敗北を知らない者たち
「それじゃあ、そろそろ夕餉の時間ですし、私たちはお暇させていただきますね」
約一時間ほどの談笑を経て、イオリアはそう言った。
時刻は七時半。外の景色は薄闇の色を羽織っている。
「んー、楽しかった! 思いの外話が弾んだわ。これもハウルちゃんのおかげね!」
「い、いえ、そんな……」
気持ちよさそうに伸びをするラティスと、苦笑いを浮かべて相槌を打つハウル。後者の顔には、少しばかり疲弊の色が見える。
というのも、この一時間の談笑の中で、彼女はラティスのマシンガントークの餌食となっていたからだ。人見知りであり、人の言葉を無視できない彼女にとってはかなり堪える出来事だっただろう。
しかし時間が経てば慣れるもので、後半はハウルの方からも積極的に質問していたりと、決して一方的な友愛ではなかったことも確かである。
「器はどこに仕舞えばいいでしょうか」
「いいわよ、置いておいて」
「ではお言葉に甘えますね。ありがとうございます」
「こちらこそありがとう。とても楽しい時間だったわ」
互いににこやかな謝礼を交わして、イオリアは席を立つ。それに続くようにして、ラティスも立ち上がった。
「それじゃあね。また暇ができたらお話ししようね」
「では、失礼しました」
ラティスはひらひらと手を振りながら、イオリアは入戸の前で一礼して、それぞれルカの部屋から退出していった。
ぱたりと閉じられる扉。残された三者は、退出した者の足音か聞こえなくなるまで、それを見つめていた。
やがて足音は遠ざかっていき、静寂な場が戻ってくる。
「さて、と」
空間を支配する、重低圧の空気。
先ほどシグマが部屋に入った時とはまた違う、今度はそれぞれが事態の深刻さを噛みしめているがための沈黙。
初めに口を開いたのはルカだった。
「……シグマ、率直な意見を聞かせて頂戴。貴方はどう思った?」
振られる疑問。彼女が問うているのは、紛うことなく先ほどラティスが話していた計画についてだ。
「正直、無謀だと思う」
シグマはもとより抱いていた所感を、嘘偽りなく白状する。ルカはその答えを聞いても激昂することは無く、静かに頷いただけだった。
「ハウル、貴女は?」
「……同じです。その、虜囚の身分では言い辛いのですが……」
「構わないわ。言って」
「そ、その……はっきり言って、泥船に同舟することと、変わらないかと……」
破綻が確約された船。それに乗り込むことと、シレーニェと共闘することは同義だと、ハウルは言う。
実際それはその通りだと、ルカとシグマの両者は沈黙で同意する。
なぜならシレーニェが掲げる計画は、ある重要な一点が欠落した上での成立だ。それを、シレーニェの誰もが考えなかった要因を、ここの全員は理解している。
「ねえ、ルカ。君は戦うときに、自分の勝利を疑うことなく信じられる?」
「……そうね。戦いに挑む以上、私はいつだって勝利のイメージを持っていく。戦う前に心が負けていたら意味が無いもの。でも、だからといって敗北を考慮しないわけじゃない」
物事の勝負において、常に自分の勝利を見据えていくというのは非常に重要だ。ルカが述べたとおり、実力で勝っていたとしても、心が負けていれば勝てる戦いを棄てる事に繋がる。
では、敗北を絶対悪とし、思考から一切排除することが正義と言われれば、それもまた間違いである。
己の敗北が想像できなければ、己の弱点を理解できない。どのような敵にも引けを取らないと慢心に浸れば、いつか相性の悪い敵に遭遇した際に致命的な敗北を味わうことになる。
だからこそ、常に敗北の可能性を考慮し、その上で対策を勧め、完全の状態で戦いへ挑む。それが勝負に挑む者として在るべき理想である。
実際、この場に居る三人も、その考えは共通している。過去に敗北を味わったことのある彼らは、その上で自身の尺度をわかっている。だからこそ相手に勝てるかどうかは判断がつくし、もしも勝てないとわかった時には対策、あるいは逃走という手も選択できる。
けれど、シレーニェは違っていた。
「彼らは、自分たちが負けるとは微塵も思っていない」
素人のシグマでもわかる、単純な事実だった。
シレーニェはその歴史上、長年勝負には関わっていない。だから勝利の栄光も、敗北の屈辱も、時間の経過と共に忘れてしまった。
敗北を知らないから、自身の敗北をイメージできない。挫折を知らないから、自身の都合のいい結果しか想定できない。
彼らが楽観的過ぎる計略を立てる所以は、ここに在る。
「僕もハウルと同じ意見だ。このまま共闘しても、僕達はシレーニェに振り回されることになる」
「…………」
シグマの言葉にも、ルカは思案したまま何も返さない。
一番楽な手は、シレーニェとの決別だ。現問題の核であるそれを直接的に排除することで、リューズビーリアは自由に行動できるようになる。
だが、それはシレーニェを見限るだけでなく、アシュタリア含むルカの親しい人々をも裏切るということ。
一度自身の家族を失っている彼女にとって、その選択をもう一度選ぶというのは非常に酷なことだった。
「……一先ず、こちらで手立ては考えておくわ。まだ王位継承戦は本格的に始まったわけでもない。そう事を急ぐことはないでしょう」
だから選んだのは、問題の先送り。たとえそれが自身の流儀に反しているものだとわかっていても、そうするしかなかった。
「わかった」
シグマもルカの心情を汲み取り、短く同意するだけに留めておく。
声は、思っていたよりも低かった。
問題を先送りにした以上、いつか必ず彼女は決断を迫られることになる。
その時、領主としての無機質な強さと、人としての恩情に満ちた弱さ。いったいどちらを目の当たりにすることになるのか。
少なくとも今のシグマには、どちらを肯定するべきかさえ、わからない。
すると、場の空気を読まず、軽快な調子で戸がノックされる。
「失礼します。本日の夕餉をお持ちしました」
夕食を告げるメイドの声。途端、張り詰めていた緊張が弛緩する。
ルカは肩をすくめて、外の彼女に中へ入るよう促した。
扉が開かれ、一礼し中へ入ってくるメイド。その後ろからはもう一人のメイドが、豪勢な料理の数々を乗せたワゴンを押して入ってきた。
「わあ、おいしそう!」
「でも少し多くないかしら?」
この部屋の住居人数は二人。しかも両者とも女性である。それを考慮すると、運ばれてきた料理は些か量が過剰に思えた。
「それが、先ほどイオリア様から、シグマ様の分もここへお持ちして良いと」
「ああ、そういうこと」
どうやらイオリアが気を利かせてくれた結果のようだ。
「どうする?」
「迷惑じゃないなら、食べていこうかな」
シグマがそう言うと、横でハウルが嬉しそうに破顔する。たしかにルカと二人きりでの食事は、彼女にとって拷問にも等しいことだろう。それがわかっていたため、シグマも残ることを選んだのだが、正解のようだ。
目の前でメイドたちがテキパキと湯気立つ料理を並べていく。その光景に、空の胃が唸りを上げそうになった。
事態は何も解決しておらず、先行きは不安であるけれど。
とりあえずこの時間だけは、目の前の食事を楽しもうと。
活気涌く二人の少女と共に、シグマは食卓の席へと着いた。