Lost
人気のない廊下に反響する、毅然とした足音。遮る音は何も無い。
アシュタリアがいるという王室に向かう道中、二人はひたすらに無言だった。
一瞬だけ、ルカは隣のイオリアを盗み見る。
前を向いた真っ直ぐな瞳に、固く一文字に閉じた口元。その一切の余分を付け込ませない様相で、足早に歩を進めている。
いつも見せていた人見知りの弱々しい彼女の姿はそこになく、会談や執務の時に見せていた生真面目な表情を見せていた。
ふと、一つの疑問が脳裏を過ぎった。
―――なぜイオリアは、陛下の様にはならなかったのだろう?
ラティスが殺されたことは、イオリアにとっても辛苦の出来事だったはずだ。アスタリアが挫けるほどの出来事に、気弱な彼女が耐えられるはずあないと、少なくともルカはそう思っていた。
だが、横を歩く少女にそのような様子は皆無だ。
むしろルカと同じか、あるいはそれ以上の―――意志の強さを持っている。
その強さはどこから得たものなのか。
疑問を訊ねようとするも、その前に目的地に着いてしまった。
ここまで来るまでに通り過ぎた部屋の扉とはまた違う、一際豪華な装飾を施された両開きの扉。
「失礼します」
イオリアの揺らぎのない一声と共に、それは開け放たれた。
まず視界を埋め尽くしたのは、圧倒的な暗闇。今まで灯りの点いた明るい場所にいたため、急な暗転の世界に何も見えなくなった。
けれど、それも数秒の内。徐々に視界は慣れてくる。
そして明らかとなってくる、闇の帳が下りた部屋の全容。その、部屋の片隅において。
希望を失くし、枯れ果てた老人を見つけた。
一瞬、浮浪者が場違いにも迷い込んだのかと思った。そう錯覚してしまうほど、目の前の人物にはかつての覇気や威勢を感じられなかった。
紛うことなくアシュタリア王、その人。
数日前まで王位継承戦に参戦すると息巻いていた彼は、今や魂を抜き取られたかのような抜け殻の人間と化していた。
「陛下……」
尊敬していた人物の失墜を見せつけられ、呆然と呟くルカ。
目の前の人物は生きているのかすら疑わしかったが、彼女の呟きに反応して首を動かす。
油の切れた動作の悪い人形のように。ルカたちを見た双眸は黒く濁り、生気を感じられない。
「……おぉぉ……イオリア……そしてルカライネよ……」
二人の姿を視認するや、アシュタリアは消え入りそうな声で名前を呼ぶ。
縋りつこうと震える腕を持ち上げ手を伸ばす、さながらゾンビのような所作に、思わずルカは半歩後ずさった。
「……失った……失ってしまった……」
怒りでもなく、悲しみでもなく、ただひたすらに絶望に塗れた声。
愛娘の一人を殺されたという現実に、アシュタリアの精神は崩壊寸前にまで陥っていた。
「……なぜだ……なぜラティスは殺された……あの子は何も悪いことはしていないというのに……なぜ、殺されなければならなかったのだ……」
アシュタリアは手を伸ばしたまま、その瞳から涙を零す。
けれど、誰もその手を取ろうとはしない。
ルカは呆然としたまま、動けずに。
イオリアは―――
「……やはり、私の……王位継承戦に参戦するという、私の判断が間違っていたのか……これまで通り、傍観に徹してさえいれば……ラティスが殺されることはなかったのではないか……?」
虚ろな瞳で問いかけられ、思わずルカは目を逸らしたくなった。
憧れていた人が、尊敬していた人が、目の前で軋みを挙げて瓦解していく現実。それは連鎖するように、見た者の心も圧し折っていく。
叶うのなら、今すぐこの場から逃げ出したかった。
だけど、棒となった両脚では回れ右をすることもできず、伸ばされた手を見つめながら沈黙で答えるしかない。
その間にも、アシュタリアは壊れていく。
自らの内から生じた『弱さ』に押し潰されて。
何も成し得ることのできない、無能へと堕ちていく。
「……おぉおおぉぉぉ……おお教えてくれ……愛しい娘たちよ……私は、間違っていたのか……?」
嗚咽と共に絞り出された、再度自身の責を問い求む疑問。
その悲痛に満ちた憐れな姿を。いつまでも立ち直ろうとしない姿勢を。
目の前の現実を受け入れられずに、逃げ続けている無様な醜態を見せられて。
遂にそれは、彼女の怒りを爆発させた。
「―――いい加減にしてくださいッ‼」
怒髪天を衝く怒鳴り声と共に、パァン! と弾けた音が炸裂する。
何が起こったのか、一瞬ルカはわからなかった。
部屋中に響いた音が、アシュタリアの頬を平手打ちした音だと理解するのに、少しだけ時間が掛かった。
突然打たれた彼は、やはりルカと同じように状況を呑み込めていない顔をしている。
この場において呆然としていないのは、たった一人だけ。
アシュタリアの頬を打ったのは、イオリアだった。
「イオリア……⁉」
時間をかけて目の前の事態を呑み込んだルカは、震える声で彼女を呼ぶ。だけど、答えは返ってこない。
呼び掛けた人物は怒りの形相を浮かべて、真っ向からアシュタリアを見ている。その尋常ならざる雰囲気に、外野のルカでさえ近づくことを躊躇ってしまうほど。
イオリアは『激怒』していた。
「……御言葉ですがお父様。私は此度の件、生まれて初めて貴方に怒りを抱いております」
静かな響きではあるが、それでも内側には激情を孕んだ声。
それはもはや、ルカの知るあの気弱な彼女ではなかった。
「お父様は覚悟をお決めになったのではないのですか? 誇りと意志を持って、王位継承戦に参戦すると誓ったのではないのですか?」
数日前のアシュタリアの姿を思い出した。
少なくとも謁見に見えた時の彼は、イオリアの言う通りシレーニェの在り方を変えるという強い意志を持っていた。
けれど、今は。
「では、どうして。―――どうしてそんなにも無様に、項垂れているのですか!」
突然荒げた声により、ルカも思わずその場でたじろぐ。
今まで見たことも無い、凄まじい剣幕。その勢いのまま、イオリアはありえぬことを口にした。
「たかが身内一人が亡くなったくらいで、子どものようにウジウジと引き籠って‼」
その言葉に、ルカの頭は真っ白になった。
あのイオリアが―――まさか死んだ姉のことを、たかがの一言で片づけるなど。
これまでの像とは大きくかけ離れたその様を見て、何か、ルカの内側で亀裂が入った音がした。
けれど、そんなことはいざ知らず、イオリアは呆然としたままのアシュタリアを見下ろし、なおも捲し立てている。
「私も姉さんも、どちらかが死ぬことは覚悟しておりました。無論、お父様であってもです。たとえどれだけ残酷な死別であっても、そうあることが戦争だと。私たちが足を踏み入れた世界は、それが当然とされる場所なのだと! 皆がそう理解し、その上で覚悟を決めているのだと‼ そう信じてこれまで努力してきたのです‼」
壊れていく。
ルカの中にあったイオリアの姿が、かつての彼女との思い出が、全て、全て、塵となっていく。
過去と今では、何もかもが変わってしまった。
どれだけ恋焦がれても、愛おしい家族の時間は、もう二度と帰ってこない。
もう二度と、揃わない。
「ですが違っていた。お父様、貴方だけが覚悟の意味を履き違えていた! この国において貴方だけが、失うことの意味を分かっていなかった!」
きっとアシュタリアの胸の内は、黒い絶望で支配されていることだろう。表情だけで見て取れた。
けれど、イオリアは救いの手など差し伸べない。
「……酷い裏切りを見ました。私はもう貴方に失望を隠さずにはいられません」
シレーニェの王位継承戦参戦。それは当初、各方面から批判の声が上がったものの、それら全てを説き伏せて、アシュタリアは決定した。
その強引さに多少は思うところがあったものの、掲げた理想を本物だと思ったから。
失う怖さも、死ぬ恐れも呑み込んで、国の誰もが覚悟を決めて、その理想に賛同した。
だけど、よりによって、掲げた本人が重要な覚悟を決めていなかったなどと。
今のイオリアが見せている怒りは、ひいてはシレーニェ全国民が抱いているものだ。
それを引き起こした元凶に与える慈悲など、何も無い。
「継承者を召喚した以上、戦争からは逃れられません。ですから私は、これからも戦い続けます。……お父様がそれだけのこともできないというのなら―――このままここで、朽ち果ててください。それがひいては、シレーニェにとっての最国益となるでしょう」
「おぉ……イオリア……やめろ、其方までも……私の下を、去らないでくれ……」
かすれた声で、必死に縋ろうとするアシュタリア。だが、その手はイオリアへ触れる前に、他でもない彼女自身によって払われてしまう。
見下ろす瞳はあまりに冷たく、もはやそれは親へ向けるものではなかった。
「私の進むべき道は私が決めます。親鳥の下でまどろむ雛は、もういないのです」
それが最後の言葉となった。
明確な拒絶を突きつけたイオリアは、踵を返して部屋の戸口へと向かう。背後で何度も名を呼ぶ声が聞こえたが、彼女は完全に無視を決め込んだ。
そして、その途中に放心状態となっていたルカと相まみえる。
「イオリア……」
言葉が出てこない。
完全に変わってしまった彼女に対して、何を言えばいいのかさえ分からなかった。
「…………………巻き込んで、ごめんなさい」
イオリアは申し訳なさそうに目を伏せて謝罪し、そのままルカの横を足早に通り抜けていった。
その姿を追うことも、止めることもできずに、ルカはその場で立ちつくす。
置いて行かれた部屋の中で、全てを失くした者が嗚咽のような絶叫を上げて泣いていた。
歳に似つかわない幼子のような鳴き声は、空っぽになった心で無意味に反響する。
遠ざかっていくシレーニェでの思い出。つい先日まで当たり前だと思っていたものが、セピア色にくすんでいく。
―――また、家族を失った。
その事実を空虚な思考で再認識して。
アシュタリアが完全に壊れていく様を、ルカの瞳は感情もなく映し続けた―――
次からは3日おきにできる…はず!←