スイート&ディストラクション
―――アスマアジアーニャン 地下牢獄にて。
ポタリ、ポタリと、水滴の落ちる音が聴こえる。
それに伴い、苦悶に呻く悲鳴のような声も。
窓の一つもない、外界から遮断された小さな空間。壁に掛けられた粗末なランプの灯だけが仄かに暗闇を照らしている。
本来であれば、そこは罪を犯した罪人が住まうべき場所だ。罪人に与えられるべき罰と言うべきか、牢獄の中はろくな手入れもされていない。長年放置したことにより赤く錆びついた鉄格子や、雨漏りにより床部分が浸水しているのがいい証拠となっている。換気扇もついておらず、牢獄内は鼻を突く異様な臭いが充満していた。
そんな、人が住めば短時間で発狂してしまいそうな空間の中、ランプの灯に照らされて蠢く影がある。
それは両手にそれぞれ手錠を嵌められ、鎖で吊るし上げるような格好となっていた。立っている気力もないのか、両手を上に向けたまま膝を付いて項垂れている。
頭を全て覆いかねないほどの大きなローブを羽織り、腹の部分には大穴が穿たれ、その周囲は血で紅く滲んでいた。
もしもハウルがこの場に居れば、恩師の変わり果てた姿に愕然としただろう。
―――牢獄に居たのは、ヅィーヴェンだった。
彼は脱力したまま、抵抗の素振りを微塵も見せない。もしも万全の状態であれば怒りと共に牢獄を破壊していただろうに、もはやその余力すらも無いようだ。
それもそのはず。
ヅィーヴェンはあの日―――森でシグマに敗退してから、その無様を咎められ、ずっとこの場所に幽閉されていたのだから。
与えられたのは僅かな水と食料だけ。それだけでは一日に必要とされる栄養量をとても補えず、日に日に衰弱していった。
だが、それは直接的な原因ではない。彼がここまで衰弱したのには、他の最もたる理由が存在する。
与えられたのは僅かな水と食料だけ。そこに、ヅィーヴェンが至高と称する物は含まれていなかった。
それが絶たれたことにより―――悪夢が現実を侵食する。
「ひ……っ⁉」
およそ彼に似つかわしくない、本気の悲鳴。
怯える彼の瞳が映す視界には、見たこともない歪な蟲が映っていた。
まるでゼリー状にした吐瀉物を細長く絞り出したような、不快さをにじませる色合いにぶよぶよとした肌触りのワーム。それが至るところ―――足元の水たまりや、壁、果ては天井までを隙間なく埋め尽くして蠢いていた。
まるで何かの生き物の中に捕らえられたかのようだ。何百という蟲が一斉に蠢く様は、ある種の胎動を思わせ気色が悪い。
だが、それらは単に蠢いていたわけではなかった。ちゃんと目的地を定め、そこに向かって前進していた。
ヅィーヴェンという、目的地を。
「や、やめろ! 来るな……くるなぁ……っ!」
必死でその場から逃げ出そうとするも、衰弱した身体では手首の鎖をジャラジャラと鳴らすのが関の山。どうあっても逃げられない。
その間に、蟲はヅィーヴェンの身体を這うように昇っていく。体を揺らして振り落としても、すぐに後陣が迫ってきてキリが無い。それどころか、遂には彼の皮膚からも蟲が生まれ始めていた。
あまりの気色の悪さに、ヅィーヴェンの枯れた悲鳴が牢獄内に木霊する。
異様な光景だった。
端から見れば、そのような蟲はどこにもいない。ただヅィーヴェンが牢屋の中で、独りで喚き散らしているだけだ。
「―――よぉ、中々に苦しんでるじゃねぇか」
すると、ヅィーヴェンとは別の声が聴こえた。
声の主は、アスマジアーニャンのクーデターを先導し、遂には王であったロンギディアを退かせた功績を持つ、あの青年だった。
彼は薄い笑みを浮かべたまま、今も苦しんでいるヅィーヴェンの前に立つ。
「あぁ、アぅエア、イあァア、おぉ、おぅよ、わが王よ! おゆるしを、っえう、どうか、ぁ、ごじひを、慈悲をぉ……!」
自身が生み出す蟲の幻影に蝕まれながら、ヅィーヴェンは魚のように口をパクパクと開閉させて赦しを乞う。
その必死の様子がよほど面白かったのか、青年は噴き出しそうになるのを堪えながら、それでも頷いた。
「いいとも。苦痛の時間は終わりだ。これからは快楽をくれてやる」
そして、彼はズボンのポケットから注射器を取り出した。その中には、かつてヅィーヴェンが自身に注入していたものと同じ、透明な液体が充填されている。
それを躊躇なく、鎖で繋がれた腕に突き刺し、またも注入した。
するとどうだろう。あれだけ幻影に苛まれていたヅィーヴェンが、今では微睡の中にいるように穏やかな様相となった。
「おお、これこそまさに、待ち望んでいた至上の快楽……なんて、心地よい……」
ついには涙を流し感涙にむせぶ彼を横目に、青年はもう一つ取り出した錠のカギを、ヅィーヴェンの両手を繋ぐ枷の鍵穴に突き立て解錠した。
支えを無くし、重力に従って落ちる身体。着地と同時に水たまりの飛沫を上げる。
「本当ならここで干物にしてやっても良かったんだ。だが、お前にはまだ価値がある。それが無くならない内は、壊れるまで使ってやるよ」
本人を前に悪びれることもなく、青年は使い潰すことを告げた。
だが、すでに快楽に支配され正常さを欠いた思考では怒りなど生まれない。いや、むしろ使い潰されることにすら悦びを感じてしまう。
起き上がったヅィーヴェンは、そのまま青年の前に膝をついて仰ぎ見る。
牢屋内が薄暗いせいで、ローブの奥にある彼の顔はよく見えない。しかし、嗤っているということだけは確かに感じ取れた。
「いいでしょうとも。もとより私は、この身を御身へ捧げる所存。どうぞご自由にお使いください」
「オーケー、ならついてきな。やるべきことは山ほどある」
ヅィーヴェンの容態など一切顧みない青年は、そうやって牢屋を後にした。その後ろに追随するヅィーヴェンだったが、長い間幽閉されていたことで体力も戻っておらず、自然と這うような形となっている。まるで主の後を必死に追う老犬のように無様だった。
「さて、目下の目標としてはブツの代替え品の開発と量産。が、それまで退屈に待ち惚けてるのもつまらねえ。王位継承戦が王になるためのPR会場だって言うんなら、最低限の痕跡は残しておかないとな」
「であれば、是非とも私にご命令を。此度の失態、必ずや挽回してみせましょう」
「いいや、お前は開発の側に回ってもらう。ここ数日でいろんな奴を見てきたが、中でもお前は適任だろうよ」
「ご命令とあれば」
「で、痕跡の方は脳筋どもの役割だ。こっちはただただ蹂躙するだけでいいし、変に知能も必要ない。ちょうど頭をやられたやつらもいるし、処分としては好都合だ」
「その筆頭は《夜鴉》部隊十五番隊隊長のキュクロプスに任せると良いでしょう。あれは図体のデカさと馬鹿力のみで隊長格へ上がった器、まさしく御身の希望に相応しい者です」
「それだけ単細胞な奴なら、いくらでも替えが利きそうだ。オーケー、そいつに任せるとしよう」
正しき王の在り方など、彼らは微塵も求めていない。
従者は王と定めた者の君臨を、主は自身の悦楽を満たす世界の創造を。
それぞれが、それぞれの望みだけを求め続けているのだから、誰かを思う心の居場所など最初からあるはずが無かった。
階段を上り、地下牢へ続く道から外に出る。久しぶりに味わう外の空気に、ヅィーヴェンは感慨深く深呼吸をしていた。
「それじゃ、お前にはブツの開発を任せるぜ。底が尽く前に終わらせろよ」
「必ずや」
「俺は今からロンギディアの所に行ってくる」
「……前王の所へですか? アレは今、どのような扱いを?」
「拷問、もとい尋問中だ。こちとら儀式剣の作り方を知りてぇんだが、あの野郎なかなか口を割らねぇで難儀してる」
「たしかに儀式剣の生成に関する魔術は、王家にのみ通ずる秘法。この私ですら一端の知識も持っていないほどですからねぇ」
「ま、これも時間の問題だがな。すでに致死量ギリギリをキメてやったし、あとはあいつが泣いて乞いてくるまで待つだけだ」
「なるほど。……して、贄はどうするつもりですか」
少しばかり真剣さを増した声色。
訊ねたヅィーヴェンの問いに対して、青年は一切の躊躇を見せることなく、こう言った。
「ロンギディアでいいだろうよ。国の一つも守れなかった憐れな前王が、この国に身を捧げる最後に機会だ。あいつも儀式剣になることを拒むのはきっと出来ねぇさ」
そして。
ヅィーヴェンと別れ、懲罰房に監禁しているロンギディアの下へ向かう青年。その足取りはとても軽いものだった。
頭の中で描く妄想は、枯れた老人が惨めに泣き叫びながら苦しむ様。中々手に入らないそれに苛立ちを抱えることもあるが、だからこそ手に入った時の快感は甘美なものと考える。
手に持つのはヅィーヴェンに与えたものと同じ注射器。今日もこれを使って、ロンギディアの心を圧し折っていくつもりだ。
快楽をもたらす魅惑の雫は、代償として破滅をもたらす。
それをまさしく悪魔の所業と呼ぶにふさわしい。
ならばそれを使い人々を破滅に導く青年は、紛うことなく悪魔なのだろう。
次回は10/11更新予定です
もしかしたら間にG.O.Dの更新も入るかも?