粛清。そして更新
辺りはすでに闇一色。完全に陽の落ちた夜の森は、木々が星の光すら遮って一寸先が全く見えない。
その吸い込まれそうな暗闇を、一匹の影が疾走していた。
「―――ハッ、ハッ、クソッ、クソッ‼」
切れる息と共に悪態を吐く。その声には隠しがたいほどの怒気と憎悪が込められている。
「あのガキんちょめ! オイラを散々コケにしやがってチクショウ!」
走る影は、先刻ハウルと闘争したゴブリンだった。
紡がれる悪態と共に、内部の憎悪が肥大していく。頭は怒りで真っ白に煮えたぎっており、もはや周囲が見えていない。
脳裏に再生されるのはいつも敗北に屈した己の醜態の様。それが何度も繰り返して再生される。
腹が立つ。頭にくる。堪忍袋の緒はとうの昔に焼き切れた。
「クソッ、アイツだけはぜったいに許さねぇ! ただ殺すだけじゃもの足りねぇ!」
紡がれる言葉は常にハウルへの憎悪を籠めた呪詛ばかり。今の今まで一度たりとも、討ち倒されたオークに対する言葉の一つも出てきていない。
なぜならゴブリンの思考は処理能力を低下させているからだ。それは怒りによる錯綜化もあるが、先刻取り込んだ『外的要因』の効果の方が大きい。
それは彼の怒りを加速させ、体を蝕み、やがて見えるはずのないものすら見せてくる。
現に、ゴブリンは突如として立ち止まった。そこには何も、特徴的なものは存在しないというのに。
それでも彼の目には、怯えた様子のハウルが映っていた。
「―――ハッ―――!」
思考と理性を失ったゴブリンには、獣の本能しか残っていなかった。
彼は彼女を見つけた途端、なぜそこに彼女がいるのかという疑問すら抱くことなく襲いかかる。
「ハ、ハハ! こいつ、こいつめ! さんざんオイラをばかにしやがって!」
ハウルに跨り馬乗りになったゴブリンは嗜虐的な笑みを浮かべて、彼女の服に手をかける。そして彼女の悲鳴を聴きながらその衣服を力に任せて引き裂いた。より強くなる悲鳴の音色に酔いしれて、彼の手つきはさらに陰湿さを増してくる。
端から見れば異様な光景だった。ゴブリンが地面に向けて嗤っており、ひどく楽しそうに足下の雑草を引き抜きながら、時折地面に拳を叩きつけていた。
「ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼‼‼」
やがてその行動に十分満足したのか、ゴブリンは空に向けて咆哮するように高嗤う。その笑い声は静寂な森の隅々まで響き渡った。
すると、
「―――やれやれ。敗走したにも関わらず、さらに醜態を重ねますか」
その一言が、彼の笑みを凍らせた。
途端、暗闇の中から滲み出るように、ローブを纏った一人の男が現れる。その正体を、ゴブリンは知っていた。
「ヅィ、ヅィーヴェンさま……⁉」
ゴブリンの口が陸に上がった魚のように開閉している。驚愕によるものもあるだろうが、それ以上に恐怖の感情が占めている。
なぜなら自分は失敗した。この眼前にいる魔術師に命じられて、小娘の抵抗に対抗できるよう火炎の短筒を与えられながら、それでも小娘を捕らえることはできなかった。
―――罰だ、罰が来る。程度がどのくらいのものかはわからないが、確実に罰を下される。
嗚呼、なんて恐ろしい。
「お、御赦しを! つ、次は、次こそは! 今度こそ捕まえてきますから、どうかご慈悲をヅィーヴェンさま‼」
頭を地面に擦りながら懇願してくる醜い憐れな生物を、ヅィーヴェンはゴミを見るような目で見下した。
「私は聞きたいのは謝罪ではなく報告です。命じた事のただの一つも成し得ないのなら、せめて得た情報で報うように努めなさい」
諭されるようにそう言われて、ゴブリンは慌てて頭を上げて自分の見た情報を伝える。
「……なるほど、やはり『摂理を統べる魔導の書』を持っていましたか。あれは未完成の段階ではあるが、現時点でも並の魔術師を超えるだけの術式を記しています。その術式を使われたのなら、まあ、貴方たちでは太刀打ちできないのも道理ですね。
しかし人間と協力していたというのは解せません。たとえ尻の軽い娼婦だとしても、この短時間で別の王位継承者候補を捕まえるのはあまりにも速すぎる。なにかトラブルがあったか、それとも他の協力者がいたと考えるのが妥当ですか」
ゴブリンが慌てたせいで支離滅裂となった説明を、ヅィーヴェンは一つずつ丁寧に吟味しながら次々と仮説を立てていく。やがて希望的予測が立てられているのか、徐々にその口角を上げ始めた。
「そうですか。彼女は『闇夜を穿つ眩き閃光』を使ってオークを斃したのですね? 牽制ではなく撃破という選択を、わざわざ魔力消費の激しい技で行ったのですね?
ならば真相は自ずとわかる。彼女は、敵を屠る技を『闇夜を穿つ眩き閃光』以外使えない。
ああ、なんて嘆かわしい。あれほど身を守る術も習得しておきなさいと言ったのに、優しい貴女は相手を殺す力を躊躇った! その結果がこれだ、貴女は私に成す術もなく、一方的に蹂躙される! ああ、なんてなんて嘆かわしいッ‼」
……このヅィーヴェンという男は、まるでハウルの素性をかなり把握しているかのような語り口である。果たして彼は、小娘のいったい何であったのだろうか。
そうゴブリンが、目の前で興奮し始めているヅィーヴェンを見て疑問に思っていると、
「……おや、ようやく来ましたか」
ヅィーヴェンの背後から、新たに二人の人影が現れた。両方とも鍛えられた逞しい肉体を蒼色の体毛で覆っており、頭部はその体に不釣合いな獣の頭をしていた。
もしもこの場にシグマがいたのなら、現れた二人を『狼男』と称していただろう。
二人はヅィーヴェンの一歩手前まで近づくと、阿吽の呼吸を思わせるほど同時に跪く。
「遅くなり誠申し訳ございませぬ。此れより我らレノウ兄弟、御身の配下とさせていただく所存!」
跪いた二人のうち、片方が頭を垂れたまま鋭く叫ぶ。その口上にヅィーヴェンは満足そうに頷くと、
「よろしい。ですがもう陽は落ちた。これから追跡するのは得策とは言えません。一度失敗してしまった手前、今度こそ不手際は無いよう万全を期す必要があります」
ヅィーヴェンはもう、ゴブリンを見ていない。彼の興味は完全にレノウ兄弟と名乗った二人の狼男に向いている。
「そこで、二人には手始めに準備を行ってもらいます。ええ、遠い異界の地には〝腹が減っては戦もできぬ〟という言葉があるらしいですし、ここはその言葉に倣いましょう」
なぜゴブリンは気づけなかったのだろうか。ヅィーヴェンが自分に興味を無くしたということは、
「そこの無能を与えます。明け方に備えて、それで英気を養いなさい」
―――自分のことを用済みと見做したということに。
「へ……?」
呆けたのは、この場において最も悪手だった。そんな暇があるのなら、今すぐにでも駆けだすべきだった。
だがもう遅い。唾液を垂らし鋭気に満ちた目の狼男たちは、すぐさま地を蹴り駆けた。
彼らの咢がゴブリンの身体に喰らい付くのにそう時間はかからない。なぜならゴブリンは噛みつかれる最後の一瞬まで、ヅィーヴェンの言葉が理解できず動けなかったのだから。
そして、首元と足下をそれぞれ噛みついた二人は、そのまま互いに餌を引っ張り合う。その様はまるで肉を取り合うハイエナのように、ただ我武者羅に獲物を腹に入れようとする獰猛さを見せていた。
自らの肉が現在進行形で裂けている。その痛みを隅々まで実感し、ゴブリンは断末魔の絶叫を上げようとした。
「―――っ、ぁ―――」
だが、叶わない。
もはや声帯は、喉ごと齧られた後だ。悲鳴を上げようとどう足掻いても、掠れた息の根しか聞こえない。
きっと悲鳴の一つでも上げれれば、今のこの痛みを少しでも和らげることができただろうに。ゴブリンはこのまま絶命へと至るまで、この激痛を直視し続けなければならない。
嗚呼、なんて罰。なんて非道。なんて地獄。
自分がなんでこんな目に合わなければならないのか、ゴブリンは涙を流して自分の運命に憤る。
―――直後、視界を覆うように開かれた大顎が、その意識ごと頭蓋を噛み潰した。
壮絶な結末。裏切り者の末路、此処に在り。
だがゴブリンが息絶えたことなど気にも留めない二人は、肉の一片までも食い尽くし、血の一滴をも飲み干し、骨の最後の一本までもしゃぶりつこうと必死である。
心ここにあらずと言った調子でひたすら肉塊を貪る二人を一瞥し、ヅィーヴェンは懐を探る。
「やはり同胞を処断するのは心苦しいものがありますね。しかし、無能なものは間引いていかなければキリが無い。……ああ、ありました。これも、今ではまだ有限なるモノなのですから、切らさないように大事に節約していかなければなりません」
取り出したのは、一本の注射器だった。中には何か、透明な液体が充填されている。
ヅィーヴェンはそれを、まるで試験管のように揺らし、中の液体が波打つ様を眺めて恍惚の表情を浮かべた。
「我が王が異界より持ち運んだ快楽の雫。これなら、これさえあれば、我々は如何なる苦痛とも戦える」
そして躊躇なく、そのあまりに細い針を自らの腕に突き刺し、中の液体を注入する。
「……ああ、やはり心地良い。まるで夢幻の中で蕩けているようだ」
押し寄せる快楽に、全身を委ねるヅィーヴェン。
今まで感じたことも無いような至極の心地。それを、かの王位継承候補者は与えてくれた。
嗚呼、でも。
この夢心地は有限だ。この安らぎは有限だ。
この快楽は、時間に溶けるように解けていく。そして思わずにはいられない。
まだ足りない。まだ満たされない。もっともっと、際限なく無限に味わい続けていたいと。
もはや別の方法では補えない。体はこの至極の快楽だけを求めて動くよう造り替えられた。
では現状、さらにこの快楽を得るためにはどうするべきか。
「さあ、覚悟してくださいハウル。我が王に貴女の全てを差し出して、私は快楽の全てを享受する」
そして彼は、夜に吠えるように宣言した。
「―――では、これより狩りを始めましょう」
その表情には、残忍なる狂者の笑みが浮かんでいた。
その身を賭して、至上の快楽を得る。
その在り方は、火を灯した蝋燭のように。
―――だからこそ魔術師は、その身が溶けていることに気づかない。