火の鳥のように
「僕だ」
静かに、それでも確かな意志を携えて、シグマはそう言った。
ルカの崩壊を止めるためならどんな手段も厭わないと、胸の内で決意して。
「あの時……僕がテイラーに会った時に、無理やりでもラティスさんを止めていればよかったんだ。そうすれば、あの悲劇も起こらなかったはずなんだから」
まさしく詭弁。それが糾弾されるのなら、誰かに関わった時点で悪と認定されるようなものだ。
だが、今のルカにとっては、縋りつくのに十分すぎる悪だった。
「そう……そうなのね。なら、貴方がラティスを殺したとでもいうのかしら?」
「ああ、そうだ。間接的とはいえ、僕が殺した。あの悲劇は、僕にも責任の一端がある」
「だから、ラティスの死を見ても取り乱さなかったの?」
心臓を直に掴まれた思いがした。
ルカが言っているのは、おそらく地下の通路での出来事だろう。あの時のシグマは、たしかにラティスの死を目の当たりにしても立ち直りが早かった。同じ場面に出くわしたテイラーは、少なくとも時間は掛かったはずなのに。
その理由は、彼自身自覚している。しかし、口にするには躊躇われた。
それはきっと、命の価値が平等でないことの表れになってしまうだろうから。
「お願い、嘘は要らない。求めてない。だから、何一つ偽りのない答えを言って」
だけどルカは、彼の葛藤も考慮せずに催促してくる。
沈黙を貫くよりはマシだろうと無理やり納得して、シグマは断腸の思いでその理由を答える。
何より、今のルカに対して嘘は吐きたくないと思ったから。
「……たしかに、あのとき僕は、ラティスさんが死んでいることにあまり関心を持てなかった。ただそれよりも―――君が無事だったことに、心の底から安心したんだ」
何一つとして虚飾を施していない思いを告げる。
死んだラティスのことよりも、ルカが生きている方が重要だと。
命の平等を、冒涜する。
「……なら、貴方はあの惨劇を前にして、場違いにも安堵していたと。……ラティスの死はどうでもいいものとして映ったと、そう言うのかしら……!」
言葉の端々に怒りの気配が見えた。
当然だ。今のシグマの発言は、ラティスの尊厳を貶したにも等しい。
もし、この後のことを考えたら、彼は今すぐにでも自身の発言を撤回するべきだった。そうすることで、少なくともこの場は切り抜けられるはずだった。
でも、もう後戻りは選択しない。
彼女を元に戻すためには、悪であることを貫き続ける必要があるのだから。
「そうだね、僕にとってラティスさんは出会って間もなかったから……こんな言い方は酷いかもしれないけど、君ほど大切な人じゃなかったんだ」
言いながら、心の内で亡きラティスに謝罪する。
別に嫌っていたわけではなかった。むしろ好意的に思っていたりもした。
けれど、彼女とルカを天秤に乗せた時は、後者の方に傾いた。それだけだ。
あまりにも的外れすぎる理由は、ルカから言葉を奪う。怒りに震えているのか、あるいは呆れているのか。シグマの位置からは表情すら読めない。
けれど、
「……ふっ、ハハっ、ハハハハハハハハハハハハハハハ…………」
枯れたような笑い声が、降り注ぐ雨の中、空しいほどに響き渡る。
よくシャルベリアが聴かせる傲岸不遜なそれとはまったく別の、巡り行く事態に諦観を覚えてしまった者の笑い声。
ここまで追い詰めてしまったのは、紛れもなくシグマだ。それが意図的であったとはいえ、この声は罪悪感を増幅させる。
だが、間違いだったとは思わない。
ルカは今、家族を守れなかったことに責任を感じて、自らの心を押し潰されそうになっている。少なくとも先の彼女の言葉から、シグマはそう推測した。
ならば、その圧力を加えているもの―――自分が守れなかったという負い目を、他の誰かのせいにして投げつければ、解消までは行かなくとも軽減されるはず。
少なくとも、たった一人で背負いこんでそのまま自壊していくという最悪のケースは回避できるはずだ。
下手くそなりに考えた、あまりにも不器用な矛逸らし。
ひとしきり笑った後、ルカは首だけを回してシグマの方を向いた。
なんて歪な笑い顔。笑っているのは口元だけで、雨に濡れ下りた髪の隙間から覗く双眸は、まるで幽霊でも見たかのように見開かれている。目尻から流れる水線は雨か涙か、果たしてどちらであるか区別がつかない。
その壊れた人形のような、泣き笑いの表情を浮かべながら、
「―――最っ低」
容赦なく、シグマの罪を糾弾した。
思わずシグマの喉から嗚咽のような音が鳴る。
たった数秒しかない短い言葉の中には、目を背けたくなるほどの憎悪と怨嗟が籠められていた。
それだけで、自身の心が軋みを上げているのがわかる。
覚悟は決めていたつもりだった。どんな罵詈雑言を浴びせられようとも、受け止めるつもりだった。
それでもやはり、つらいことには変わりなかった。
身を縛る苦しみに、たまらず両の手を握りしめる。
ああ、どうしてこんなにも、彼女の声が重く苦しいのだろう。
「……もう行って。少しの間で良い、私を独りにさせて」
シグマの身を案じようともしない―――違う、案じる余裕さえないルカが、静かに拒絶の言葉を吐いた。
もうこれ以上、シグマも付き従うつもりはない。
やれるだけのことはやった。後は、彼女がどう選択するかだ。
そしてシグマは背を向けて、重い足取りでその場から離れていく。
「ルカ、僕は」
その途中で、もう一度だけ。
偽りのない本心を告げた。
「―――君を信じてる」
◆◆◆◆◇
「シグマ……っ!」
キャンプ地への帰路の途中、離れた位置から事の顛末を見守っていたハウルが駆け寄ってきた。
心配そうに大丈夫と尋ねてくる彼女に、シグマはなんとか微笑みを返す。けれどそれは、誰が見ても無理をしているのがわかってしまうようなものだった。
「……もう大丈夫。今はルカの言う通り、一人にさせてあげよう」
「でもあれはひどすぎるよ! シグマは何も悪くないのに……!」
ルカが見せた八つ当たりを、ハウルは不当な扱いだと憤っていた。
けれど、シグマは首を横に振る。
「そうさせたのは僕だし、それを望んだのも僕だ。ルカは何も悪くない」
彼自身、心に負った傷は大きいものだろうに、それでも平常を装ってハウルをなだめる。
彼女としては納得のいかないことだったが、当の本人が問題ないと言っている以上、深く口出しすることは止めた。
「でも、本当にあのままで大丈夫なのかな……?」
キャンプ地への帰路の途中で、ハウルは何度も後方を振り返っていた。シグマも一度だけそうしたけれど、そこから最後まで二度目は無かった。
「ルカがどんな苦境にも負けない精神を持っていることは、君も僕もあの演習で嫌というほど思い知らされたじゃないか。きっとあの強さは、まだ折れていない」
少なくともルカが振り返ったあの時、雨に濡れた瞳の奥には光があった。
風前の灯火とは違う、永遠を煌く恒星のような、潰えることを知らない輝き。
それは意志を持っている者のみが許される証。断じて廃人の人間が持てるような簡単なものではない。
「彼女はまた復活する。そう信じて、今は待とう」
たしかな思いを抱いて、シグマはハウルを連れてその場を後にした。
それに、これはまだ確証に至っていないためシグマも口にしないが。
彼には、ルカが自殺するという選択を拒絶するという、もはや絶対に近い確信を持っていた。
◆◆◆◇◇
そして。
一人残されたルカは、未だ降りしきる雨に身を打たれながら夜空を仰いでいた。
―――最っ低。
先ほどシグマに突きつけた自身の言葉が甦る。
そうだ、最低だ。
―――私は、とてつもなく最低だ。
今度の失敗をシグマのせいだと責任転嫁して、自己を正当化しようとする。
きっと今の私は、どの汚物にも勝るほど醜悪極まりないだろう。
そんな生き方に価値など無い。
いっそのこと、死んでしまった方が世のためだ。
ルカは腰挿しの剣を引き抜き、その切先を自身の首元に向ける。
戦場で向けられれば総毛立つほど危険なそれも、今は何の脅威も感じない。
あとは覚悟を決めるだけ。それで総てが終了する。
もう悔いは無い。
深く息を吐いた後、ルカは柄を握る手に力を籠めて―――
ふと、いつかの光景が浮き彫りとなる。
それは封じ込めていた、最初の失態の記憶。
あの日に見せられた、この後の未来を台無しにされる異界の映像。
怪しく光る刃が肉を切り裂いて、赤い鮮血を飛散らせる―――
風切り音を上げて、首を刺し貫くはずだった刃は耳のすぐ横を通過した。
外的要因など何もない。紛れもなく、ルカ自身が軌道を逸らしたのだ。
「ハッ……ハァ、ハァ……!」
一瞬とはいえ死を覚悟した緊張が解け、ルカは刺し違えた格好のまま荒い息を吐く。
―――できない。
降りしきる雨はあざ笑うかのように、自刃に失敗したルカに降りそそぐ。
―――私にはできない。それだけはやってはならない。
生き恥を負ってでも、なお生きることにしがみついた。
死を恐れたわけではない。彼女がそう選択したのには、根底に理由が存在する。
それをルカは、震える口で呟いた。
「だって私は―――あの結末を否定したんだから」
その瞳には、確かに。
かつてと同じ、彼女の誇る不屈の強さが存在していた。
次回更新は8/13にしたいと思います