安らぎの刻
そして、二人が歩き始めて早三時間。すでに辺りの色も、夕暮れの色に染まり始める時刻。
彼らは未だ、森の中を彷徨い歩いていた。
「……ねえハウル、出口ってどこにあるのかな……?」
「……奇遇だねシグマ。私もまったく同じこと訊こうとしたよ……」
二人ともども、疲労困憊な様子を取り繕うような体力すら、もはや無い。
それもそのはず、彼らは今に至るまで、一度も休むことなく歩き続けていたのだから。
始めの一時間は他愛のない雑談で盛り上がった。次の一時間は体力の温存を優先して、二人とも寡黙に歩き続けた。そしてさらに一時間、もはや歩くことさえ億劫になってきていた。
それでも森の出口は一向に見えない。行けども行けども、目に映るのは延々と同じような景色ばかりだ。
「うぅ、足が痛いや……」
先程の「ケガする前より調子いい」とはなんだったのか。今では所々の筋肉が張っており、今にも攣りそうな感覚に囚われている。
が、ハウルに関してはもっと深刻で、シグマと出会うまで走った疲れ+魔物から逃げた疲れ+戦闘&治癒での疲れ+今まで歩き続けた疲れで、もはや死人のような顔色である。
これ以上、無理に進行するのはまずいことになる。今更ながらにそう実感してきたシグマは、どこか休めそうな場所を探すことにした。
(もう日も暮れかけているし、どこか雨風が凌げるような所は……ん?)
遠く、彼方に見える景色に変化があった。
何か灰色の線が見える。やがてそれは近づくにつれて高さを増していき、さらにある程度近づくと、それは切り立ったような崖であることがわかった。
崖、と言っても、傾斜はそこまで急なものではない。せいぜい六十度気くらいの傾斜で、専用の機材や技術が無くても登れそうなものだった。
しかし、疲労困憊の二人にとっては断崖絶壁と相違ない。少なくとも今から登るのは無謀の極みだと、疲れて思考力の低下した頭でもそう結論付けれた。
要するに、今の二人にとってはここで行き止まり。しばらく森を出ることは叶わない。
だが、二人の表情に落胆の色は無い。いや、むしろその逆だ。彼らはなぜか安堵している。
というのも、目の前にそびえ立つ崖の下、その根元に、シグマの身長よりも一回り大きい空洞ができていたのだ。
ようやく落ち着いて休める場所が見つかった。
「ハウル、今日はもうあの洞窟で休もう」
「うん、私もそれがいいと思う。これ以上無理してもしょうがないしね」
互いの意見はぶつかることなく、綺麗に決まった。
そして二人は、ひとまず洞窟の中へ入り、中の状態を確認する。
外の気温よりは若干涼しげだが、疲れて火照った体には心地いい。この火照りが冷めた後でも、このくらいの気温なら凍えることはないだろう。
奥は続いているわけではなく、十メートルも行けば行き止まりだが、この場で一晩明かす身としては、変に開通していて風通しが良すぎても困るので、その点もちょうどいい。
また、動物が寝床として使っているような形跡もない。これならば、この洞窟を巣としている猛獣などに会うことも無いだろう。
つまり完璧。最高にベスト。一夜を過ごすだけなら快適すぎる空間だ。
無事に空間内の快適性が判明したことで、二人はようやく向き合うようにして壁にもたれかけ、そのままズルズルと腰を下ろした。
なんとないこの動作で、溜まった疲労が溶けていくようだった。
「はぁー、疲れた。もうこのままずっと座っていたい……」
「とてもわかる。こんなの、もう立ち上がりたくないよぉ……」
疲労も身体もとろけるような感覚。それに抗う術など何もなく、二人はそのまま全身の力を抜いて享受する。
それに伴い、今日あった出来事が、まるで走馬燈のようにシグマの頭の中を駆け巡る。
記憶を無くした。知らない土地で目覚めた。ハウルと出会った。ハウルにこの世界のことを教えてもらった。ゴブリンとオークに襲われた。それをハウルが撃退した。足が焼けて再起不能になりかけた。それをハウルが治してくれた。そして二人で、ここまで歩いていた。
とても半日で起きた出来事とは到底思えない濃密さ。改めて振り返ると、自分は今日だけで何回か死にかけているな、とシグマは我が事ながら呆れかえる。
そして同時に、この世界の仕組みについて疑問を抱いていたことも思い出した。
(そういえば、ハウルは魔法? みたいなのを使ってたな)
濃密な半日の中でも、ひときわ強く印象に残っている魔物との戦い。
(あんな化け物に怯えずに、一人で立ち向かうなんて。とても―――)
かっこよかった、と思う。
きっとハウルがいなかったら、シグマはは今頃肉塊と成り果てて、あの魔物たちに平らげられていたことだろう。
(……そうだ、僕は何もできなかった)
この年幾何も無い少女だけが戦って、自分は見ているだけで、そう考えると情けなくて不甲斐なくなる。
(ハウルは助けてくれるばかりで、僕は助けられるばかり。こんなの、どうしようもないお荷物扱いじゃないか)
何もできなかったという後悔が、シグマの心を締め付ける。それで自己嫌悪に陥りかけていることに気づき、気分を変えるために洞窟の外を眺め視た。
辺りはもう、燃えているような茜色だ。あと少しもすれば日は沈み、やがて夜となるだろう。
そして、茜色に染まる森を見て、その森でハウルに教えられたことを思い出した。
(僕は『王位継承者』。やがて王となる者の資格を持った一人―――)
話によれば、自分は王様になるために、他の王位継承者と戦うことになるのだという。
(なんで、そんなものに僕は選ばれたんだろう……?)
少なくとも自分に、王様のようなカリスマ性があるとは思わない。だというのに、自分は此処に呼ばれた。記憶を失うという代償を伴って。
もしかしたら記憶を失う前の自分は、あるいは何かのリーダーだったりしたのかもしれない。
でも、だとしたら、自分を召喚した召喚主は、そのリーダーの役割を持っていた自分に期待して呼んだのだ。だけど今ここに居るのは、そんな手腕など忘却してしまった抜け殻だけ。いったいその事実を突きつけられて、召喚主はどんな顔になるだろう。
(って、いけない。また先行きの暗いことを考えてしまった……)
でも同時に、仕方のないことだとも思う。
何もないとこに召喚されて、記憶は無くなっていて、召喚されたところには魔物のような危険な生物がいて……考える限り、最悪な状況極まりない。
このままでは他の王位継承者と合う前に命を落としてしまいかねなかった。
(……ん? あれ、でも待て。じゃあ僕はどうやって、他の王位継承者と戦うんだ?)
唐突にその疑問が浮かぶ。
まず戦うと言っても、その方法はどうするのか。
少なくともタイマンでの殴り合いは無いだろう。そもそもこの儀式は王となるにふさわしい者を見出すために行われるのだから、単純な殴り合いではその器を計れないはずだ。
では他の仲間を集めての戦争かとも思ったが、この方法も間違いだと気づく。
なぜなら、シグマの知る限りの生身の地球人で、ハウルのような魔法使いに敵う者などいないからだ。仮に彼女ような存在が数多と存在して、それを集わせて戦わせることが戦争だというのなら、そこに召喚された継承者の出番などあるはずがない。
(現にさっきの戦いじゃ、僕は手も足も出せなかった)
そんな他人に任せて自分は傍観するような戦いを幾千と行ったところで、それでも王の器が見極めれるとは思えない。
あるいは軍師として戦うのかとも思ったが、それも甚だ疑わしい。
そも、軍師とは戦争の戦局を左右させる重要な立ち位置である。それが下す決断によって、戦場での戦死者数が大きく変わることもあるのだ。
そんな自分の命を預けているような役割に、いきなり無名の人間がそこに就くと言われて、兵士たちは素直に頷くかと言われれば、きっとそうはいかないだろう。
少なくとも自分なら逃げると、シグマはそう思う。
では、本当にどうやって戦うのか。いくら考えてもわからない。
(これは訊いた方が早いな)
とりあえず、目の前でシグマと同じように脱力し和んでいるハウルに、その答えを訊こうとした。
すると、グゥ~という間抜けな音が、ハウルのお腹から鳴り響いた。
「あ、……」
その気まずそうな声はどちらのものだったか。
ハウルは一瞬で顔を赤くして萎縮し、シグマは聞こえてしまったことに罪悪感を覚えて目を伏せる。
その途端、グゥ~と、今度はシグマの腹から同じような音が鳴り響く。
微妙な空気が辺りに流れる。
「……プッ、あはははははは」
そして、どちらからともなく噴き出し、二人ともども笑い合った。
「ははは……ふぅ、お腹空いたね」
「そうだね。よく考えたら私、今日は朝から何も食べてないや」
「よし、じゃあ食糧調達に行こう。少し休んだし、僕はもう動ける。ハウルはまだ休んでおく?」
「ううん、私も平気。それより日が暮れたら見つけにくくなるから、ちょっと急いだほうがいいかも」
「それもそうだね。じゃあ二人で行こう。こんなにも大きい森だし、きっ自然の恵みもたくさんあると思う」
実際に、ここに来るまでに何度か、木の枝にぶら下がっている果実らしきものを見た。
その時は追手から逃げるのに急いでいたのと、あとその果実の安全性が不安だったので口にはしなかったが、ここまで空腹になってしまったらもう二の次は言っていられない。
そして二人は、自身の空腹を満たしてくれる食糧を求めて、再び森へ踏み出した―――
洞窟を出て約五分。意外にも早く、食料となりそうなものは見つかった。
というのも、洞窟を出て周りを見渡した時に、そのまま崖の上を見上げたところ、なにかソフトボール大の赤い果実をぶら下げている木が生えているのを見つけたのだ。
休憩して体力もあらかた回復していたこともあって、崖を上るのはそう難しくなかった。
で、二人は念願の食料のなる木に辿り着けたのだが……。
「……高いな」
「……高いね」
二人して同じことを呟く。
目の前には崖下で見た赤い果実を無数に実らせている木。実っている果実も傷がある物はほとんどなく、いい具合に熟れているように思えた。
が、如何せん実っている位置が高い。どの果実も見上げる位置にしか実っていないのだ。
そのためハウルの身長ではまず届かず、シグマでも全力でジャンプしてあと腕一本分届かない。
それなら木をよじ登ってやろうとも考えたが、木の表面には茨のような棘がびっしりと生え揃い、無理に登れば手足が出血大サービスになるのは明白だった。
しかし選り好んで他の食物を探しに行く時間も無い。もうすぐすれば日も暮れる。ここに来るまで何も出会うことは無かったが、夜になればあるいは夜行性の動物が動き出すかもしれない。そしてその動物が人畜無害な草食動物とも限らない。
であれば、どうにかしてこの果物を手に入れるしかない。二人はその方法を考えることにした。
「そうだ、さっきハウルが使っていた魔法で撃ち落とせないかな?」
先刻の対魔物戦を思い出し、シグマはそう提案した。あの時にオークを降したあの技を使えば、高い木の実もここから撃ち落とせるのではないかと考えたのだ。
だが、ハウルは申し訳なさそうに首を横に振る。
「ごめんなさい。『闇夜を穿つ眩き閃光』は、そんなに命中精度が高くないの。だから着弾率を上げるために、さっきみたいにいっぱい撃つことになるんだけど……」
「……そんなことしたら、あの木の実は落ちるどころか粉々になるね。じゃあ、他の方法か……さて、どうしよう」
必死に脳を回転させ提案し合い、首を傾げては否定し合う。そんなこんなでいくつか案を出した結果、最終的に出た一つの方法で双方合意した。つまりは……
「やっぱり単純かつ明瞭に、僕がハウルを持ち上げよう。肩車作戦だ」
「……そうだね、それしかないよね……」
シグマ命名『肩車作戦』とは、その名の通り彼がハウルを肩車して、彼女を木の実まで届かせるという実にシンプルな作戦だ。だが、シンプル故にやりやすく、ほぼ確実にあの木の実が手に入る。
そんなわけで決まった『肩車作戦』。が、ハウルはあまり乗り気ではない。というのも、
「……いい? 絶対に、ぜーったいに頭を動かさないでね⁉ ぜったいだからね⁉」
ハウルは赤面しながら、強くそう言ってきた。一方、膝を下ろして蹲るような格好になっているシグマは、緊張で半ば硬直しながら「ワカッテル、ワカッテマス」と片言の返事を返すのが精いっぱいだった。
そう、この作戦、なにが問題がなのかというと、シグマはハウルを肩車するときに彼女の太ももに頭を挟まれる事態になるのだ。そういったことになるため、ハウルは自分から肩車作戦を口にできず、シグマも作戦を実行に移すために蹲ったところで初めてその事実を気がついた。
しかし他に作戦も思いつかない。ハウルも潔く覚悟を決めて、シグマの首元に腰を下ろすことにした。ただし、その顔は羞恥で茹でダコのように真っ赤である。今にも火を噴きそうなほどだった。
そしてシグマも内心冷や汗ダラダラの状態で、蹲ったままハウルの着座を待つ。
(むっ、無だ。心をひたすら無にして、今からの煩悩のあれこれに打ち勝つんだ! そうだ、落ち着けば何も怖くない、こんなのはただの皮膚の接触、何気ない日常の中で人とすれ違う時なんかに偶然起こる現象とおんなじ―――)
気づかれないように必死に精神を統一し続けるシグマ。
そこへ、意を決したハウルがおずおずと肩に足を掛けてきた。首元に彼女の重さを感じるとともに、視界の端にミニパンツから抜き出た白魚のような素足が伸びてくるのが映る。緊張からか、彼女の足から伝わる温度は少し熱く、汗でしっとりとしているのが手に取るようにわかる。
とても精神を保ってなどいられなかった。
(しゅ、集中しろ、意識を乱しちゃだめだ! 心を無に、意識を無に、神経を無に、無に無に無に無に無に無にむにむにむにムニムニムニ……って違うだろ何考えてんだ僕はぁ――――――⁉)
一瞬でも気を抜けば、煩悩の波に身を呑まれる。直感でそう悟ったシグマは、なんとか意識を別方向へ逸らそうと試行錯誤を繰り返す。終いには脳内で羊を数え始めた。
「シ、シグマぁ……まだ……?」
羊を七匹数えたところで上からか細い声が聞こえ、シグマは慌てて我に返る。
「う、うん、大丈夫。それじゃあ今から立つから、落ちないように気を付けて」
上のハウルに注意を促し、シグマは下半身に力を籠めてゆっくりと立ち上がる。彼女が小柄だったおかげか、それほど苦になるような重さを感じない。立ち上がるのは容易だった。
「どう? 届きそう?」
ハウルのお願いで首を下に向けたままのシグマは、届いたかどうかの結果がわからない。が、ハウルが賢明に手を伸ばそうとしているのは感じ取った。
「あ、と、すこ、しぃ……!」
どうやら寸でのところで届かなかったらしい。全身を伸ばそうと努力している彼女から、絞り出すような答えが返ってくる。
そこでシグマは、彼女を乗せたまま爪先立ちをする。これで少しは距離が稼げたはずだ。
「あ、やった! 届いた! 取れたよシグマ! ほら!」
途端、上から嬉しそうな声が聞こえてきた。ハウルは喜びのあまり、取れた木の実をシグマに見せようと、伸ばした身体を曲げようとした。
「え、ちょっ、ハウル⁉」
急な体重移動に焦りの声を上げるシグマ。そもそも爪先たちという不安定極まりない体勢で、上の者がお辞儀をするように体を曲げては支えきれない。そんなことをすれば重心は前へとずれて、そのまま倒れてしまう。
しかも、目の前には鋭い棘を纏った木。このまま前に倒れれば、シグマはともかく上のハウルは直撃して、おろし金よろしくズタズタにされかねない……!
「―――フン……ッ!」
シグマは完全に体が倒れきる前に、全力で腰を後ろに反らした。おかげで前へと傾いていた重心が後ろの方へずれた。が、全力を籠めたのが仇となり、そのまま重心は後ろへ傾き続け、二人の体は後ろへと倒れていく。
「うわ、うわわわわわ⁉」
傾いていく体勢に慌てるハウル。
しかし今度は後方に倒れているので、棘まみれの木にすりおろされる心配はない。ないのだが……
(あ、まずい。このままだとハウルにプロレス技を見舞うことになる……!)
シグマもあまりプロレスに詳しいわけではないが、何かこう、相手を持ち上げて床に叩きつけるような技があるのを知っている。
今のこの状況、まさにハウルを床に叩きつける数秒前。決まったら絶対に痛い。
「ハウル! 手ぇ離すよ!」
完全に倒れるまでの刹那、そう叫ぶと同時に実行した。離すついでに掴んでいた足を上にお押し上げることで、ハウルは一瞬だけ宙に滞空し、代わりにシグマが先に倒れる形となった。
これでハウルにプロレス技が決まる可能性は無くなった。そう考え安堵するシグマの背中に、軽い衝撃が伝わる。倒れる際に首を丸めておいたので、後頭部を強打することもなくたおれることができた。
その事実にホッと息を吐こうとした、その直後、
「―――グムッ⁉」
上から落下してきた何かに、思いっきり顔を押し潰される。
「あい、たたたた………」
当然、落ちてきた何かとはハウルのことである。尻餅を突くような形で落下してきた彼女は、受け身も取れぬまま着地したことで盛大にお尻を打った。あまりの痛さに若干涙目である。
しかし、どこか骨折しただとか、そこまでの重傷でもない。この痛みもしばらくすれば引くだろうと、ハウルは自分でそう判断した。
「シグマ、大丈夫?」
とりあえずもう一人の仲間に声をかけてみるが、なぜか返事が返ってこない。
怪訝に思い首を傾げるハウル。と、視線を下げると、そこには呼んだ人物の身体が横たわっていた。
(……あれ、そういえば、妙に地面が盛り上がってるような……?)
彼女が現状を把握し始めたその時―――いきなり何者かに自分の尻を掴まれた。
「ひゃうっ⁉」
突然の出来事に、ハウルは驚きの声を上げる。
「な、ななななに⁉ 敵襲⁉ それとも何かのトラップ⁉ それとももう朝なの⁉」
混乱によって言語がめちゃめちゃになるハウル。わけもわからぬまま再び古本を取り出し、未だ自分の尻を揉んでいる不埒者に向けて制裁を課すために先程の砲門を構えようとする。
「んんん! んんんんんんん、んんんんん~~~~~~~‼」
と、そこで真下からくぐもった悲鳴のような声が聴こえることに気がついた。同時に、ハウルのお尻を掴んでいる手が彼女を退けようとしていることも。
「え、あ、シグマ⁉ ななんでこんなところに⁉」
ようやくシグマを見つけたハウルは、そこで自分が彼の頭に馬乗りに乗っていることをようやく理解し、赤面しながらも慌てて転げ降りた。
一方、今の今までずっとハウルの尻に敷かれていたシグマは、酸素不足でかなり青白い顔をしていた。ハウルが退いたことで呼吸ができるようになった彼は、大きく息を吸う。
「はぁー、はぁー、……ち、窒息死するかと思った」
どうやらシグマは絶対絶命の状態に意識を保つことで精いっぱいで、自分がどんな状態だったのかは理解していないらしい。
(よ、よかった……気づいてないみたい)
ハウルはシグマに気づかれないように内心安堵し、自分の後ろに手を回しお尻をさする。強引に掴まれたからか、未だに少し熱く感じた。
「……ハウル? なにかあったの?」
と、そんな彼女に不思議に思ったシグマが、そう訊いてきた。
「う、ううん、なんでもないよ!」
慌てて首を横に振って問題ないと告げる。しかしそんな彼女の慌て様にシグマはますます首を傾げるばかりだ。
先程どうなっていたかを説明するわけにはいかないので、何とか話を別に逸らそうとハウルは辺りを見回す。すると視界に、収穫できた赤い木の実が映った。
「そ、そうだ。シグマ、結局木の実は取れたけど……食べられるかな?」
「どうだろう? ちょっと確かめてみようか」
野生に自生している植物には、生存確率を上げるために毒を生成できるよう進化したものが数多と存在する。そしてそういった中には、あえて食欲をそそるような色や香り、もしくは外形を整えるなどして、人を殺すために進化したような植物も少なからずいるのだ。例えば、スイセンをニラと間違え誤食し、食中毒を起こして死ぬという事例がそれに挙げられる。
そういった点からも、目の前の正体不明の木の実をすぐに食べようとしなかった二人の判断は正しい。もしもあれが致死性の毒を持っていれば、たちまちのうちに死んでしまう。
シグマは落ちた木の実を手に取り、まずは外観を確認する。取る前からわかっていたことではあるが、やはりその外観はリンゴととても似ている。鮮やかな赤色をしたその果実は十分熟れており、その重さはずっしりと中身が詰まっていることを証明していた。
次に匂いを嗅いでみる。その香りはリンゴよりもミカンのような柑橘類に近しく、特に刺激臭などの危険を思わせるような臭いはしない。
「外観、匂いは問題なし、と。……さて、じゃあ問題の毒味といこう。ハウル、もしもの時は僕の口に指を突っ込んで吐かせて。汚いかもしれないけど」
「わかった。……その、頑張って」
ハウルの期待の籠もった眼差しに微笑み返すと、いよいよシグマはその果実に歯を立てた。
豪快にかぶりつくのではなく、小さく、欠片を削り取るように噛む。果実の噛み痕を見てみれば、意外にも外観同様赤い色をしていた。そして、噛み取った欠片を下の上で転がして慎重に吟味する。
これで舌先がしびれようものなら、全神経を使ってこの欠片を吐き出さなければならない。
が、一向にその傾向は訪れない。それどころか、転がすごとに香りが沸き立ち、甘酸っぱい濃厚な味が舌全体へと浸透してくる。
強いて言えば、この上なく美味だった。
たまらず、シグマはその欠片を飲み込みたくなる衝動に駆られる。しかしその衝動を抑えつけて我慢し、舌の上で転がし続けた。
体感時間で一分が経過して、それでもなお舌先がしびれることは無かった。
そこでようやくシグマはこの果実に危険が無いと判断し、待ちに待った念願の咀嚼を行った。
たった一欠片を転がしていただけで染み出ていた香りと味が、咀嚼することによって果汁と共に溢れ出す。
濃厚なその果汁を最後まで味わって、シグマはゆっくりと欠片を飲み込んだ。
数時間ぶりに取り入れた食べ物を味わいつくすように喉はゆっくりと欠片を運び、胃に到着した途端、全身に染み渡るような感覚が伝わってきた。
そして完全に嚥下し、それでも体に異常を示す発作は訪れない。
「……どう?」
飲み込んだまま硬直して動かないシグマを心配して、たまらずハウルは声をかけた。
シグマは何も答えず一人大きく頷くと、ハウルに持っていた果実を差し出した。
「食べてごらん。とてもおいしいよ」
その答えを待っていたハウルは「ホント⁉」と嬉しそうな声を上げ、シグマから果実を受け取る。
そして、おそるおそるその実を齧った。途端、たちまちのうちに表情を崩し、幸せそうな笑みを見せる。
「うん、おいしい! 甘酸っぱくて、実が柔らかいね」
朗らかな表情でまた一口大きく齧る。シャクリと軽快な音が聴こえてきて、シグマはたまらず生唾を飲み込んだ。
「……あ、ごめんなさい。私だけ食べちゃって」
シグマの様子を見て、申し訳なさそうにハウルが食べかけの果実を渡してくる。自分が食べたがっていることが抑えられず表情に出ていたことを申し訳なく思いながら、「ごめんね」とシグマは果実を受け取った。
次の一口は盛大に。力強く齧ったことでより一層果汁が溢れ、濃厚な甘酸っぱさが口内を支配する。
あまりの美味しさに頬が緩むのを止められなかった。
「うーん、本当おいしいな。……でも」
シグマは手の平にある果実の残りを見て眉をひそめる。
「足りないね」
「半分じゃお腹いっぱいにならないね」
とても今の一口では空腹は満たされなかった。当然、それハウルも同じだ。
そもそも極限の空腹状態であった二人で、この中くらいのサイズの果実一つを分け合って飢えをしのぐなど土台無理な話である。
二人して再び上を見上げる。
食べた果実が実っていた木には、未だ多くの同じ果実が実っている。しかし、そのどれもが高い位置に生っている。
あれを取るにはどうにかして二人で協力する必要があるが……
「さっきの方法はいろいろ危なかったしなぁ」
「……うん、確かにいろいろと危なかったね」
二人して同じ感想を漏らすが、頭に思い浮かんでいるのは全く別の光景である。現に、シグマはハウルすりおろし一歩手前や窒息死寸前のことを思い出して顔を青ざめさせており、ハウルはシグマの顔面に着地したことや尻を揉まれたことを思い出して顔を真っ赤に染め上げていた。
とてもじゃないが、さっきの方法は避けたい二人。だが、そうなるとまた他の案を考える必要がある。
だが、先ほども延々と議論して、この方法しかないと判断した上で実行に移したのだ。めぼしい案はその時に出しており、今では馬鹿げた案も出てこない。
(……そうだ、着眼点を変えてみよう。取ろうとするんじゃなくて、取れる位置に持ってくるとかどうだろう)
そこでシグマは、改めて生っている果実に注目する。
どれもこれも丸々と肥え太った果実ばかり。だが、それらを支えているのは意外にも細い枝一本のみだ。
(あれなら、強く揺らしたりすれば落ちてくるかも)
森でカブトムシやクワガタを採取するときに、木の幹を強く蹴って振動を与えることで落とすというやり方がある。それがこの果実を入手するのにも使えるのではないかとシグマは考えた。
(……でも、あの棘だらけの幹を蹴るのは、こっちの足が持たないよな)
果実を生やす木の幹を覆う棘はそれなりに長い。あの幹を思いきり蹴ろうものなら、足裏が穴だらけになりかねない。
(なら、あの果実になにかぶつけてみるか?)
周りを見渡す。どこもかしこも草丈の低い雑草が生えているばかりで、投擲できそうな石ころ一つ見当たらない。
(ダメか……さすがにスマホを投げつけるわけにもいかないし……)
再び上を見上げてみる。
ここからでは高く遠い木の実が、こちらを煽るようにそよ風に揺られている。
シグマは『狐とブドウ』のイソップ物語を思い出した。童話の主人公である狐は、森で高いところに実っているブドウを見つけ、なんとかして手に入れようとするのだ。
ちなみにこの物語の最後は、狐はとうとうブドウを手に入れることを諦め「あのブドウは酸っぱいから食べてもまずい」と自分に言い聞かせて立ち去るという終わりだが、極限の空腹状態である二人にそんな選択肢は存在しない。というかどれだけ言い聞かせたところで、一度その味を味わっているので暗示が効かないのである。
(思いつかないな……ハウルはどうだろ?)
ちらりと横にいるハウルを見てみる。
彼女も難しそうな表情でうんうんと唸っており、良い案が思いつかないらしい。
(……さっきの、なんだっけ? オダーフ何とかいう技も使うわけにはいかないし―――いや、待てよ?)
そこで、ふとシグマは思い立ち、果実の生る木とハウルを交互に見やる。
触れないほど鋭い棘を纏う木、彼女の撃つ雨あられのような光弾の波、揺らせば落とせそうな果実。
それらがパズルのピースみたいに繋がっていき、一つの方法を導き出した。
「何だ、けっこう簡単なことじゃないか」
指を鳴らしてそう言ったシグマに、ハウルは怪訝そうな顔で彼を見る。
「何か方法が見つかったの?」
「うん、それもとびきり安全で簡単に手に入る方法をね」
シグマはハウルに自分の考えた方法を伝える。
そして実行に移すのに、そう準備も時間もかからなかった。
「シグマ、準備できたよ」
そう言った彼女の周囲には、先ほどオークを屠ったいくつもの光弾が飛び回っている。
それを確認し、彼女から離れた位置にいるシグマは満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ思い切って全力で、盛大にぶちかまそう」
ハウルは「わかった」と返事し、目標の木に注目する。
「『闇夜を穿つ眩き閃光』‼」
そして、引き金となる技の名を高らかと叫んだ―――途端、滞空していた光弾が矢継ぎ早に発射された。
狙いは疎ら、一つの焦点に集中させることを困難とするこの技は、あの果実の細い枝を狙って射折るといった芸当はできはしない。
だから目標を、果実の細い枝ではなく、それを実らせている木の幹とした。
直後、光弾の津波が幹に炸裂し、大地と共にその図体を大きく震わせた。その震えは当然上に伝わっていき、いくつもの果実が暴れるように揺れる。だが、
(くっ……! あれだけ揺れておいてまだ落ちないのか⁉ これじゃあまだ止めれない!)
シグマの役割は、果実が落ちたことをハウルに伝えるといったものだ。もしも果実が振動で落ちたとして、下で待っているのは幹を撃つ光弾の波。そのままそこへ落下してしまえば、結局果実は粉々になってしまう。そのため、そういったことを防止するために彼はその役割に就いた。
だが、依然としてその果実は枝に執着したまま離さない。中には大きく弧を描くように振り回されている果実もちらほらあるが、それでも一つたりとも落下しない。
このまま光弾を撃ち続けてもジリ貧は避けられない。あの光弾を作り出す何かも無限ではないだろうし、ハウルが力果ててしまうのがオチだ。
「ハウル! もっと出力は上げられる⁉」
今の出力を維持するより瞬間的に火力を上げた方が得策だと判断したシグマは、怒号に負けじと大声でハウルに問いかける。
だがすでに彼女の表情は必死だった。歯を食いしばりながら見えない何かに耐えるように、次々と光弾を生成している。
その様子を見てまたシグマの心がズキリと痛む。また、自分は何もできず、また、彼女に押し付けて、また、自分は傍観しているだけ。
―――自分は、無力だ。
その事実に歯噛みしたとき、
「ぐっ、ウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ‼」
ハウルが唸るような声を上げて、その出力を無理やり底上げた。
途端、光弾の津波はさらに密度を増す。もはや極太の光線と見紛うような光弾の奔流は、目標の木をさらに大きく震わせる。
木は軋みを上げ、上部の枝葉を盛大に揺らし、それに伴い果実も激しく振り回される。
そして、遂に―――
「……え?」
シグマはその光景に唖然とした。
未だ果実は落ちていない。だが彼はその事実に呆けたわけではない。
彼の視線が突き刺さるのは、その木の根元。何か、こう徐々に、根元の周囲の土が盛り上がっているような……
「うそだろ、まさか―――⁉」
ハウルも事の変化を感じ取って、光弾の放出を取りやめた。
だが、それでも木の動きは変わらない。すでに木の根を覆っていた土は完全に盛り上がり、その巨体は目に見えてわかるほど傾きかけ、もはや自身で支えることは不可能となっている。
そして、結果が訪れるのにそう時間はかからなかった。
次の瞬間―――軋み音と破砕音の混合音を高らかに叫びながら、その大木が地に伏せた。
想像を遥かに超えた結果に、二人して絶句する。
あれだけ高くそびえ立っていた大木が、今では眠るように横たわっている。
もともと果実を揺らして落とそうとした結果がこうなるとは思わなかった。
が、いつまでも呆けている二人ではない。やがて彼らは、果実を実らせていた木の上部が普通に届く位置にあることに気づき、はしゃぎそうになる心を押さえて駆け寄った。
そこには丸々と肥え太った赤い果実が、いくつもぶら下がっていた。そのどれもが先程採取した果実と同等か、あるいはそれ以上の光沢を持っており、見ただけで唾液が出てきそうになる。
「シグマ、シグマっ!」
「うん、好きなものを取ろう! こんなにあるんだ、たくさん取ってもまだ余るよ」
楽しそうに笑い合いながら、二人はそれぞれ果実を採取する。
「よし、それじゃあ!」
手に持った赤く輝く果実を眺めて、シグマとハウルは同時に、
「いただきまーす!」
そう言って、その果肉にかぶりついた。
そして二人の幸せそうな声が、森一面に響き渡る。
彼らのその後が、幸福で満ち溢れていたのは言うまでもない。