出立は突然に
シャランと音を立ててカーテンが開けば、眩い朝日が部屋を照らす。
窓から空を見上げれば、爽やかに透き通るスカイブルーがどこまでも広がっている。どうやら今日一日、雨の心配は無さそうだ。
「うーん、いい天気っ」
日差しを浴びて、ハウルは気持ちよさそうに伸びをする。朗らかに笑うその貌は、外の景色に引けず劣らず清々しい。
「こうやって朝日を浴びると元気がでるよね、シグマ」
その二言目は、部屋の同居人に向けられた言葉だ。しかし返答はおろか、相槌の気配すらない。
「……シグマ?」
てっきり先に起床していたと思っていたハウルは、怪訝そうに彼のベッドの方を見やる。
そこには突っ伏したまま、未だに目を覚まさず惰眠を貪っているシグマの姿があった。
「珍しい、まさかシグマが寝坊するなんて」
ハウルはここの所しばらくシグマと寝起きを共にしていたが、彼女が先に起きたというのはこれが初めてである。
時刻を確認すれば、時計の針は十時前を示していた。
「……我ながら結構寝ちゃったなぁ……」
自身の不健康さに呆れつつ、ハウルはシグマの方へ近づいていく。
あまり人のことを言えた身ではないが、過度の睡眠は体調の乱れに繋がる。そうさせないためにも、彼をここで起こすことにした。
「シグマ、起きて、朝だよー」
ハウルは優しくシグマを揺する。
「…………」
へんじはない。どうやらしんでいるようだ。
「……シグマー、起きないと朝ご飯無くなっちゃうよー!」
今度は少し強めに揺すってみる。すると枕の中から「うぅん」とくぐもった声が聞こえてきた。しかし、それでも起きる気配はない。
「もうっ!」
業を煮やしたハウルは、シグマを動かし仰向けにして、陽の光を無理やり知覚させる。眼は閉じていても明るさは感じ取ったのか、その表情が顰められる。
これはあと一押しだと判断したハウルは、最終手段に出た。
彼の腹に跨り、馬乗りの形に。そのまま彼女が全身を前後に揺らせば、その振動が彼に最大限伝わるのである。
「シーグーマー! あーさーだーよー!」
盛大にシグマの上で動いているからか、ベッドが軋みを上げている。
しかし動いている内に楽しくなってきたようで、ハウルの口元には知らず笑みが浮かんでいた。
そして、流石に全身が振動するような動きを長々と与えられれば、流石にシグマも何事かと薄く目を覚ます。
「―――――」
おそらく絶句という表現がここまで似合う表情も中々あるまい。
寝ぼけ眼だったシグマの瞳は、目の前の現実―――自分の腹の上にハウルが馬乗りになっていること―――を目の当たりにして、何度か瞬いた。
一方、彼の困惑をよそに、ハウルはシグマが目を覚ましたことに気がついて、
「おはよう、シグマ!」
と、元気にあいさつ。
シグマ、状況について行けず困惑がさらに加速。すでに頭の中はクエスチョンマークが七割を占めている(なお残り三割は言わずもがな恥ずかしさである)。
しかしハウルは、未だに彼が呆然としていることをわかっていない。それどころか彼が挨拶を返してこないことに口を尖らせている始末である。
「むー! おはようって言われたらおはようって返すのが基本でしょ!」
「え、あぁ、おはよう……じゃなくて! なんでこんなことになってるの⁉」
「?」
シグマの言わんとするところがわからず、ハウルは首を傾げる。このように純粋な無知は、時として凄まじい破壊力の一撃を難なく打ち出してくるので恐ろしい。
いったいどう説明したものか、彼が頭を悩ませていると、
「それにしても珍しいね、私よりも遅くシグマが起きるなんて」
無理やり起床させてきた犯人が、何気なさそうにそう言った。
しかしシグマは文句を言うことなく、代わりに頭痛を堪えるように額に手を当てる。
「……昨日はレオンさん含む兵士さんたちと飲み会があってね……遅くまで飲んでたものだから、イタタタ……御覧の通り、二日酔いなんだ……」
遡ること三日、シグマはリューズビーリア主催の演習で兵士たちを文字通り蹴散らしてしまった。戦うことは避けられなかったため仕方なくはあるが、さすがにやりすぎたかなと後々彼は反省することになる。
そんなわけで、シグマは兵士たちとの間に深い溝ができてしまっているだろうと思っていたのだが、実際はそんなことは全くなく、レオンに捕まり強制的に連れていかれた店で盛大に迎えられた。
曰く『いやー継承者ってのは強ェんだな!』だの『次は絶対に負けねえぞ!』だの『ところで君と互角に戦ってた姫様も中々に怪物じゃないだろうか』だの、多種多様の賛辞を投げかけられ、シグマとしても関係が壊れていなかったことにホッとしたところである。
しかし、そこで油断したのがまずかった。
兵士たちに言われるがまま参加した飲み会は、想像していたよりもずっと激しく騒がしく地獄だった。缶ジュースを開けるみたいに酒の入った大樽が消費されていく様を見せられて、シグマも戦慄せざるを得なかった。
事前にレオンから『演習明けなのでちょっとはめを外すかもしれませんが、大目に見てあげてください』と言われていたが、あれはどう考えても『ちょっと』の域を逸脱しすぎているだろう。
そして、飲み会に参加したシグマも酒飲み地獄から逃げることはできず、その結果としてここに二日酔いの彼が出来上がっているのである。
「本当にひどかった……大体なんだ『泳ぎ飲み』って。酒樽の中に突き落とされて閉じ込められるだけじゃないか……」
「そ、それは災難だったね……」
いまいち飲み会というものが想像できていなかったハウルも、今のシグマの呟きを聞いてろくでもないということは把握したようだ。
「……ところで、話を戻すけどハウルは何をしてるの?」
「え、シグマを起こそうとしてただけだよ?」
いったい起床を促す行為が、何をどうしたら馬乗りで跨られる状態になるのか、二日酔い+寝起きのシグマの頭ではどれだけ考えてもわからなかった。
「と、とにかく降りて。僕はもう目が覚めたし、このままじゃ起きれないよ」
朝っぱらから思春期の少年の上に女の子が跨るというシチュエーションは、風紀的観点から倫理コードに引っかかりかねない。シグマとしてはこれ以上の取り返しのつかない事態に陥る前にどうにかしたいところなのだが……
「……んー、やだっ☆」
いじわるそうに笑うハウル。シグマにはそれが悪魔の笑みに見えた。
「いやなんで⁉ このままじゃ起きれないって言ってるじゃん!」
「だってシグマが中々起きてくれなかったから、そのおしおき。それにシグマの上って乗り心地が良くて気持ちいいし、楽しいんだもん!」
「ダメだハウル! その発言はいろいろ誤解を生みかねない!」
改めて純粋という存在の残酷さを知るシグマ。
その間にハウルはテンションを上げて跳ね始める。
「ほらほらシグマっ、起きれるものなら起きてみてー!」
「あうっ、ぐぅ、ちょ、そんな、、えぅ、おなかの、うえで、あばれ、ないで……!」
途切れ途切れの懇願も、はしゃいでいる彼女の耳には届かない。
そんな無邪気な少女の激しい動きに、シグマが目を白黒させていると、
「―――失礼します。シグマ様、朝食の方は―――」
絶句したような声の方を見やれば、開かれたドアの前にメイドが立っていた。目は見開かれており、とても驚愕していることが伺える。
当然だ。部屋のドアを開けてみれば、そこにはベッドを軋ませながら激しく動いている男女の姿があったのだから。二人の現在の体位を鑑みても、最悪の誤解へ辿り着くのは容易に分かった。
シグマとメイドの間に気まずい沈黙が流れる(ちなみにハウルは気さくにあいさつをしていた)。
シグマは必死にアイコンタクトで「これは違うんです」と訴えかける。
するとメイドは少しばかり目を瞑り、思案した後、やがてゆっくりと微笑んだ。
「お愉しみのところ、大変失礼致しました」
どうやらシグマとの意思疎通は叶わなかったらしい。
「って待って! そのまま音もたてずに出ていこうとしないで‼ 全部誤解ですからー!」
シグマの叫びも空しく、ドアは静かに閉じられた。
(ま、マズい、このままじゃ、あらぬ誤解が広まってしまう……!)
自信の風評の危機に瀕したシグマは、それを止めるために今のメイドを追うことにした。
ひとまずベッドから跳ね起き、その影響でベッドに転んだハウルを持ち上げ地面に立たせ、一目散にドアの方へ向かう。
二日酔いも何のその。軽快な走りによってすぐにドアへ辿り着いた。
メイドが部屋から出てからそう時間は経っていない。今から追いかけても十分に追いつける。
そう信じて、シグマがドアのノブに手を掛けた、その時だった。
「―――シグマは居るかしら!」
威勢の良い声とともに、ドアが外側から勢いよく開かれる。
そこから参上したのはルカだった。
彼女はずかずかと部屋に入り中を見渡す。その過程で、突然の登場に呆然としていたハウルに目を付けた。
「シグマはどこに居るの?」
他を見渡しても見当たらなかった少年の居場所を、ルカは毅然とした態度でハウルに訊ねる。
その威圧に気圧されていたハウルだったが、それでもゆっくりと震える指でシグマの位置を教える。
「あの、後ろです……」
「後ろ?」
怪訝そうに振り返るルカ。
そこには彼女が勢いよく開け放ったドアと壁に挟まれているシグマの姿が確かにあった。
「なにを朝から遊んでいるのよ」
ルカは呆れたように少しドアを引く。盛大にドアとキスをしたシグマは、この事態を引き起こした元凶に文句も言えずにノックダウンした。
しかし彼女は倒れたシグマの首根っこを掴み、無理やり立ち上がらせる。彼は凄まじい衝撃に目を回しているのだが、このお姫様はそんな些細なことはどうでもいいようだ。
「シグマ。そしてそこのハウルも。急いで遠出の支度をしなさい」
気を失いかけているシグマと事態について行けずおろおろしているハウルに、ルカはそう言った。
その理由を聞き返す間もなく、彼女は答えを口にする。
「これからリューズビーリアの同盟国、シレーニェへ向かうわ。正午には出立するから、それまでに終わらせておくように」