虚人と嘘吐き
流れるそよ風が二人の髪を揺らし、流れていく。外に長時間居たせいか、この風も今は冷たく感じる。
シグマは冷たくなった両手に、息を吹きかけた。
「……何? もしかして凍えているの?」
「いえ、まだそこまではないですけど、ちょっとだけ寒くなってきたなぁ、と」
「たしかに最近は冷えてきたからね。……あ、そうだわ」
するとルカライネは、脇に置いていたポーリからいそいそと金属の筒のようなものを取り出す。その正体に、シグマは見覚えがあった。
「それ……もしかして魔法瓶ですか?」
「ええ、瓶に織り込まれた術式が中の液体を保温してくれる優れ物よ」
どうやら二人の間では、魔法瓶の定義に多少の差異が生じているらしい。
しかしルカライネの方はそれに気づくことなく、魔法瓶の蓋をくるくると回して取り外す。開いた穴からは、ほのかに湯気が立ち上っていた。
「悪いけど貴方の器は持ってきていないから、直接蓋に注がせてもらうわね」
言うが早いか、ルカライネはとくとくと琥珀色の液体を、外した魔法瓶の蓋に注ぎ入れる。蓋の八分目まで溜まったのを見て、彼女はそれをシグマに差し出した。
おそるおそる受け取る。金属から伝う飲み物の熱が、手の冷たさを解いてくれて心地いい。
シグマは器を顔の近くまで持ってくる。鼻孔をくすぐる爽やかな香りに、彼は覚えがあった。
「紅茶だ……」
「ご明察。私特製調合のとっておきよ」
「なんでこの世界に?」
「紅茶だけじゃないわ。他にも貴方の世界の産物は、ある程度流通している。貴方たち継承者を召喚したときの副産物みたいなものよ」
そう言ってルカライネは魔法瓶に口をつけ、静かに紅茶を啜る。ありふれた行為であるが、彼女の上品な所作のせいで美しく感じた。
シグマも質問することはやめ、彼女に倣い器の液体をゆっくりと啜る。
「美味しい……」
「当然でしょう。茶葉の配合から入れ方に至るまで、こだわって作っているんだから」
どこか得意げな彼女の声をよそに、シグマは再び口をつける。今度は小さく、少しずつ。
この黄金にも匹敵する琥珀の液体を飲み干してしまうのがもったいなかった。
そして二人は示し合わせたかのように、同時に頭上を仰ぐ。
先ほどの気まずい沈黙とは違う、今度はどこか満ち足りた静寂。
もうどれくらい時間が経過したのか、時計を持ち合わせていない彼等には知る由もない。けれど頭上の星空は変わることなく煌き瞬いていた。
「……ねえ」
上を見上げたまま、ルカライネは口を開く。その声は少しだけ緊張しているように聞き取れた。
「さっきの話を蒸し返すようで悪いけれど、貴方は本当に私たちを憎んでいないの?」
さっきの話とは、演習でひどい目に合わされた件のことだろう。そう思い至ったシグマは、迷わずに肯定した。
「憎んでなんてないですよ。だって何も失ったものは無かったですから」
「本当に?」
「本当です。……やけに食い下がりますね? どうかしましたか?」
「気になっただけよ。その様子だと本当に大丈夫そうね」
彼女の意図することがわからず、シグマは頭の中で疑問符を浮かべる。そんな彼をよそに、
「よし、決めたわ」
何やらルカライネは覚悟を完了したようだった。
そして彼女は至極まじめな表情でシグマの方を向く。
「シグマ、これからは私のことを〝ルカ〟と呼びなさい」
「………………え?」
思いもよらぬ命令に、シグマは思わず目を点にした。
「敬語も禁止。いずれ王となってもらう以上、貴方は私と対等な関係であってもらうわ」
「なんで、そんないきなり……?」
「王とは誰よりも頂点に立つ存在。その宿命を背負った貴方が私に従っていたら、それを見た者は貴方を王と認めなくなるわ。さすがに私も国民の手前、いきなり『私をこき使いなさい』とは言えないけれど、貴方が王に相応しいと納得できたならそれも許してあげる」
たしかに、彼女の言っていることは正しい。だからこそシグマは否定できずにいる。
「でも、流石にその名前で呼ぶのは……」
「文句は聞かないわ。とりあえず同意の証として、私の名前を呼びなさい」
有無を言わせぬルカライネの圧力に、抵抗することなど叶わなかった。
「えっと…………じゃあ、ルカ、さん?」
「敬語禁止!」
「す、すみま……じゃない。ごめん……ルカ」
消え入りそうにか細いシグマの声。けれどそんなささやかな音量も、この静かな歩廊では十分で。
「よろしい。その呼び方は親しい者にしか許していないわ。だから、どうか大切にして頂戴」
満足したようにルカは微笑んだ。
あの厳格な雰囲気とはかけ離れた、今は少女としての慈愛に満ちた優しい笑み。
その不意打ち気味の攻撃に、シグマの鼓動が加速する。
「……どうしたの? そんなにも顔を紅くして」
「い、いや、なんでもない……!」
気恥ずかしさが勝り、彼女の顔を直視できない。
けれどルカは不思議そうに、シグマを見つめることを止めない。
このまま、もしも追及されようものなら、緊張と動揺で変なことを口走る恐れがある。そこで彼はどうにか話の方向を変えようと、何か別の話題を急いで模索する。
(……そういえば)
一つだけ、気がかりだったことがあった。
「ルカは、どうして僕を召んだの?」
この世界の理をハウルに教えてもらった時から、ずっと抱いていた疑問。
なぜ自分はこの世界に招かれたのか。なぜ自分が王でなくてはならなかったのか。
その答えを持っている人物は目の前に。
―――シグマを召喚したのは、彼女なのだから。
「っ……」
ルカがわずかに息を呑んだ気配が感じ取れる。まるで探られたくないことを、聞かれてしまったというように。
だが、仮にそうであったとしても、シグマは自身の質問を撤回するわけにはいかない。これは彼にとっても重要な事柄。
知っておかなければ、いつまでも彼は前へ進めない。
「……どうしても訊きたいの? 貴方が求めている理由なんて、きっと想像以上にくだらなくて陳腐なものよ?」
シグマは頷く。
それを見て、ルカも諦めたようにため息を吐いた。
「わかったわ、なら教えてあげる」
深紅の双眸が再びシグマを捉える。
その瞳の奥に、どうしてか痛ましさを感じ取ってしまった。
「はっきり言わせてもらうけど―――別に、貴方である必要はどこにも無かった」
その答えを聞いて、シグマの中にある蟠りの一つが消えた。
悲観しているわけではない。むしろそれが当然だと、彼は納得している。
「……ずいぶんと余裕そうね? 私は貴方でなくてもいいと、そう言ったつもりなのだけれど」
「さすがにそれくらいはわかる。でも僕にとって重要だったのは、理由の中身じゃなくて理由そのものだったんだ。自分に何が求められて、何を目指すべきなのか、それをはっきりさせておきたかったから」
「……わからないわ。私はそこまで深い答えを教えたわけじゃない。だというのに、貴方はそれから何を汲み取ったというの?」
ルカの疑問はもっともだ。
彼女の答えは酷く短絡的で、そこに含まれている情報は決して多くない。
だがそれでも、シグマがどうしても知りたいことは入っていた。
「ルカが僕に期待を籠めて召喚したんじゃない、それがわかっただけで十分だ。これで僕は、君を裏切らなくて済むんだから」
「どういう、こと?」
彼の言葉に不穏な空気を感じ取ったルカは、思わずその仔細について訊き返す。
「―――僕には召喚される前の記憶が無い」
「……は……?」
そうして告げられる告白は、彼女の思考を真白に塗り潰してしまうとも知らずに。
「君が求めた人の在り方を、僕は忘れてしまった。だからどうすればその人のように応えられるか、それだけが不安だったんだ」
そうやって、まるで希望を見出しひどく安堵している者の目をしながら。
シグマは自らの不遇を口にする。
「―――――」
ルカは絶句する。
それを冗談か何かの類だと信じたかった。それが戯言であるなら急いで撤回してほしかった。
けれど、
「これで僕は、『知らない僕』としての王を目指さなくていい。彼に王としての役割が見出されなかったのなら、後ろめたさを感じずに今の僕としての王の在り方を模索できる」
彼が語る言葉を嘘と呼ぶには、あまりに芯が籠り過ぎている。
シグマは嘘をついていない。記憶を失っていることも、その戸惑いもすでに払拭していることも、自分が必要とされていなかったことに安堵していることも。
全てが偽りのない気持ちなのだと、ルカはわかってしまった。
「……本当に、何も覚えていないの?」
「うん。……いや、何でもというのは語弊があるか。僕が失った記憶は、僕に関する記憶だけ。名前も、人格も、これまでの人生も、一向に思い出せない。だけどそれ以外の……それこそ言葉とか物の名前とか、そう言った記憶は残っているからルカたちとは問題なく話ができる」
「じゃあ、そのシグマって名前は……」
「これも仮の名前。自分を示す言葉が無いというのは結構不便だったから、とりあえず簡単に決めておいた」
シグマは淡々と質問に答え続ける。けれど、途中でルカが呆然としていることに気づいて、気まずそうに微笑みながら頬を指で掻く。
「そんな顔をしないで。たしかに今の僕はかつての自分を知らないけれど、今のところそれが不便と思ったことは一度もない。この世界の人達はみんな、僕にとっては初対面のはずだからね。話をうまく取り繕う必要も無いんだ」
それは、確かにそうだろう。
本来シグマが元いた世界と今の世界に交流はない。積極的な人員の出入りがない以上、一方の世界から召喚された者にとって、そこは紛うことなく未知の世界。未知であるのだから、知人など早々いることは無いのだ。
しかし、ルカが心配しているのはそんな記憶喪失になってからの影響ではない。
シグマが記憶喪失になっているという、その事実が容易に受け入れられないのである。
だからこそ見当違いな説明を聞かされた彼女は、今度は別の意味で呆然とさせられた。
―――嗚呼、でも。
その事実には心底驚愕させられた。だが同時に、彼女もまた心の隅で安堵しているのもまた事実。
なぜならば。
―――その方が、幸せか。
ただ一人、ルカは己の内で結論付ける。そこにどのような思いのせめぎ合いがあったのかなど、満足そうに空を仰いでいるシグマには感ずることすらできなかった。
それでいい。
少なくとも彼女はたった今できた『その秘密』を、彼に教えることは無いと決意したのだから。
「……刻限ね」
そう呟き、ルカはおもむろに立ち上がった。
先ほどまで浮かべていた微笑みはもう消えている。あるのはいつも通りの、冷酷で厳格な眼差しだけだ。
「帰るのか?」
「ええ。生憎と、やるべき執務はまだまだ残っている。気分転換もできたことだし、このまま残りも片づけてくるわ」
彼女とて暇ではない。この国の最高権力を担う以上、それ相応の債務も必然的に発生する。
此処に来たのは、ほんの気晴らし。シグマと出逢えたのは、ただの偶然。
此処での会話は、彼女にとって余分でしかない。
だからルカは惜しむことなく帰路へ着く。その毅然とした帰り様にどうしてか声をかけることも躊躇われて、代わりにシグマは見送ることにした。
互いの距離が離れていく。もはや言葉は交わされず、静寂な夜に倣うように、今宵の二人の出逢いは終わりを告げる―――
「ああ、そうだ」
その最中、思い出したかのように呟いたのはシグマだった。
それは自分を召喚したことについての疑問。ルカはシグマである必要はなかったと答えたが、それではなぜ彼が選ばれたのか?
ランダム? 運任せ? 無作為な抽出?
そんなやり方で、果たして王に相応しい者を呼べるのか?
否だ、それはありえない。そのやり方が大昔に適用されているのなら、とうにこの世界は滅んでいる。
善人も、悪人も、正義も、邪悪も、本物も、偽物も、有能も、無能も、普遍的な人間さえも、そのやり方では平等に召喚されるのだから。
そう考えると、召喚の際には相応しいとされる人選が行われていると言って良い。
だからこそ生まれた疑問を、シグマはルカの背に投げかける。
「ルカは召喚主なら、僕がどんな人だったか知らないか?」
その質問は、ルカの歩みを止めた。
振り返ることは無く、また言葉もない。その永遠のような沈黙の間は、さりとて一瞬―――
「―――いいえ、微塵も知らないわ」
明確なる拒絶。
彼女はシグマの疑問を、一切の躊躇いなく一蹴した。
「じゃあ今度こそ、さようなら」
そして彼女は別れの言葉を吐いて、歩廊から姿を消した。
残されたシグマはしばらく彼女がいた場所を眺め続け、やがて夜空に視線を戻す。
夜の色は変わらない。ただ星が照らす儚い光だけが、シグマの表情を淡く映した。
黒く濡れた瞳は悲しそうに揺らいでいて、それでも口元は薄く吊り上がっている。
「そっか、残念だ」
その言葉を返す者は此処に居ない。
けれど、もしルカがそれを聞いていたのなら、きっと怪訝そうに眉をひそめていただろう。
だってシグマの呟きには、間違いなく『期待』の色が籠っていたのだから―――
第二章、完結です。
明日からは三章! ……といきたいのですが、明日はお休みます。
ちょっと私情で投稿する暇が無いもので。