殺し屋の再誕
かつかつと、地下へと降る足音が、狭く暗い通路に反響する。
そこはシレーニェ郊外の小さな林にある、中央に造られたこれまた小さな屋代。中には何かしらの神を祀っていると思われる祭壇が存在していた。
今、テイラーが進んでいるのは、その祭壇の後ろに隠れるようにしてあった地下への階段だった。
手に握られているのは、一枚の羊紙。自室に戻った時、いつの間にかテーブルに置かれていたそれには、手製の地図が記されていた。未だこの世界の土地勘に疎い彼がこの場所に来られたのは、この地図に寄るところである。
地図に差出人の名前は無く、ただ一言だけ―――「一人で来てほしい」
罠だとは思わなかった。元から差出人には心当たりがあったし、仮に罠だったとしても、その時はその時だ。
死を恐れたことはない。
そう思う機能は不要と判断されたから。
初めから殺し殺されるために造られたテイラーにとって、任務先はいつだって致死性の罠だらけだった。最初の方は純粋に恐怖していた時期があったのかもしれないが、幾度の死地を超えたことによって兆しすら見せなくなった。
だからこそ見通しの悪い通路を、灯りの一つも持たずに躊躇いなく降りていく。
道すがら、いつかの出来事を思い出した。
あれは惨劇の日。後先も考えず無謀に突撃していったシグマの背を追いかけて、そうして出くわしたあの光景。
それを見て何を思ったか、もう覚えていない。いや、きっと何も考えてはいなかっただろう。
殺された人間を見たのはこれが初めてではなかった。殺した人間も含めれば、もっと多くの死を見てきた。その果てに自分の死に対する価値観は麻痺したはずだった。
ではなぜ、彼女の死を目の当たりにして、敵が目の前にいるにも拘らず思考を放棄してしまったのか。そこまで考えてようやく理解した。
死を悲しんだことはない。
使い捨ての自分には過ぎたものだったから。
初めて経験した親しき人間の死に、どんな感情を抱けばいいのかわからなかったのだ。
そう考えると、自分もあのクソ野郎に違わず中々の外道だと自虐する。
だけど起きたことを悔やむ気はない。どう言い訳をしたとしても、あの場面で涙が出なかったことは事実なのだから。
やがて、階段の先に淡い薄緑の灯りが見える。長い通路にようやく終わりが来たらしい。人一人がやっと通れる小さな入口を抜けて、テイラーは中へ入った。
そして広がる光景に、一瞬とはいえ目を見張る。
通った入口の大きさとは裏腹に、中はあまりにも巨大な空間となっていた。
見上げるほど高い天蓋。そこから垂れるようにぶら下がっているのは鍾乳石であり、不思議なのは、それに付着している何かが淡い薄緑色の光を発していることだ。よくよく見てみれば鍾乳石だけでなく、足元の地面でも所々に点在している。
だが、それらが発する光を集めても微々たるものだ。この巨大な空洞を薄暗い程度にまで照らすには到底足りない。
ならば、外の明かりの届かぬこの場所で、手先を確認できるほどの光を発しているのは何か。
その答えは空間の先にあった。
巨大な空間の半分もの体積を占めている、一本の大木。樹齢千年はゆうに超えるであろう太さを誇るそれは、洞窟内に張り付いていた物質が放つものと同じ、淡い薄緑の光を発する花を満開に咲かせていた。
名をユグドラシル。シレーニェに流れる水の全ては、この大木が濾過し祝福を与えることによって人々の暮らしに還元されている。
そんな国の心臓部とも言うべき木の下に、人影が見える。
おそらくは、彼を此処へ呼んだ張本人。
こちらに見向きもせず屈んでいるその背に、テイラーは声をかける。
「イオリア」
呼びかけたことで、ようやく彼女はテイラーの方を振り向いた。
「……あ、テイラー」
……浮かべた微笑みが痛々しい。憔悴を誤魔化しているつもりなのだろうが、まるで隠しきれていない。
けれどテイラーは言及せずに、彼女の下へ歩を進めた。
「ごめんなさい、気づきませんでした」
「気にするな。こっちも今来たところだ」
そこで一旦、会話は途切れる。
こういう時、どのような話をすればいいのかわからない。本当なら軽いジョークでも言って場を和ませるべきなのかもしれないが、どうしてもテイラーにはその気が起きなかった。
そのため、散々迷った挙句、単刀直入に真意を訊ねることにした。
「どうして、ここへ?」
手に持っていた羊紙をイオリアに見せる。描かれた簡略化された地図を見て彼女は苦笑すると、その脇にある一文を指さした。
「誰も連れてきてはいないですよね?」
「なるべく人に会わないようにしてきたし、おそらく大丈夫だ」
「良かった。ここに入ったのがバレたら大目玉でしょうから」
不穏な物言いに、思わずテイラーは首を傾げる。
「ここは、本当は王族であっても入ったらダメなんです。シレーニェを守護してくれる神様が眠っている場所だから、無闇にその眠りを妨げてはならないって」
「……意外だな。神様がいるというのはともかく、イオリアはそういう戒律を絶対に守る奴だと思ってた」
すると、彼女は恥ずかしそうに頬を指で掻いた。
「そうでもないですよ。私、こう見えても悪い子なんです。それに、ここに神様がいないっていうことは、子どもの時から知っていましたから」
「というと?」
「私が四歳の時に、姉さんに無理やり連れてこられたんです。『神様なんているわけなし! 居たらの居たで化けの皮を剥いでやるわ!』って、大人たちには内緒でこっそりと」
「……なんというか、あいつらしいな」
「ええ、あの頃から姉さんは姉さんのままでした。……そんな姉さんとここに来て、ここを二人だけの秘密にしようって約束したんです」
「それは……」
「稽古や勉強に嫌気がさした時は、いつも姉さんと一緒にここに隠れて遊んでいました。最後はお城に帰ってこってり叱られましたけど、今となってはそれもいい思い出です」
イオリアは辺りを見渡す。
感傷に浸っているその瞳には、きっとテイラーが見ているものとは違う時間の光景が映っているのだろう。
「ここは私たち姉妹にとって、とても大切な場所なんです」
噛み締めるような言葉。
やがて彼女の視線がある一点で止まる。テイラーもその先を追って見れば、そこにはいくつかの石を積み上げて出来た壇があった。その前には水晶飴が乗った小皿と、小さな花の束が置かれている。
花の色は浅碧。ラティスの頭髪と同じ色。
「……墓か」
「何もしないまま姉さんを放っておくのはかわいそうですから。本当なら作ったらダメなんですけど、ここなら人も来ませんし、姉さんの死を悟られることもないと思います」
ラティスの死はシレーニェの国民に開示されない。それは今後も王位継承戦に挑み続ける上で、不要なリスクを負うことを避けようとしての判断だった。当然、彼女の死が露呈してしまう墓が建つこともない。
ともすれば彼女の尊厳を汚すようなその行いも、イオリアは分けもなく了承した。国の未来を左右する問題に、矮小な私情は不要だとして。
そえでもやはり、イオリアとしても思うところはあったのだろう。
作られた手のひらほどの墓石は、表面の汚れを拭き取って丁寧に積まれている。
「テイラーをここに呼んだのは、このお墓のことを教えておくためです。貴方にだけは、この場所を知っておいてほしかったから」
「いいのか? ここはお前たち姉妹だけの場所だと言っていたのに」
「構いませんよ。きっと姉さんも貴方が来てくれた方が喜びますから」
「そういうことなら、わかった」
ありがとうございます、と、イオリアはまた微笑んだ。
先ほどから変わらない、その笑みを。
テイラーは何と返せばいいのかわからず、言葉に詰まる。ここに来て自身のコミュニケーション能力の低さを実感することになるとは思いもしなかった。
これまで人と人との関わり合いにあまり言葉は交わしてこなかった。相手はそれを望んでいなかったし、彼としても必要とは思わなかったから、最低限の連絡事項だけを交換して終わりだった。
だけど、今はそうじゃない。
告げたい思いなら頭の中でごちゃつきながらも存在している。テイラーはそれを言葉にして口にしたかったが、どういう言い回しが適切なのか、その考えが先行して上手く紡げないでいる。
「それじゃあ帰りましょう」
その間に、イオリアはテイラーの脇を通って出口に向かっていく。
もう時間はない。告げる思いはこの場所でなければ意味が無いとわかっている。だけど経験が浅いから正しい言い方がわからない。この場面において何が適切なのかはわからない。考えても考えても、頭の中のごちゃつきをかき回すばかり。正解には辿りつけない。
このまま生まれる葛藤と戦い続けていれば、夜が明けるとさえ思われた。
―――君がやりたいことをやればいいんじゃないかな。
その時、いつかの言葉が再生された。
同じ境遇でありながらも、その出生には大きな隔たりを感じさせられたあの男。彼から授かったアドバイスは、ここで色を放つ。
一瞬だけ、テイラーは口端を緩めた。そして心の中でたった一度の感謝を述べる。
―――なんてことはない。始めから正解なんて無かった。
真理に辿りついたことで頭の中がすっきりとした。同時に黒く狭窄していた視界を晴れやかに広がる。
ふと、ラティスの墓が目に入った。
イオリアが自己満足と称して造った手製の墓。そこにラティスが埋葬されているわけではないのだから、当然彼女の魂もあるはずがない。
けれどテイラーは、真剣そうに肯いた。
まるで誰かから意志を託されたとでもいうように。
「イオリア」
入ってきた時と同じ、テイラーはもう一度彼女の名前を呼んで、振り返った。そこにはキョトンとこちらを見返すイオリアがいる。
迷う必要はない。
テイラーは真っ直ぐに彼女の眼を見つめながら、自分の言葉を口にした。
「もう無理をしなくていい」
「……え?」
戸惑いの声を上げるイオリア。
それでも構わずにテイラーは続けた。
「ここには俺とお前の二人しかいない。お前が何をしても責める奴は誰もいないんだ。だから平静を装うことが必要とされていても、ここまでそうする必要はない」
「……なに、何を、いっているんですか……」
誤魔化しているつもりでも、イオリアの声は震えている。その顔には、確かに恐怖の色が存在していた。
閉じた心が再び開きかけていることに対する、恐怖を。
だが、そのままではいつか壊れてしまうと思ったから。
「もう自分の心をひた隠しにするな。せめてここでは本当のお前らしくあってくれ」
命令ではなく、意見ではなく。
ただ純粋な望みを、テイラーはイオリアに告げた。
「違う……ちがうんです……わ、わたしは……」
イオリアは首を横に振りながら後ずさる。
テイラーの言葉を拒絶しているのではなく、それを受け入れてはならないと必死に自分に言い聞かせているかのようだった。
「決めたんです……姉さんと父の代わりに、この国を背負うって……だから、だから……弱いままの私じゃいられない。みんなに認められる私にならないと―――!」
「だったら!」
言葉を遮り、テイラーはイオリアが後退した以上に前へ進む。
身を竦ませ、今にも逃げ出しそうなる彼女の手を取り、その目を見たまま彼は宣言した。
「俺が認める。お前の強さも、お前の弱さも。お前の全てを受け止めてみせる!」
その意思の強さに、呆然とした。
イオリアは自分に言い聞かせることすら忘れて、眼前にある彼の黒い瞳に引き込まれる。
嘘を微塵も感じさせない、揺らぎのない瞳。
それを見つめている内に、縋りたいという思いが強くなっていく。どれだけ自分を律しても、その思いは膨れていって。
「……ぁ……」
やがてそれは一筋の涙となって、彼女の頬を伝った。
「いい、んですか……わたしは、貴方に縋っても……ほんとうに、いいんですか……?」
「ああ、そうしてくれたら俺も嬉しい」
それが、最後のくさびを外した。
イオリアは涙をあふれさせながらテイラーの胸に飛び込むと、堰を切ったように声を上げて泣き出した。
「…………ぁあぁぁ、うあぁあああぁああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ……………」
最愛の人にもう二度と逢えない悲しみの音が、空間を満たしていく。
何度も姉の名を呼び続ける〝一人の少女〟を、テイラーはゆっくりと抱きしめた。
強く、それでも確かに。
この腕の中にある温もりを、失いたくないと思った。
先ほどは全て受け止めると言ったが、それでももう彼女に泣いてほしくないと思った。
だからこそ、テイラーは今一度誓う。
この先、彼女を脅かす敵が現れた時は、一切の容赦なく手にかけると。
王位継承戦において、彼女のために戦い続けると。
この世界でも戦い、殺し続けることを決意する。
恐れは無い。躊躇いは無い。なぜなら彼は、生粋の殺し屋なのだから。
死を与えることを、苦としたことはない。
それだけが、テイラー・エルバトリオとしての存在意義。
ユグドラシルの枝木から、光の花びらが舞い落ちる。
雪が降る様にも似た神秘的な光景の中で、少女の泣き声はある種の産声のように響いて。
―――そうしてこの日、一人の殺し屋が再誕した。
次は9/20に投稿したいと思います