平凡。目が回るような忙しさも、欠伸が出るほどの退屈も、どちらとも『平和』の枠からはみ出さない程度のもので、だからこそシグマは当然とそれらを受け入れた。
だが見誤ることなかれ。彼が訪れた世界は、彼が元いた世界とは紛うことなく別物だ。
王位継承戦という戦争を行っている最中、感じた『平和』は間違いなく一過性のもの。
そうしてシグマは知ることになる。
目が回るような忙しさも、欠伸が出るような退屈も、それがどれだけ貴重なのかを。
当たり前に享受していた『平和』が、どれだけ愛おしいものだったのかを。
戦争が始まる。
その舞台は粛々と作られ、もはや幕を上げるだけとなっていた。
◆◇◆◆◇
「―――宣戦布告されただって?」
緊急招集を受け執務室を訪れたシグマは、さっそく告げられた言葉をオウム返しに訊き返した。
すでに場には、シグマの他にハウルやレオン、そしてルカもいる。
そして、その事実を告げた本人であるルカは、座ったまま厳かに肯定した。
「あの、それってどこの国なんですか?」
「我が国から西南方向に位置する、トロール族が統べる国『トゥロイ』からです。本日の日の出と共にかの国の使者がその旨を通達。その後確認に向かわせた斥候の調べより、すでに出兵しているとのことです」
恐る恐る訊ねたハウルの問いには、レオンが簡単な情勢を付け加えて回答した。
それを聞いて、シグマは眉をひそめる。
「出兵しているって……あまりにも行動が速くないか?」
「他の国が動き始める前に、片をつける魂胆なのでしょうね。おそらく彼らは、よほど急いた行軍を仕掛けてくると思うわ」
王位継承戦とは、即ち王を選別するための儀式。それを制したものこそが真なる王となる。
だが、ただ最後まで勝ち残ればいいというわけではない。
これは王を選定するための儀式なのだから、勝鬨の数だけでなく、名声や評価なども関わってくる。
ならば、手っ取り早くそれらを得るためにはどうすればいいのか。
答えは簡単だ。即ち、注目を浴びればいい。
多くの者から注目を浴びている中で活躍すれば、後から追うようにして名声や評価もついてくるのだから。
それらを踏まえた上で、どのような戦況になるのかまるで予想の点かない戦争初期において、中でも初戦を勝ち取るということは王位継承戦において最も重要なことでもある。
しかし、それが良い結果だけを集めるかと言えばそうでもない。
注目を浴びるのは、いい意味だけでなく、悪い意味でも。
他の国にしてみれば、注目の的になっている国を打ち倒すことで、その視線を自国に向けることにも繋がるのだから、当然多くの国から標的にされる恐れもある。
そのため、これまで各国は互いの動きを読み合い、不用意に行動しないようけん制し合っていたのだが。
「痺れを切らしたか、あるいは―――行動するに値するだけのきっかけを得たか」
何にせよ、すでに賽は投げられた。もはや止めようとすることに意味はない。
「それで、対策は?」
「すでに彼らの行軍経路と予測される道中に陣営を展開しているわ」
「いくら急いたからといって、トゥロイ軍がこの地までたどり着くには五日は掛かります。それだけの期間があれば、我々も十分な迎撃態勢が取れるでしょう」
それを聞いて、シグマは内心安堵する。
だが、そこでルカが遮るように口を開いた。
「ただし、あくまでもそれはただの軍勢を相手取った場合の話よ。私たちの理解を超える力を持った敵兵がいた場合は、その限りではないわ。例えば―――」
シグマを除く、この場にいる三人の視線が彼に集中する。
超常の力を駆使し、戦場を跋扈すれば一騎当千。そのような馬鹿げた性能を持つ兵は、この世界においてある呼称で定着している。
「王位継承者か」
皆の視線を受けて、シグマは呻くように言った。
「もしそれが行軍の中に紛れているのなら、迎撃はまるで意味を為さないでしょうね。おそらく紙の如く突破されるわ」
「……だけど、それは敵側に対しても言えることだ」
敵がどれだけ兵力を揃えていようが、王位継承者の力を使えば、あるいは数万の兵とさえ渡り合える。
少なくともシグマは、それを演習の時に証明している。
「ご明察。ならば、貴方が今するべき選択は何かしら?」
不敵な笑みと共に、挑むように問いかけるルカ。
それを受けてシグマは胸に手を当てて、やがて握り潰すように力を籠める。
答えなどとうに解っている。
剣には剣を。
圧倒的な力を持つ者には、圧倒的な力を持つ者を。
王位継承者には、王位継承者を。
互いに拮抗し合う存在同士をぶつければいいだけのこと。
ましてこの王位継承戦は、王位継承者同士が戦い続け、たった一人の王を見出すことを目的としているのだから。
あと必要なのは覚悟だけ。
だが、それも問題ないだろう。
なぜならルカの視線を真っ向から受け止めるシグマの双眸にも、同じように挑むような気迫が籠っている。
「僕も戦う。それが、王位継承者としての僕の役割だ」
淀みのない、迷いを棄てた宣言。
それを受けて、レオンは感慨深げに頷き、ルカは勢いよくその場から立ち上がる。
「その覚悟、確かに聞いたわ。ならば早々に私たちも出陣するわよ。急ぎ支度を整えなさい」
「え、ルカたちも出陣するの?」
シグマにとってはそれが意外だった。
たしかにルカやレオンがいてくれるのなら頼もしいことこの上ないが、それはつまり最強格の二人がこの国からいなくなるということでもある。
王位継承戦はまだ始まったばかりであり、周辺各国もいつ戦旗を掲げるかわからないこの状況で、この国をがら空きにすることに懸念を覚える。
しかし、そんな彼の懸念を察したのか、ルカはなんでもなさげにこう言った。
「心配しなくても国には相応の兵力を残しておくから大丈夫よ。それに今回の戦場はこの国からさほど離れていない。その気になればすぐさま帰国することも可能だから、その不安は必要ないわ」
「そっか。なら……」
「ええ、私もレオンも今回は戦場に赴くわ。おそらく相手は様子見のつもりでしょうけれど、これが初戦である以上、絶対に敗北は許されない」
「ですが、現時点で迎撃部隊の兵力だけでも十分敵陣を退くことができるとの推測が出ています。そのため、あくまでも私と姫君は陣営で待機し、不測の事態にのみ出陣、それ以外は指揮を担当することにしています。ですから……」
「そこまで。詳しいことは現地に着いてから話すわ。それより―――」
レオンの話を遮って止めさせたルカは、その視線を動かす。
その先に居たのは、この国の唯一のイレギュラーともいえる、ハウルだった。
「ハウル、貴女にも今回の戦場には赴いてもらう。この決定に拒否権はないわ」
「っ……」
それは当然ともいえる措置だった。
ルカとレオンがこの国を留守にするということは、即ちハウルに敵う者もいなくなるということである。流石にリューズビーリア全兵士と戦えば無事では済まないだろうが、それでも彼女の繰り出す魔術は大きな被害をもたらすだろう。少なくとも最強格の二人が相手取るより効率が悪いのは確かだ。
それに、ハウルはシグマの契約主でもある。
契約の理―――主の命は、即ち従者の命そのもの。
そのため、シグマの手の届かない範囲にハウルを置いておけば、彼女に何かしらの要因で危機が迫った場合に対処ができない。もしそうなってしまえばシグマも死ぬこととなり、リューズビーリアは継承者を失ったことで参戦資格を失くすことになる。
以上の二点からして、ハウルがこの国の中で待っておくという選択肢は認められない。
そして、彼女もそれを理解している。
「わ、私は初めからそのつもりでしたから……むしろ連れていただけるのなら幸いです」
「そう。なら貴女も支度を整えなさい。半端な装備で挑めば、それが自らの死に繋がると思え」
「は、はい!」
「シグマも。儀式剣があるからと言って、その力を過信しすぎないように。たった一瞬の気の緩みは、明確な破滅を引き寄せるわ」
「……肝に銘じておくよ」
「なら、ここで一旦解散するわ。再集合は三十分後に城門前で。遅刻は一秒たりとも許さないわよ」
そこで一先ずの区切りとしたルカは、レオンを連れて部屋を出ていく。
「ハウル、僕達も行こう」
「う、うん……」
諸々の支度を整えるためそう言ったシグマだったが、ハウルの返事はひどく弱々しかった。見れば彼女は、不安げな表情でこちらを見つめている。
普段なら、そのような表情を浮かべることを訝しんだかもしれない。
だが今は、その表情の所以に心当たりがあった。
「やっぱり、怖い?」
ハウルはおずおずと頷く。
それが可笑しいとは思わない、むしろ当然の事だと思う。
これから赴くのは、おそらく膨大な殺気が渦巻くであろう本物の戦場。かつて経験した演習とは、明確に次元の異なる舞台だ。
先ほどルカが言っていたように、たった一瞬の気の緩みが、自らの破滅に連鎖する。
ゲームのようにリトライは無い。一度死んでしまえば、それで全て終わり。
そして、それを回避するためには、自らも戦い、殺すしかない。
「……シグマは、怖くないの?」
わずかに震える声で、そう訊ねられた問い。
だが、その答えをシグマはすでに持っていた。
「怖いよ、すごく。でも、戦わなかったら……もっと、恐ろしいことになってしまうだろうから」
脳裏に浮かぶのは、シレーニェでの一件。そこで見た、あまりにも凄惨な光景。
自らの血だまりに沈む、身体を失くした頸。
ここ数日は、毎日それを夢に見た。そうして悪夢から覚めるたびに、こう思う。
―――もしもあれが、自分の親しい人だったら。
そのIFの先は、あまりにも恐ろしいから考えたことは無い。
だけど戦わなかったら、敗北してしまえば、あるいは悪夢が現実に再現されることになるだろう。
悲劇は望まない。それを防ぐ意思があるのなら、戦って食い止める必要がある。
「心配しないで。ハウルのことは、僕が命に代えてでも守ってみせるから」
シグマは屈託なく笑う。
だが、その一方で、ハウルは彼の発言の意味が理解できずに呆けていた。
あまりにもありふれたキザったらしい発言に思考を奪われたのではない。それよりも、理由はもっと単純なもの。
それに気づいた時、ハウルは慌ててその間違いを指摘しようとしたが、
「そろそろ行こう。僕達も準備を始めないと、本当に遅刻することになってしまう」
シグマはハウルが声をかけるよりも速く、背を向けて先に部屋を出て行ってしまった。
「シグマ……」
取り残されたハウルは、一人彼の名を呟く。そして、どうして互いの認識に乖離があったのにそれがわからなかったのか、反省した。
たしかにハウルは、先ほど「怖い」ということを肯定した。
だが、それはこれから戦場に赴くことに対してではない。いや、実際は怖いのだが、それ以上に怖いものが他にあるのだ。
それは、シグマが戦う事によって、代償に苦しむことになるということ。
先日、ハウルはシグマから儀式剣がもたらす代償について聞かされている。あの時の彼は大したことじゃないと言っていたが、ハウルはそんなはずはないと思った。
なぜなら、シグマの持っている儀式剣の代償は、これまでアスマジアーニャンの王位継承者を遍く殺してきた曰く付きなのだ。なぜそれを受けてシグマが今日まで生きているのかは不明だが、際限なく数を重ねていけば、間違いなく崩壊の末路を辿ることになる。
実際、これまで目の当たりにしてきた彼の戦いぶりは、なんとか意識を保つのが精一杯というものばかりだった。
最果てが何処にあるのか、当人ではないハウルには知る由もないが……それでも、シグマが死んでしまうということは、今のハウルにとってとても恐ろしいことだった。
だけど、彼女の抱く心配はもう届かない。
声を掛けるべきだった者は、もうそこには居ないのだから。
次回はいつも通り1週間後…としたいのですが、風邪を引きまして。
なので、一応次回更新は11/22としておきますが、もしその日に更新できなかった場合は11/25に更新したいと思います。