リューズビーリアの儀式剣は
狼との戦闘から数時間が経過した。
森の道中はさして問題も起こらず、スムーズに進行でき、その結果として今では森の出口にまで辿り着いた。
しかし、広大な森を抜けるだけで膨大な時間を費やし、今では空は暗く無数の星々が煌いている。
いくら森を抜けたと言えど、夜間の進攻が危険なことに変わりはない。暗闇の中では、昼間見えていたものも見えなくなる。もし仮に敵襲でもあったりすれば、その敵が近距離に来るまで気づけないのだから、かなり致命的である。
幸いにも、シレーニェへの旅は急ぐものでもない。そこでルカ率いるリューズビーリア軍は一度森の出口で進むことを止め、野営に入ることにした。
野営の準備は主に兵士達が執り行い、昼間の戦闘の疲れが手伝って熟睡していたシグマが目を覚ました時には、すでにいくつか造られた焚火をそれぞれ囲うようにして食事の用意まで終わっている状態だった。
野営での食事は干し肉や缶詰などの材料を使っている以上、やはり本国で取る食事と比較すると格段に味が落ちる。食事中も、味の感想は誰一人として口にしなかった。
けれど栄養には十分に配慮しており、いくら味が粗末でも腹に入れば膨れて満腹感は得られる。そのため食事が終わった後の面々は、皆満足そうな表情をしていた。
食事が終われば、後にやることはほとんどない。一応見張りの番は居るみたいだが、あれは兵士たちが交代で行うもので、シグマにまで割り振られることはないだろう。
そのため手持無沙汰になった残りの時間を、シグマはハウルとの談笑で潰そうと思っていたのだが、
「二人とも、ちょっと来て」
意外にも、揃ってルカから呼び出しを受けたのであった。
「どうしたの?」
呼ばれた通りハウルと並んで、ルカが休息している焚火の下へ向かう。
彼女は、どこに持ち歩いていたのか紅茶一式を端に置き、金糸の細微な装飾が施された白のティーカップを優雅に傾けていた。
「少し確認したいことがあるのよ。とりあえず座りなさい」
言われるがまま、シグマはその場に腰を下ろす。その際にちらりと横のハウルを見てみたが、案の定緊張の面持ちをしていた。
「それで、訊きたいことって?」
「貴方の儀式剣について」
その言葉がルカの口から出た途端、横でハウルが硬直したのが気配で感じ取れた。
この場において、儀式剣の話は群を抜いてデリケートな話題だ。初めてルカに謁見したときは、それが原因で決裂の寸前にまで言ったことがあるのだから。そのため、ハウルが固まってしまうのも当然といえる。
しかし一方で、ルカはさして表情を変えていない。話題を提示した側だからと考えれば筋は通るのだが、それでもあそこまで平常でいられるのか、シグマは少し疑問を感じた。
「貴方は儀式剣を抜いて戦っているとき、いつだって苦悶の表情を浮かべていた。先刻の狼との戦いは当然、先日の演習の時だって、貴方は自身が有利不利の立ち位置に関わらずつらそうだったわ。だから思ったのだけれど……その儀式剣には、なにか副作用があるのかしら?」
シグマは口を噤むべきか、一瞬だけ迷った。
理由は二つあり、一つは彼女の言う副作用―――つまり代償について、上手く説明できる気がしなかったから。
そしてもう一つは―――
「…………」
もう一度、彼は横のハウルを見る。
彼女は今、リューズビーリアに保護という目的で管理されている、実質的には捕虜のような立ち位置だ。もしも彼女が与えた儀式剣がシグマに―――リューズビーリアの継承者に命の危険を与えていると知られれば、その報復としてさらに立場が悪くなる可能性がある。
かといって、ルカに誤魔化しが効くとも思えない。もう既に異変があることを勘づかれている以上、下手な言い訳は怒りを買うことにも繋がる。
そこでシグマは、掻い摘んでの曖昧な答えを返すことにした。
「うん。といってもただ痛いだけの、単純なものだけどね」
事実を述べながら、その実肝心なところは伏せておく。
幸いにも、ルカに気づかれた様子はなかった。
「それだけのものなら心配は無さそうね。昔の話だけれど、アスマジアーニャンの儀式剣は仕手を尽く破滅させる曰く付きと聞いていたものだから」
言いながら、彼女はハウルを見ていた。その視線は、寒気がするほど険しい。
「実際のところ、この話は真実なのかしら? アスマジアーニャンの王族である貴女なら、わかるはずだけれど」
そこでシグマはようやくルカの企みに気がついた。彼女はハウルも同席させることによって、自身の持つ歴史の真実を証明させようとしているのだ。
けれど、ハウルは首を横に振った。
「……わかりません。たしかにその曰くは私も聞かされていましたけど、それじゃあ今のシグマが生きていることに説明がつかないですから。もしかしたら……」
「長い時間をかけて、伝えられていく事実が歪曲した可能性もあるということね」
「国に戻ればその辺りの資料も出てくると思いますが……今の私では、どうすることもできません」
「なら貴女は、儀式剣については無知だということかしら? しかも自分が得体の知れないものを、シグマに譲渡したと?」
まるで責めているような物言いだが、どちらかというと確認を取っている声色だった。だからこそ、ハウルも気が動転することなく説明を続けられる。
「本来であれば、私が儀式剣について学ぶのはまだ先のことだったはずなんです。でも、国があんなことになってしまったから……。シグマも追手の人に殺されかけて、私自身の力じゃどうすることもできなかったから、儀式剣の力を頼らざるを得なかったんです……」
揺らめく焚火が、憂うハウルの貌を照らし映す。
「……というか、ルカはその辺り、調書で訊いたんじゃないの?」
重い空気にいたたまれなくなり、今まで傍観に徹していたシグマもたまらず口を挟んだ。
「訊いたのはあくまでアスマジアーニャンの情勢と簡単な経緯の説明だけよ。あのときは切羽詰まっていて詳しい話も聞けなかったから、いい機会だし今のうちに聞いておこうと思って」
「そういえばルカは、ハウルの言ってることが事実かどうかを確認するために何かしてたんじゃなかった?」
「ええ、遠見礼装っていう離れた位置の景色を見ることができる道具を使ってね。……その結果は、彼女の言葉が虚言でないことの証明になった。街の至るところで黒煙が上がっていたらしいわ」
「暴徒が発生しているということか。……それを、王位継承者が操っていると?」
「さすがにそこまで細かい情報は実際に現地へ赴かなければわからないけど、おそらく間違ってはいないんでしょうね。そもそも彼女が他国の継承者に儀式剣を渡したというだけで、事態が困窮していると察することはできるもの」
王位継承者とは、王位継承戦に参戦する国にとって命運を左右するほどの極めて重要な要因だ。彼らに与えられる儀式剣の力はまさしく一騎当千。そして最後まで生き残ったのならば、王としての特権を与えられ、召喚した国にも多大なる繁栄が約束される。
しかし、ハウルは儀式剣をあろうことか他国の継承者に受け渡した。これはリューズビーリアの継承者の強奪という国家間の摩擦を引き起こすものでありながら、同時に彼女の国を蔑ろにする行為でもある。他国の妨害のために自国の繁栄を犠牲にするなど、本末転倒でしかない。
「……それ、なんですけど」
すると、今まで俯いていたハウルがおずおずとルカに訊ねる。
「どうしてルカライネ様は、私がシグマに儀式剣を与えたことをお咎めなしにしてくれたんですか……?」
先ほども述べた通り継承者の強奪は、いかに当人にその気が無くとも、召喚した側の国にとってとても容認できるものではない行為である。
だというのに、リューズビーリアは―――その国を統治するルカは、何の罰をハウルに与えることなく、むしろ保護観察という名目で衣食住まで与えていた。過ちを犯した身としては、享受することが恐ろしくなるほどの破格の待遇である。
「それに、ルカライネ様はアスマジアーニャンの儀式剣を取り上げることなく、むしろ演習では使うことを容認してくれました。……だからこそ、私はわかりません。そうされると困るとは重々承知ですけど、どうして儀式剣を取り上げようとしないんですか?」
ハウルの声は震えていた。きっとその疑問を問いかけるのに、よほどの勇気を振り絞ったに違いない。
しかし、ルカは口を閉ざしたまま、真っ直ぐにハウルを見据える。
シグマも口を挟むことを躊躇うほど心を締め付ける重たい沈黙。
ややあって、その沈黙を破ったのはルカだった。
「……そうね、いつまでも隠し通せるものではないし、貴方の国の儀式剣を使わせてもらう以上、知る権利がある」
「え……?」
「ただし、この事は他言無用でお願いするわ。もちろん、これはシグマもよ」
有無を言わせぬ眼で睨むルカに、シグマとハウルは困惑しながらも頷く。
いつの間にか焚火の薪は全て焦げ付き、栄えていた火も今ではライターほどになっていた。
先ほどより薄暗くなった世界の中で、ルカは静かにその事実を告げる。
「―――リューズビーリアに儀式剣は無い」
最後の火が弾ける。宙に浮いた火花の粉は、一瞬だけ彼女の悲痛な表情を映して消えた。
「正確には、無くなったというのが正しいけれど。そう言うわけだから、このままシグマが儀式剣を持っていてくれた方が私としても好都合というわけ。
……貴女に罰を与えなかったのは決して慈悲の心からじゃない。打算と我欲に塗れた、慈愛の心からは程遠い感情によるものよ」