餌食となる決意
そして、二日が経過した。
「……雨、止まないね」
「うん……」
薄い布一枚で覆われた小さな空間で、シグマとハウルは雨粒が地面を叩く音を聴いていた。
場所はシレーニェへ向かう道中にあった森の中。陽も落ちて暗くなった今となっては何も見えないであろう一帯は、今やいくつかのテントが立てられ、内側で灯る光源によってぼんやりと薄暗い程度になっている。
今日は、帰国する日だった。
昼過ぎにシレーニェを出発してから、すでに七時間が経過している。
行きとまったく同じ経路のため、必然的に同じ距離を進んだところで夜が来て、野営を行うことになったのだ。
そのため、他にも建てられたテントの中には兵士たちも在中している。
同じようにシグマとハウルも同じテントで夜を過ごしていた。
けれど、そこに行きの時にあった遠足のような気分は皆無だ。互いに口数は少なく、雨粒の音だけが空間を満たしている。
けれど、考えていることは共通していた。
「結局、シレーニェは戦争を続けるつもりなのか」
「降りる気はないって、テイラーさんが言ってたもんね。たしかに条件だけ目を向ければ、何も問題は無いけれど……」
それは、シレーニェを発つ三十分ほど前。
自室でハウルと共に荷物の整理を行っていたところに突然訪れた、テイラーによって聞かされた情報である。
なんでも、シレーニェは儀式剣を失くしたわけではなく、また王位継承者も健在であるため、王位継承戦に敗退したわけではない。
今後も予定通り、戦争の日々に身を投じるとのことだった。
「でも、本当に大丈夫なんだろうか。アシュタリアさんも心労で倒れて、代わりにイオリアさんが指揮を執るって話だったけど……」
「ルカライネ様が何も言わないってことは、私たちの知らないところで解決したんじゃないかな?」
「そうだといいんだけどね。……でも、肝心の彼女があの様子じゃ……」
シレーニェを発つときから何度か見たルカの姿を思い出し、シグマの表情に翳りが落ちる。
その様子を一言で表すのなら―――空虚。眼の焦点はどこにも合っておらず、言葉もどこか空々しい、まるで中身を伴わない実態のような。
いつもと違う覇気のない彼女の姿に、兵士たちも何事かと戸惑いを隠せていない様子だった。
いったい何があったのか、それを知る人物であろうイオリアと話をしたかったのだが、彼女とはあの悲劇の日から、一度として会っていない。シレーニェを発つ際にも、彼女は忙しく手が離せないとのことで、見送りには兵士だけしかいなかった。
タイミングが悪かっただけなのか、あるいは―――何かを避けていたのか。
現状、判断するだけの材料を持ち合わせていないシグマには、答えを出すことは難しかった。
「―――お休み中のところ、失礼致します」
すると、テントの外から声がした。どうやら見張りの役に徹しているはずの兵士が訪れたらしい。
突然の来訪に怪訝に思いながらも、シグマはテントの入口を開けた。そこには雨に打たれ、鎧のあちこちから水を滴らせている兵士が立っていた。
彼はシグマの姿を確認するや、少し焦りを滲ませた声色でこう訊ねてきた。
「シグマ様、こちらにルカライネ様は来ていないでしょうか?」
「え? テントの中には居ないんですか?」
「それが、気づいた時にはもぬけの殻でして……」
「何だって……⁉」
サッと、血の気が引く。
次の瞬間、考えるよりも先に身体が動いていた。
「え、シグマ⁉」
ハウルが驚きの声を上げるのも気にせず、シグマは外履きに履き替えて外へと跳び出した。
雨に打たれながら、ぬかるんだ地面を泥飛沫を上げて走る。
そして辿り着いたルカのテントは、灯りが消えており、入口が無造作に開かれていた。
中には誰も見当たらない。
「くそっ!」
悪態を吐いて、シグマは周囲の散策へ乗り出した。
「どこに、どこに行ったんだ、ルカ……!」
普段通りのルカであれば問題視はしなかった。
たとえ外敵が迫ろうとも、彼女は単騎で対処できるほどの実力を持っているから、きっと大事には至らないだろうと信じていた。
だけど、今は。
廃人のようになっていた彼女には。
心が死にかけていた彼女には。
何も抵抗しないまま、自身への暴力を際限なく受け入れるような気がして。
そのまま、死んでしまうような気がして。
「っ、どこだ、ルカ―――――――!」
最悪の展開を振り払うように、必死に名を呼ぶ。
周囲は暗く、どれだけ目を凝らしても数メートル先が全く見えない不明瞭な世界の中で、シグマの声が反響する。
「『防御結界』!」
すると探し人の返事の代わりに、ハウルが術式を唱えるのが聴こえた。
途端、雨が止む。……いや違う、厳密にはシグマの周りを覆うようにできた球状の膜が、降り注ぐ雨を止めているだけだ。
「とりあえず傘代わり! それより一人で行ったら危ないよ!」
「ならハウルもついてきて! もう捜索部隊を編成している暇は無い!」
「わかった!」
そして二人は、森のさらに奥深くへ駆けていく。
何も見えない無窮の闇。
光の無い空間は、ただいるだけで精神を磨り減らす。
軽減しようとする努力に意味はない。これは産まれた時から魂に根付いている根源的な恐怖であり、故にこそ人は夜を恐ろしいと捉えるのだ。
もしその恐怖に動じないものがいるとすれば、それは心を失くした者。
恐れる心が無いのだから、恐怖自体を感じられない。
廃人になりかけていた彼女は、そうなってしまってもおかしくなかった。
「せめて足跡みたいな痕跡あれば……あっ!」
髪から滴る雫を拭いながら、改めて周囲を見回すシグマ。
その時、彼方に―――かなりの距離があって、例に漏れず暗闇が覆っていたはずなのに―――人影が見えた。
弾けるように足が駆けだした。凹凸や障害物の多い森の中、回り道や迂回などの考えは一切過ぎらずに、一直線にその場所へ近づいていく。
やがて、息を切らしながら辿り着いたその場所に―――確かにルカはいた。
木々が生い茂っていた森の中で、そこだけが刈り取られたかのように開けている空間。その中央にあるシグマの身の丈の三倍ほどもある岩の山に、彼女は腰かけていた。
こちらに背を向けたまま、暗く染まった曇天を仰ぎ見ている。
「シ、シグマっ、どうしたの……って、え⁉」
ようやく追いついてきたハウルは、ルカの姿を見つけて驚いた様子を見せていた。
「ごめん、ちょっとハウルは下がってて」
「う、うん」
なるべく刺激しないよう二人きりで話がしたいと、シグマはハウルを下がらせる。そして対照的に彼は前へ進み出た。
それにしても、目に映るルカの姿は無気力そのものだった。雨で全身が濡れ鼠になっているにも拘らず、その場から一歩も動く気配を見せない。
普段の様子とはかけ離れたその姿に、シグマは声をかけることすら忘れる。
奇しくも、今の彼の心情は、ルカがアシュタリアの崩壊を目の当たりにしたときと酷く似通っていた。
「全部、失くした」
すると、背を向けたままのルカが、意外にも声を発した。
けれど、その声音がシグマの耳朶に滑りこんだ瞬間、彼は全身を鈍器で殴られたような衝撃に見舞われる。
「ずっと家族の時間が続くと思い込んでいた。一度目は失敗したから、二度目は失敗したくなかった。……だけど結局、私は何もできないままだった」
首元の激痛が甦る。
彼女の声に誘発されたそれは、放っておけば首を切断しかねないほど鋭いものなのに、シグマはただ茫然と、その場から動けない。
「裏切りだって、イオリアは言っていたわ。……ええ、その通りよ。陛下も、ラティスも、イオリアも、みんな変わってしまった。また、私は裏切られたんだわ」
嫌な予感がする。
それは未知の推測ではなく、既知の経験によるもの。
このまま、このまま、このまま、ルカの崩壊が進めば取り返しのつかないことになると―――シグマの全身がそう訴えていた。
「ルカ、君は―――!」
「教えて、シグマ。私はどこで間違ったの? どうすれば、家族の崩壊を止められたの?」
自暴自棄にも近い彼女の問い。その答えはわかりきっていたものの、シグマはそれを口にするべきか迷った。
今のルカに必要なのは肯定か、それとも否定か。
たった二つの選択を誤れば、あるいはそれが最悪の結末へ直帰する。
考えあぐねた末、シグマは潔く結論を口にした。
「君に落ち度はない。あれは君がどうしようと、回避できない悲劇だった」
「……じゃあ誰のせい? 誰が悪かったの? いったい誰を責めれば……私は楽になれるのよ?」
そこまで聞いて、ようやくシグマはルカが求めているものに気づいた。
八つ当たりの捌け口―――本来の彼女であれば、どれだけの怒りがあっても自らを律して止めていたであろう暴挙。
けれど今の彼女は、度重なる不幸の重荷によって冷静さを欠いている。自分のせいじゃないと思い込まなければ自身を保っていられない、そんな年幾何かの少女のような駄々を見せている。
不思議とシグマはその醜態を怒る気にはなれなかった。
毅然とした厳格な態度はあくまでも仮初で、今のルカこそが年相応の本質である。前者が破綻しかけている今、素の方までをも否定されれば―――今度こそ自身の存在を見失うことになるだろう。
だが、ルカの求めているものを満たすためには、誰かが悪になる必要がある。
誰でもいいわけではない。糾弾される身の以上、そうするに足る十分な理由を持つ者が好ましい。
身内の面々で誰か適任であるかなど、もはや論ずるまでもなかった。
「僕だ」
そうしてシグマは、彼女の全てを受け止めると決意した。
※9/7追記
次の更新は明日、9/8に行いたいと思います