身を縛る戒め
今年中にはリューズビーリア編を終わらせたいと思う所存です
「……シャルベリア、一ついい?」
先ほどのようにルカライネから目を離さぬよう、その動向に注意しながら、シグマは静かに儀式剣にいる彼女に訊ねる。すると間を置かず、返答が返ってきた。
『どうした主? なんなりと訊くがいい』
「君には今、この戦場の景色は見えているのか?」
『無論。主の視界とは即ち我の視界。我は貴様の目を通して、外界の光景を覗き見ているのだからな』
「なら、この触腕を使ってあの姫様を絡め取ることはできる?」
シグマから生えている触腕は、もとはシャルベリアから譲渡されたもの。そのため彼女に制御を渡した方が、自分よりも精密に制御できるのではと彼は考えたのだが……
『できぬわけではない。が、些か精密さには欠ける。至近距離ならまだしも、遠方からの試みとなれば恐らく無理だろうな』
「そっか……」
焦りの色を滲ませて、シグマの頬に汗が伝う。
至近距離への接近。それがルカライネとの戦闘においてどれだけの難易度を誇るかは、言うに難くない。
『……ところで、先ほどから気になって仕方がないのだが―――』
シャルベリアの声は、酷く平坦なものだった。
つまらない映画を延々と繰り返し見せられて、呆れを通り越し感情すら消えてしまったもののそれ。
彼女は声のトーンを一切揺るがさず、シグマの醜態について訊ねる。
『貴様、まさかあの小娘に対して、攻撃を躊躇ってはいないだろうな?』
たった一瞬ではあるものの、それでも確実に。
シグマの鼓動が跳ね上がった。
「何を、言って……」
『隠すつもりなら、もう少し巧く取り繕うことだ』
吐こうとした嘘は、すでに見透かされていた。
『主が何に囚われているかは我の知るところではない。だがな、貴様が手を抜いているせいで、小娘との闘争が全て茶番になっているのは見過ごせん。我は貴様の不殺を容認したが、このまま無様な醜態を見せるというなら、貴様は此処で潰えた方が今後の為だ』
「…………」
『抗え、主。たとえ如何な枷に縛られた身だとしても、我が力を駆使して活路を開け。それとも貴様の覇道は、此処で途絶えるほど陳腐なものか?』
正直、耳が痛かった。
彼女の言葉は全て正しいし、だからこそ言い返せない。
だけど、ここで辞める気など更々無かった。
シグマは王位継承者として、様々な重荷を背負っている。それを投げ出してしまえば、自分以外の誰かも苦しむことになるということを知ってしまったから。
「……尽力しよう。僕もこの戦いは負けたくはない」
『その意義や良し。始めからそうあってくれれば好かったのだがな。しかし主も何か別問題を抱えているのだろうし、そう深々と叱咤するのは止めておこう』
その気遣いは、心底ありがたかった。
なぜなら眼前ではすでにルカライネが構えている。シグマがシャルベリアと話していた五秒ほどの時間で、彼女は完全に息を整えてしまった。
これでこの戦いは仕切り直し―――というわけにもいかない。
シグマに纏う激痛は、もはや痛覚神経が麻痺してしまうレベルにまで躰を追い詰めている。
きっと残された猶予など、微々たるものだ。
「う、づッ……!」
この期に及んで、シグマは背面腰部からさらに触腕を生やす。これで総数は十五本。すでに人としての造形は崩壊寸前の有り様となっていた。
それを視て、ルカライネは目を眇めた。いったい何を思っているのか、その瞳を見ただけではシグマにはわからなかったけど。
なぜか彼女の双眸に、悲痛な色が混じっている気がした。
だがそれも一瞬。すぐに元の表情に戻ると、剣の切先をシグマの方へ突きつけて―――突撃。
噴炎を用いた加速は彼女に砲弾並みの速度を与え、恐るべき勢いでシグマに接近する。
しかし、
(―――視えた―――!)
今度の突進は彼も捉えていた。それもルカライネの姿ではなく、彼女の持つ剣の全容を。
そして突進の勢いを加算して突き出した刺突を、シグマは咄嗟に構えた儀式剣で受け止めることに成功した。
耳を劈く金属同士の衝突音。ここに来て一度も使われなかった武器を使用してきたことに、ルカライネは疑問を浮かべる。
それが単なる脊髄反射によるものか、あるいは、なにか策があってのことなのか。
答えが出る前に、ルカライネは刺突で突き出した腕をシグマに掴まれる。
「なんですって……っ⁉」
肉が焦げる音と共に、シグマの手から白煙が上る。炎を司る彼女の身体は、必然火炎と同じ熱を持つ。それは当人にとっては平気なことでも、他者が触れればそれは即ち炎に触れているのと同じこと。肉は焼焦げ、血は沸騰し、命は燃え尽きていく。
だというのに、シグマは掴んだ手を離さない。その貌は苦痛に染まっていていながら、それでも口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「やっと捕まえた! これであなたの剣を―――!」
「しまっ……⁉」
シグマが狙っていたのは、ルカライネの戦闘力減少。彼女を脅威足らしめるものを徐々に削ぐことで、戦う術を失わせるということだった。
しかし、彼女に纏う火炎が消せないことは先ほどハウルの魔術で判明したため、これを後回し。代わりに彼女の獲物である剣を封じ取り上げることで、彼女の物理的迎撃手段を失くすことができる。次に触腕の乱舞を目の当たりにしても、彼女には捌くための道具がないため、逃げて避けることしかできない。そうすればいずれ魔力も尽きて、火炎も糧を失くして燃焼することができなくなるのではないかと考えた。
いくらルカライネが強力な姫騎士だとしても、基が女の子であることは変わらない。何らかの魔術を使用しているのか、掴んだ腕は予想以上に柔く細かった。そのため純粋な力勝負ではシグマの方に天秤が傾き、彼女の握る剣を奪取することに成功する。
奪った剣は彼女の手に戻らないよう、後方へ投げ捨てた。
これで彼女の戦闘力は半減したといってもいい。加えて二人の距離は互いに目と鼻の先。シグマが求めていた条件が、かつてないほどに揃っている。
「シャルベリア!」
『相分かった! 優しく堅く抱いてやろう!』
シグマから生え出でる触腕がのたうち回り、ルカライネを全方位から囲うように包みこむ。飛び退こうにも彼女の腕はシグマが固く掴んでおり、そもそも四方八方に逃げ場も無し。このまま彼女は触腕に捉えられて、身動きは取れなくなるだろう。
勝機を捉え、勝利を確信する。これでルカライネの無力化は達成でき、演習の勝利条件である〝彼女の撃破〟も無事達成することができる。
そう、思っていたのに。
「―――ご、はっ……⁉」
勝利色に染まっていた思考が、一気に空白の真白に漂白される。
それほどまでにその衝撃は痛烈だった。
シグマの腹には、その鳩尾を的確に貫くルカライネの拳。甲手に包まれたそれは深々と突き刺さるかのようにめり込んでいた。
宿主である彼にダメージが入ってしまったことで、あれだけ蠢いていた触腕が萎びて活力を無くす。
まさか後退するのではなく、この期に及んで進撃してくるなど予想だにできなかった。
だが、彼女の攻撃はこれで終わったわけではない。
叩き込んだ右腕を引き抜くと同時に左足が鋭い蹴りを放ち、シグマの右太腿に激発。鈍い痛みにたまらずシグマが掴んでいた手を離すと、ルカライネはすぐさまその場で一回転し、自由になった左手に回転エネルギーを加えた裏拳を彼の側頭部に叩きつけた。
「ぐハッ!」
「剣を奪った程度で驕るな、下郎!」
鋭い一声。その勢いに負けじと、シグマは彼女めがけて右手を横に薙ぐ。
しかし、ルカライネはその一撃を屈むことで回避。彼の手が頭上を過ぎた瞬間、勢いよく全身を跳ね伸ばし、掌打を彼の顎元に命中させた。凄まじい衝撃に、シグマの首が後方へ直角に折れ曲がる。
―――ア、あ。
脳が揺れ、まともに立っていられず、シグマは後ろへ傾いていく。支えるものは何も無く、受け身すら取れぬまま、彼は地面に取れ伏した。
ノイズの侵食が少ない部分が歪む。かろうじて見える蒼天の景色が、まるでパレット上の絵の具をかき混ぜたようにグチャグチャになる。
そんな満身創痍の彼が、少しもルカライネに太刀打ちできなかった彼が、忘我の間際に思い浮かべたのは、
―――やっぱり、僕の方が強い。
現状の立場から鑑みても、どのような思考回路が繋がってしまったのかまるでわからない、摩訶不思議な感想。
しかし、いつまで経ってもシグマはその考えを改めない。だってそれは事実なのだから。
たしかにルカライネは強い。ここまでの経過を振り返れば、誰もが満場一致で評価できると思う。
だが、それでも。シグマの力はさらにその先を往く。
シャルベリアにはバレてしまったが、今の彼はルカライネとの戦闘で一度たりとも本気を出していない。
その気になれば圧倒的物量差で押し切ることも、あるいは玉砕覚悟で突撃することも、本気でやれば彼女を屠るに足る威力を秘めているのに。
それでもなお、シグマが本気を出さないのには理由がある。
◇◇◆◆◇
ふと、昨日の記憶が甦った。
それはレオン宅でのこと。アリーシャとニーアが入浴中の時に、シグマとレオンは演習に関する勝利条件について話していて。
最後の勝利条件が〝ルカライネの撃破〟と知り驚愕しているシグマに、レオンは今までになく神妙な面持ちで口を開く。
「さて、最後の勝利条件も明かしたところで、シグマさんには一つ、私から忠告をしておきましょう」
「忠告?」
「ええ。といっても、さほど難しいものでもありません。遵守していただきたいのは至って単純なことです」
シグマは眉をひそめる。レオンの物言いになにか不穏な気配を感じ取ったからだ。
だが、彼は少しも気にした様子なく話し続ける。
「シグマさん。貴方がどうなのかは知る由もありませんが、我々リューズビーリアに住む民は皆、姫君のことを敬愛しています。兵も、住人も、子どもたちも、誰もが彼女の存在を生きるための活力とし、彼女の不幸を国の一大事と捉えます。そこまで敬われ、愛される姫君に、もしも傷を付けるような不埒者が現れたとすれば、どうなると思いますか?」
そこまで言われて、シグマは初めて理解した。
彼が明日の演習で、誰もが戦い傷つけあう戦場で、それでもなおシグマに課す無理難題の戒めを。
「まさか……」
レオンは静かに頷く。
もうそこに、温厚な笑みは欠片も残ってはいなかった。
「もしも貴方が姫君を傷つけたのならば、我らリューズビーリア全国民が敵となる。
その事実を肝に据えて、どうか明日の演習に挑んでいただきたい」