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もう一度、あの場所で

 夜が明け、陽が沈む繰り返しを二度。


 今宵のリューズビーリアは雲の合間に星空が見える雨上がりの天気だった。まだ完全に陽の光を浴びていないため、闇に染まった芝生の地面は軽く濡れている。


 その地を踏む一人分の足音が、夜の世界に木霊している。


 その者は履いているブーツが葉露に濡れることも厭わず、悠然と目的地を目指し進んでいた。


 シグマである。


 白地のシャツに紺色の半袖ジャケットを羽織り、下は栗色のデニムを履くその姿は、どう見ても外出の格好だ。断じて寝ぼけて徘徊しているのではない。


 既に日付が変わったこの夜更けに、彼はどこに行こうとしているのか。


 目的は二つあった。今向かっているのは、その内一つを果たせるであろう場所。幸いにも、見張りの守衛に見つかることなく辿り着くことはできた。


 城を囲む防壁、それを支える柱の一つ。その裏手にある扉を潜り、内部の梯子を上っていく。

 


 あの日から、一度としてルカとは話せていない。それどころか顔すらも見ていない。


 理由は単純。状況や場面による擦れ違いが多かったからである。……それが偶然によるものか、意図的なものかはわからないが。


 ともかく、シグマはきっちりと彼女と話がしたかった。


 あの日、ルカは最悪の選択を選ぶことなく、リューズビーリアに戻るときにはいつも通りの冷静沈着な様子に戻っていたらしい。先駆けの知らせでラティスの不幸を把握していたレオンたちも、変わらない様子に驚いたと聞いている。


 それが表層だけを取り繕った仮初でも、まともな話ができる状態ならば、と。


 シグマはこの夜に、ルカと話をすることに決めた。


 叶うなら、誰も割り込むことがない二人きりで。それも素のルカと話をできる場所が望ましい。


 該当する場所は一つだけ心当たりがあった。



 梯子を上り切り歩廊に続く穴から顔を出して、左右を見渡す。


 するとシグマの居る位置から右に数メートル離れた位置に―――確かにルカは居た。


 いつかと同じ魔法瓶に口をつけ、静かに空を仰いでいる。


 実のところ、シグマは心の奥底で、姿を見せないルカのことを不安に思っていた。今日まで一度も顔を見ることがなく、本当はあの日に最悪の方を選択したのではないかと、気が気ではなかった。


 だが、その不安は、彼女の姿を確認したことで無事晴れる。


「ルカ」


 名前を呼ぶのに、どうしてか勇気が要った。


 呼ばれた彼女の身体がびくりと揺れる。やがて、おそるおそるといった様子でこちらを向いた。


「シグマ……」


 呆然とした居住まい。こちらを見る眼には、まだ少し翳りの色が見える。


 けれどそれについては言及することなく、シグマは彼女の方へと近づいていく。


「どうして、ここに?」


 いつか、ここで初めて逢ったときにシグマがした問いを、今度はルカが訊ねる。


「ここに来たら、君に逢えると思ったから」


 以前のように気晴らしのためではなく、今度は明確な目的がある。それを彼は包み隠さず告げた。


 わずかにルカの目が見開く。やがて、何を思ったか可笑しそうに微笑んだ。


「奇遇ね」


「え?」


「私も同じ理由よ。ここに居たら、貴方が来るような気がしていたの」


 予想だにしない両者の目的の一致にシグマは目を丸くする。


 その間に、ルカは淡々とこの場所に来るまでの経緯を語り始めた。


「……正直な話、貴方に逢うことが怖かった。あの時突きつけた理不尽な物言いは、どれだけ貴方を傷つけたのか、それを知ることが何よりも恐ろしかった。だからなるべく、貴方と出逢わないように今日まで逃げ続けていた」


 やはり、シグマが一向にルカと顔を合わせられないのには理由があった。


 避けられていたことに少しだけ心が痛んだが、シグマは何も言わない。なぜならここで出会えたということは、彼女の心境に何かしらの変化があったからだ。


「でも、そんな事を続けていても終わりはないって理解していたし、何よりそんな愚行を犯すこの私自身が許せなかった」


 高い誇りを持つルカにとって、相手の心配をするよりも自身の保身に走ったことは、己がしでかした行為とはいえ耐え難いものだろう。


 けれど、それなら。


「私は貴方に謝らないといけない。……だから、ここに……」


 そこで言葉が詰まったのは、きっと彼女自身がその事実を痛感しているからだ。


 なぜなら、ルカはここに来るまでずっと逃げていたのだから。


 先ほど言っていたように、両者がここで出会えたのは全くの奇遇。双方が約束を交わしていたわけではなく、それぞれが考えた果てに行動を起こして出来た偶然だ。


 もし、この日―――シグマが歩廊に向かおうという気でいなければ、彼女はここで独り、ずっと待ち続けることになる。


 本当に謝罪の心があるなら、彼女が自らシグマの下へ赴かなければ意味が無いのだ。


 それでもルカがそうしなかったのは―――そうできなかったのは、きっと。


 ―――貴方に逢うことが怖かった。


 シグマは彼女の言葉を頭の中で反芻する。その意味を理解した上で、もう一度彼女を見た。


 思いつめた表情に、噛み締めた唇。全体を良く見れば、僅かに震えているのがわかった。


 同じような様子を、前にも見たことがある。


 その少女は罪の意識に苛まれ、最後には殺してくれても構わないと自ら口にするほど、追い詰められていた。怯えたように泣いていた。


 あの時と同じ―――ルカは、シグマに拒絶される恐怖に怯えている。


 そうされるだけの事を彼女はした。自分の責任を棚に上げて―――いくらシグマがそそのかしたのだとしても―――全てを彼のせいにして罵倒した。


 その所業に対して激怒する権利をシグマは持っている。


 だが、不思議と怒る気にはなれなかった。


「ねえ、となり、いいかな?」


「え? ……ええ」


 代わりに、話を遮るようにしてそう訊ねた。思わぬことを訊かれてルカは戸惑っている様子だったが、それでも同意は得られたので遠慮なくシグマは彼女の隣に腰かける。


 少し身じろぎすれば互いの身体が当たってしまうほどの至近距離。それを意識しないよう努めながら、シグマは静かに口を開いた。


「たしかに君に最低って言われた時は、さすがの僕もきつかった。でもね、同時にちょっとだけ安心もしていたんだ」


 どんな罵詈雑言も覚悟していたルカは、思わぬ言葉に意味がわからないという表情をしていた。


「初めて君の人間らしい弱さを見た気がする」


「私の、弱さ……?」


「うん。……こう言うと怒るかもしれないけど、僕は君が同じ人間だとは思えなかった。何を比べても勝てない、神のような存在だって思っていた」


 それはある意味において、バロルの考えと似ていた。


 バロルがルカたちを畜生と同視していたのなら、シグマはルカたちを天上の存在と同視していた。


 軽蔑と崇拝。そこにある想いは正反対であるものの、どちらも『自分とは違う存在』として扱っている部分は同じである。


 けれど、両者において決定的に異なる点があるとすれば、それは。


「でもあの日、君の弱さを目の当たりにして、やっとそれが間違っているってことに気づいたんだ」


 シグマは乖離の溝を埋めることに成功した。だからこそ彼女の隣に臆することなく座ることができた。


 些細な変化かもしれないが、少なくとも以前のシグマでは畏まってできなかったであろう芸当だ。それは彼が真にルカと対等でいられることを示している。


「だからルカ、まずは君を同じ人として扱えなかった僕の不甲斐なさを謝罪させてくれ。そして叶うなら、どうかこれからも同じ人として一緒に戦ってほしい」


 向き合ったシグマに深々と頭を下げられ、ルカは呆然と、何も言えずにいた。


 覚悟していたのは罵詈雑言の嵐。最悪、暴力を振るわれることも当然だと思っていた。


 だが蓋を開けてみれば、なぜか相手から謝られている始末。シグマがよくわからない思考回路をしているのは前々から感じてはいたが、今回はさすがに予想することもできなかった。


「…………ぷっ、」


 しかし、時間をかけて事態のおかしさを飲み込み、思わずルカは噴き出してしまった。その声を聴かれシグマが顔を上げるが、込み上げる可笑しさは止められない。


「なによそれ、おっかしい。ふふふ、あはははは」


 もうそこに、厳格で冷酷なルカライネ・エグニカルス・ファルサーニャの面影はどこにも無い。


 ただ年相応のあどけなさで、少女は心から笑っていた。


「はーあ、本当に、貴方を相手に真面目に考えていたのが馬鹿みたい」


「……それ、褒めてるの?」


「褒めているわよ。この上なく、心の底から」


 そう称されたことに何か釈然としないシグマだったが、告げた本人が実に朗らかなようすだったので、深くは考えず良しとした。


 けれど、ここで会話を終わらせるわけにはいかない。


 シグマの謝罪に対する答えは、まだ貰っていないのだから。


「それで、ルカは僕と一緒に戦ってくれる?」


 もう一度、その問いを訊ねた。


「……その前に、私からも一つ、訊かせて」


 そう言ったルカは、いつも通りのまじめな表情に戻っていた。そして深紅の瞳を彼へ向ける。


 真剣さを物語るその眼差しは、少しだけ揺らいで見えた。


「王位継承者として召喚した以上、私は貴方を絶対に王にしてみせる。けれど、どのような王になるかは貴方次第よ。だからこれだけは教えて。貴方が目指す王の在り方は、どんなものなのかを」


 それは、幾度となくシグマが自問してきた命題だ。


 歴史を振り返ってみても、王の在り方は千差万別に存在する。その中でどのような在り方を選択するのか。或いは、どのような在り方を自ら開拓するのか。


 この世界に来て、何度も考えた。それでも、


「……それにはまだ答えられない。だって僕は、まだ何もわからないから。だけど―――」


 答えは未だ見えず、わからないままに進み続けた。


 けれど、その道中で何も得られなかったわけではない。少なくとも今のシグマには、王となるにあたって断言できる事柄が一つだけ存在する。


 ……屍山血河の景色を創り上げ、我こそが正義だと疑いもしない、真なる外道。


 その在り方を見せられた時、シグマの中には一つの答えが産まれた。


「一つだけ確かなのは、僕が目指したい王はヤツとは違うということだ」


 人を不幸へと誘い、それを嬉々として持て囃すような王など、シグマは絶対に望まない。


 それはきっと、彼が力を手にした理由とは最もかけ離れたものだろうから。



「僕は多くの人を幸せにできる王になりたい。曖昧過ぎる答えだけど、それが今の僕の目指す在り方だ」



 他者の不幸よりも幸福を望む、シグマらしい答え。


 だが、それを聞いてもルカの表情は晴れなかった。


「……正しい答えね。でも、それを実現するためには、まず貴方が正しくある必要がある。何もできない者が語る理想なんて、どれだけ素晴らしくても偽善よ」


「わかってる。だからこそ、君に力を貸してほしい」


「私に?」


 シグマは頷いた。


「そもそも僕は王政について何も知らない。それは王を目指す上で致命的だと思うんだ」


 国を治めるにあたって、王政とは最も国に影響を与えるものだ。それが示す指針によって、国を発展させたり、あるいは転覆させたりすることもある。


 そのような絶大な効果を及ぼす要因の手綱を握るのは、国の長たる王である。


 もし王が知識も持たず自由気ままに振り回せば、最悪国が亡びる可能性だってあるだろう。実際、過去に無能が王になったことで、国が破滅に追いやられるといったケースも存在する。


 それをシグマは望まない。ならば、それを回避するためには、


「君に教えてほしい。王政だけじゃない、これから先、王として必要とされるもの全てを、君の持っている知識の全てを、僕に教えてほしいんだ」


 その頼みに、ルカはすぐには答えられなかった。


 なぜならシグマの言葉には迷いが無い。本気で彼女の成す王政が正しいと信じている。それがどうしても疑問だった。


 シレーニェに赴いてから、私は失敗しかしていないのに。


「どうして、私の王政が間違っていると思わないの……?」


 自分でも嫌になるほど、弱々しい声だった。


 だが、シグマは何を当然の事をと言わんばかりの顔で、


「それは今まで平和な国(リューズビーリア)を統治してきた君が訊くことじゃないと思うな」


 そう言った彼の言葉には、ルカに絶対の信頼を寄せる所以が確かにあった。


「この国は立派だ。誰もが楽しそうに日々の生活を送っている。でもそんな『当たり前』を作っているのは、紛れもなくルカの政務によるものだろう? 少なくとも僕がやったんじゃ一週間も保たずに台無しになる」


 かつてレオンも言っていた。姫君に傷を付ければ、リューズビーリアの全員が敵に回ると。


 それは裏を返せば、彼女が国民の多くから愛されているということだ。


 誰もが幸福でいられる『当たり前』を築きながら、その上で万人の支持を得る。


 それはおそらく、シグマが望む理想の最果て。


 だからこそ彼は、この国を守り続けるルカに教えを乞うたのだ。


「―――――」


 そのような賛辞を真っ向から言われ、ルカは何も言えずにいた。


 別に褒められるようなことではない。国の政務を行うことは、産まれた時から紐づけられた責任だ。それを行ってきた結果が、今のリューズビーリアというだけ。


 そうすることを当然としてきたから、誰かの評価など気にしたこともなかった。


 ああ、でも。


 初めて貰ったその賛辞を受けて、不思議と心が軽くなった気がした。


「……明日の朝、八時までに執務室に来なさい」


 ややあって、ルカはそう言った。突然の時間指定にシグマが首を傾げると、


「貴方の想いは伝わった。だから決めたわ。私は貴方を()()()王にする。そのために、いろいろと教えてあげるわ」


 ルカは柔らかな笑みを携えて、シグマの頼みを了承した。


 つられて、彼も口端が緩む。


「わかった。ありがとう」


「言っておくけど、遅刻は厳禁だからね?」


「肝に銘じておくよ」


 最後に軽口を交わして、ルカはその場から立ち上がった。


「時間かい?」


「ええ。そろそろ行かないと、まだ仕事は残っているもの」 

 そういうことなら、と、シグマは止めたりはしなかった。


 歩廊の上を流れる夜風を浴びながら、梯子へ向かって歩く彼女の背を見送る。


 その最中、一度だけルカは立ち止まって、こちらに振り返った。


「遅くなってしまったけれど……貴方に与えた不当な仕打ちの全てを謝罪させて」


 そして、深々と頭を下げて謝罪した。


 それを見て、シグマは微笑みながら頷く。


 もとより糾弾するつもりはない。だから彼女が謝罪したのなら、彼は何気なくこう言うだけだ。


「いいよ、もう気にしないで」


 赦しの言葉を受けて、ようやくルカは面を上げる。


 そこに、始めに見た翳りのある彼女の色はどこにも無い。


 シグマが憧れた気高き彼女の微笑みが、誇らしく咲いていた。


「ありがとう」


 許してくれたこと、そしてそれ以外の全てに対して、ルカは礼を言った。


 そして足元の梯子に足を乗せ、丁寧な所作で穴を下っていく。


「ねえ、シグマ」


 あと一段下れば頭も穴に埋もれると言ったところで、ルカは彼の名を呼んだ。


「少しだけ安心したわ。私の召喚した継承者が、あんなやつではなくて」


 彼女なりの、彼女らしい評価。


 最後にそれを告げて、今度こそルカは歩廊から姿を消した。


 思いもよらない言葉を受けて、シグマはしばらく梯子の方を見ていた。


 だが、やがて可笑しそうに破顔すると、満足そうに空を仰ぐ。


 いつの間にか雲は流れ、宝石をちりばめたような星空が無限に広がっていた。


「僕も、君に召喚されて本当によかったよ」


次は9/27に投稿したいと思います

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