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未知なる世界の理

「そうか。君はハウルス・アルファザード・ロンギニカっていうのか。……えっと、何て呼べばいいんだ?」


「その名前だと長いから、ハウルでいいよ」


「わかった。じゃあハウル、よろしくね」


 自然と伸ばされた腕。どうも彼はハウルと言う少女に握手を求めているようだった。


 しかしそれを拒んでも特にメリットは無いので、おずおずとハウルはその手を握り返した。


「え、えっと、こちらこそよろしく。……その、えっと」


 ただ、握り返してからも、ハウルは何か戸惑っていた。その様子に彼は首を傾げる。


「どうしたの?」


「その……あなたの、名前って」


 ああ、と。彼はハウルの戸惑いの原因に合点がいった。彼女は、自分が握手の際に名前を呼んだから、律儀に自分の名前を呼ぼうとしたらしい。


 しかし、ハウルには自分の名前を教えていないため、当然ながら呼べるはずもない。そのため彼が自分の名前を教えてやれば、この問題は解決するのだが……。


「……何なんだろうね、僕の名前」


 この通り、本人がわかっていないのだから、教えようもない。


「じゃあ、名前を思い出すまで、別の名前を作ったらどうかな? きっと名前が無いと不便だし……」


「それもそうだ。しかし名前か、いったいどうしよう……」


 顎に手を当て考える。そもそも名前とは自分を指す言葉だ。今、この状況下で何も思い出せない自分にとって、自分を示すものを持ち合わせては―――


「あ、そうだ」


 ポン、と手を叩き、彼は懐から先程の携帯端末を取り出す。ハウルはその端末を見て目を丸くしていたが、彼は気づいていない。


 そのまま電源を入れる。そこには、シグマの文字を中心にした時計が映し出された。


「……シグマ……」


 この場所で目覚めて、一番最初に見た文字。仮の名前として使うには、ちょうどいいと感じた。


「うん、シグマ。これでいいや。僕の名前はシグマだ」


 自分の名前が決まったところで、彼はハウルに改めて向き合った。


 すると今度は、ハウルが思案に浸っていた。


「ねえ、えっと、シグ、マ? シグマって、どこかに魔法陣かなにかを見なかった?」


「ああ、それなら」


 そういってシグマはハウルを連れて、自分が目覚めた場所まで案内する。


 そこには変わらず、草を押し退けるような感じで描かれた魔法陣があった。


「やっぱりそうだ。この魔法陣の紋様は……」


 四つん這いになり、魔法陣を細かく調査するハウル。その体勢は、具体的にはその小さなおしりを向けるような恰好は、少しばかり目の毒であったため、気まずそうにシグマは視線を逸らした。


 そんなことはいざ知らず、やがて彼女はシグマにこう告げた。


「断片的だけど、シグマのことが少しだけわかったよ」


「え、ホント⁉」


 先程問うた、ここはどこで、自分とは何か。その内の片方が、彼女はわかったと言ったのだ。


「うん。でも具体的にはシグマの立ち位置だから、その、記憶の方はまだわからないけど……」


「それでも教えてほしい。今、自分を知るには少しでも情報が必要だ」


 そう言って、シグマは深々と頭を下げる。そんな彼の反応に、ハウルは些か慌てた。


「そ、そこまでのことじゃないよ。だから顔を上げて、なんだか恥ずかしいよ」


 言われたとおり、顔を上げる。そして再度、彼女に問いかける。


「それで、僕は何なんだ?」


「えっとね、たぶんシグマは『王位継承者』っていう、別の世界から召喚された戦士だと思う」


 とても真剣な表情で、目の前の少女はまじめにそう言った。


 ……おかしい。今の言葉のうちの約七割が、理解できる言語なのに理解できなかった。


「……ごめん、もう一回言ってくれる?」


「だから『王位継承者』。端的に言うとね、シグマはこの世界の人じゃないの」


 改めて説明されても、やっぱり理解が追いつかない。


「……自分はこの世界の人間じゃない? ということは、ここは日本じゃないのか?」


「そのニホンってところがどこかわからないけど……ここはリューズビーリア郊外の森のはずだよ」


 また知らない単語が出てきた。たまらずシグマは頭を抱える。


「まさかそんな、信じられない」


「そうだよね、たぶん私も同じ立場じゃそう言うと思う。

 でもシグマは、たぶん私の姿を見たら納得するはずだよ。『王位継承者』ってそういうものなんだって、本で読んだことがある」


「君の姿が? なんでそんな―――」


 するとハウルは答えるよりも先に、被っていたフードを外した。そこには……


「……なんだそれ」


 首元辺りまで伸ばされた美しい黒髪。きちんと整えられたその髪は、見た者全てを感嘆させるにふさわしい。


 だが、シグマが息を呑んだのは、なにもその髪の美しさに魅了されたからではない。


 その髪よりも目を引くもの。具体的には、両耳の上の方に付いている、()()()()()()()()


「それ、アクセサリーじゃないんだよ、ね……?」


 ハウルは首を振って否定する。たしかに、それはアクセサリーと呼ぶにはあまりにも自然過ぎた。


「ありえない、って顔だね。でも、これが私たちの普通なんだ。他にも背中から翼が生えてる人や、しっぽが生えてる人もいるけど、誰も他の人の容姿については驚かない。そういう反応をするのは、外見的特徴がほとんど同じ形をしている『王位継承者』だけだって、そう本に書いてあったよ」


 どうも、ドッキリやサプライズの類ではないらしい。なにせこうして、非現実的な存在を目の当たりにしている。


 それに、この森も判断材料になった。どれだけ歩いても果ての見えないほど広大で、なおかつ平地のまま続く森など、シグマは日本でそんな場所に心当たりがなかった。


 だがそれが、日本ではない別の世界だというのなら説明もつく。


「……わかった、とりあえずここが別の世界というのは受け入れる。でも、もう一つだけ。さっきから何回も言っている『王位継承者』と言うのはなに?」


「『王位継承者』と言うのは、向こうの世界から選出された、いわゆる次期王様の候補のことだよ」


「え、おうさま? 僕が?」


 もうどんなことを聞いても驚くことはないだろうという考えが見事に覆される。


「うん。えっと、ここからちょっと長くなるんだけど……」


 そう言ってハウルは話し始めた。『王位継承者』の成り立ちを主とする、この世界の昔話を―――


            ◇◇◆◇◇


 かつて、この世界には一つの大きな国があった。一人の王を長として、その下で国民は繁栄した。


 その統治は絶対的なものであり、そしてなにより平和だった。なにせ他の国が存在しないのだ。当時の彼らは、戦争などの言葉は意味を知らず、それを使う機会など何処にも無かった。


 誰もが幸福で満ち足りた、その時代は本当に平和だった。


 だが、その幸福は永く続かない。なぜなら、その王が病で床に臥せ、やがて死んだのだ。


 国民はみんな悲しんだ。平和の象徴とも言うべき人が無くなったことは、彼らの心に暗い影をもたらした。


 そして、やがて抗争が勃発する。王の下に仕えていた家臣が、意見の食い違いで分裂したのだ。


 その時に何人かが国から乖離し、新たに自分の国を創った。


 そこから向こう百年は、戦争続きの地獄だった。


 資源の少ない国は、資源を求めて資源の豊かな国を襲い、土地の小さな国は、土地を求めて膨大な土地の国を襲う。足りないものを補うために、彼らは戦争という行動に出た。


 結果、田畑は燃え果て、何人もの戦死者が出て、どの国民も生気を失った。


 この先、戦争を続けようものなら、人の滅亡は免れない。


 その危機感を抱き、分裂した各国の王たちは会談を行った。


〝我々ではダメだ。我々の統治では、もはや国民は納得しない〟


 会談で、彼らはそう結論付けた。


〝国民の誰もが納得する王を、平和を統治できる王を、決める必要がある〟


 そして彼らは決めた。


〝我々にできぬのなら、我々ではない人間に任せよう〟


 それが別世界の人間を連れてきて、王とすることだった。


 もとより戦争中に別世界の観測はおろか、干渉もある程度叶っている。王となる人材を連れてくることは容易かった。


 だが、国民はそれで納得するだろうか。自分たちの国をないがしろにされて、いきなりぽっと出の正体不明の人間が王と言われ、受け入れるだろうか。


 否、もはや国民は、そのような寛大な心を既に持ち合わせていない。


 では、どう納得させるか。


 ちょうどいい。ではこの戦争を終わらせる―――すなわち勝者となった者に、王の座を明け渡そう。


 そして、各国は王となる候補者、つまりは『王位継承者』をそれぞれ召喚した。

 それぞれの『王位継承者』は争い、やがて残った一人が王となった。


 すでに国民もその技量を知り、その『王位継承者』が王になることを誰も拒まなかった。


 その結果、晴れて『王位継承者』は完全に王となり、世界は再び平和の統治を取り戻したのだった。


 そして、その時に構築された選考機構は今日まで受け継がれ、新たな王を決めるために一世紀おきに続けられている―――


            ◆◇◆◇◆


「こんな感じかな」


「なるほど。要は責任の押し付けなんだね」


「いや、……うん、身も蓋も無く言うとその通りです……」


 責任はハウルに無いはずなのに、それでも彼女はシュンと萎れる。その様子に、シグマは慌てて弁明した。


「別にハウルを責めているわけじゃないよ。だから気にしないで」


 そう言うと、ハウルは申し訳なさそうに「ありがとう」と微笑んだ。関係ないことにも責任を感じるあたり、根っからの素直な性格なんだろう。


「それで話を戻すけど、この儀式は昔から続いているのか?」


「そうだよ。この戦争、俗に言う『王位継承戦』は百年周期で行われる。そして今回の『王位継承戦』は第二一次だから、一番初めの戦争は二千年くらい前になるね」


「またずいぶんと長く続いているな」


「初期の戦争は計画の不備や欠陥でかなりひどかったみたいだけど、今ではもうどの国も恒例の儀式として受け入れているくらい浸透したんだ。でも、長く続いたせいで生じた弊害もあるんだけど……」


「弊害?」


「うん。だってこの戦争の目的は『王となる者を選定すること』だけど、その手段は『最終的に戦争で生き残った者』でしょ? だから最初はどの国も目的を最高に叶えるために、ふさわしい人物を選んでいた。だけどいつしか、優先されるのが手段の方になってきてしまって、生き残るためなら手段を択ばないような人を召喚するようになったの。それこそシグマの世界の殺人者や犯罪者とかを」


「……バカな、それじゃあ本末転倒だ。平和のために行われるはずの儀式なのに、その平和が後回しにされているじゃないか」


「実際に、過去の戦争の中で何度かそういった人たちが王になったんだけど、その結果は散々なものだったらしいよ。あまりのひどさに国民たちが反乱を起こしたこともあったみたい。

 ……それでも、各国はそれを改めようとはしなかった。それどころか、代々続く儀式だからやらないといけないっていう理由で参戦する国も最近は少なくないんだ。国民も『生き残った者が王になる』って結果ばかりに目がいって、誰もその王がふさわしいかを自分で判断しなくなった。さすがにあまりにもひどすぎる場合は、その者が王になることに抗議することがあるけど、それでも一昔前に比べたら、それが起こる原因のハードルは低くなってるんだって」


「もう既に、そのシステムは破綻しているんだな……。ところでひどすぎる場合と言うのは?」


「簡単な話、戦争終盤になっての参戦とかかな。この戦争は、自分が王にふさわしいってことを国民に宣伝するような場でもあるから、敵数が少なくなってからの参戦はあまりにも不公平だし、それに自分を宣伝できる機会が少ないから国民も王の素性がわからない。そんな王様に仕えたいとは誰も思わないからね」


「なるほど。だけど待ってくれ、僕のような『王位継承者』は戦って生き残った者が王になると言うけど、他に継承者は何人くらいいるんだ?」


「それはわからないよ。だって参戦する継承者は毎回同じ人数がいるわけじゃないから、今回は何人いるっていうのは判断できない」


「それは参戦できる継承者に何か資格がいるからとかの理由で?」


「正確には、その継承者を召喚した国に資格がいるんだ。それが……―――っ!」


 瞬間、ハウルは何かを感じ取り、反射的に立ち上がる。


 先刻の足音とは違う、感覚に纏わりつくような嫌な気配。それが森の彼方、自らの視界の及ばない位置から湧き上がっている。


 この感覚、この気配、なによりこの正体を自分は知っている!


「……? どうしたの?」


 ハウルの変容を怪訝に思ったシグマは、後に続くように立ち上がろうとして―――


「―――あぶないっ‼」


 勢い良くハウルに押し倒された。突然の衝撃に視界が明暗する。



 その刹那―――元居た自分の場所を焼き焦がす、球状の火炎を視た。



 それは標的に直撃しなかったことを不服とでも言うように、進行方向の直線上にあった木へ直撃し盛大な爆発を上げた。


「なっ⁉」


 あまりの出来事に戦慄した。


 被害を受けたその大木は、今や燃え盛る炎を纏い、悲鳴を上げるように軋みを上げて頽れる。


 その結果は凄惨たるものだ。だがシグマが戦慄している理由は何もそれだけではない。


(今の炎、間違いなく自分を狙って飛んできた……!)


 もしもあそこでハウルが突き飛ばしていなければ、あの大木の運命は自分に被せられたことだろう。


 その事実に喉が干上がる。たまらず説明を求めてハウルを見た。


「あの術式……間違いない、追手が来たんだ……」


 怯えるように、彼女は彼方を見て震えていた。その様子を見て、一瞬でシグマは説明要求を後に回す。


 それよりも今、やるべきことは、


「逃げよう! ここにいたら殺される!」


 自分以上に放心しているハウルの手を取って、少しでも彼方の存在から遠ざかる。


 先刻と同じように、シグマは彼女を引いて森を走った。だが今度は、先程のような隠れられる大木など無い。否、仮にあったところで、隠れてもあの火球は凌げない。


 重要なのは距離だ。少しでも長く、少しでも遠く―――


「っ、シグマ!」


 今まで手を引かれていたハウルが突然横へと飛び、それに引かれる形でシグマも倒れこむ。


 今度は紙一重。シグマの首の産毛を焦がした火球は、またも標的を誤り木を燃やす。


 目の前で燃え盛る木は、まるで逃げ道など何処にも無いと言うように倒れ、その行く手を阻んだ。


「ハッ、ハッ……シグ、マ、もう、ハッ、はしれ、ないよ……」


 加えて、隣で息を荒げる少女はもう走れない。むしろ先刻まで長距離を走っていた身にしては、なかなか保った方だ。


 だがここで逃げるのを止めれば、迫り来る脅威に殺されるだけ。


(どうする? 危険を承知で隠れる場所を探すか、それともこのままハウルをむりやり連れて走るか、あるいは……)


 ここで立ち止まり、彼方の敵と応戦するか。


 無論、それが一番の愚行だということは、シグマが一番理解している。


 だがこのまま逃げ続けては埒が明かない。飛来する火球も今は避けられてはいるが、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。あの速度で飛来すようものなら、被弾するのはそう遠くない。


(木々に隠れながら……いや、敵はどうやってかこちらの位置を把握している。木々は隠れるよりも、盾にした方が賢明だ。けど……)


 問題はハウルだ。


 彼女は今、体力を使い果たし満足に動ける状況ではない。そんな彼女に、ここから木々の間を縫って敵に接近し襲撃するなんて行為をやらせるのは、それこそ愚行だ。


 かといって、ここに一人放っておくわけにもいかない。


(……最悪、僕が背負うか……?)


 状況は刻一刻と悪化していき、焦りは加速し、思考もどんどんと現実離れしたものしか浮かばなくなってくる。立ち行かない現状に、たまらずシグマは歯を食い縛る。


 そうやって、思考に耽ったのが仇となった。


 再び彼方、一瞬の光が瞬いた。それは先刻同様、火球が放たれる事前現象。


「―――あ、―――」


 そして、当たれば絶命は免れない、致死の一撃が放たれた。


 避けられない。避けれるはずがない。今度こそ、飛来する火球はシグマを捕らえて、骨の髄まで焼き尽くすだろう。


 迫る結末に、思わずシグマは目を閉じた。


「―――防御(ブラストランスト)結界(・レザーシッド)、展開‼」


 だが、火球がシグマに到達するより速く、ハウルの凛とした声が響いた。


 すると彼女の足元から広がるように、巨大な幾何学模様が浮かび上がる。それはハウルとシグマを囲うと、拡大を停止した。


 そして、飛来する火球が、無作法にもその模様の区切りを超えようとした瞬間―――バツンと、まるで見えない壁に阻まれたかのように、不法侵入物の火球は消し飛んだ。


「は……?」


 立て続けの度を越えた現象に、シグマは呆然とする。


 今、間違いなくあの火球は自分を捕らえたはずだ。容赦なく自分を焼き尽くせたはずだ。


 動機も出所も何もわからない正体不明の致死撃。それが、自分に届く前に霧散した。


 足元には今も輝く幾何学模様。青の光を放つそれは、自分たちを守る城壁なのだと、彼は無意識に理解した。


 だが性能を理解したところで、起こった現象は未だに理解できない。


 いったい火球(あれ)は何なのか。いったい紋様(これ)は何なのか。なにもかもがわからない。


 ハウルの方を見てみれば、彼女の腕の中にはいつの間に取り出したのか、一冊の古びた本を持っていた。


 その本が、あまりにも不可思議だった。


 具体的には、その本が開いているページ。そこに書かれている文章を構成する文字一つ一つが、淡く青く発光している。


 先程の火球を防いだ現象を引き起こしたのは、あの本によるところだろうか。では、それを当然のように使用している彼女は何者なのか。


「ハウル、君はいったい……?」


 常識を超えた現象に混乱した思考では、そんな中途半端な言葉でしか疑問を表せない。


 だがハウルは答えない。いや、今は答える時間ではないのだ。


「気を付けて、シグマ。まだ、術者本人を倒したわけじゃない」


 彼女の視線は今もなお彼方へ向けられている。そこに、先程までの怯えの色は無い。


 それは、脅威であった相手の攻撃を防げたことによる自信によるもの……というよりは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と言った方が正しい。


 やがて、彼方の敵が近づき、二人もその姿を視認した。


「やっぱり、先生じゃない……! あの人の術式を写しただけの、ただの魔術(ボルシェグネ)兵装(・ルージェン)ね!」


 横でハウルが何か言っている。怒気や失望を含んだ、どうしようもない抗議の声だ。


 だけど、シグマにはその言葉も意味も、よくわからない。なぜなら彼の思考は、ようやく視認できた敵の姿を見て、完全に真っ白になったからだ。


「……なんだよ、それ……」


 視認できた敵の数は二人。そのどちらもが、もはや人ではなかった。


 一方は豚のような潰れた鼻に、丸太のような太さの二の腕を持った、大男を超えた巨人。


 一方はとがった耳と鼻の悪魔のような顔立ちの、緑色の肌をした小柄な生物。


 言うなれば、前者がオーク、後者がゴブリンといったところか。


 とても、現実の光景とは思えない。場の面子を考えてみれば、シグマ一人がハロウィンの仮装大会に放り込まれたと言っても違和感を感じないだろう。


「ああ、そっか。本当に、ここは……」


 やっと、やっと。ここに来てやっと、この世界が自分の知らない場所だという事実を実感した。


 なぜ、自分はここにいるのか。なぜ、自分はここに来たのか。


 どうしようもない疑問が、今更に頭の中を駆け回る。


(―――違う、今やるべきはそうじゃない)


 だが、それでも危機感だけは忘れない。


 目の前に現れた二匹の異形。あれらはどう見ても、自分らに友好的とは思えなかった。


 なぜなら、


「げ、へへ。見つけた、見つけたぞ。ヅィーヴェンさまの探し物、オデ、見つけたぞ!」


「きひひひひひ! アイツを捕まえりゃあ、俺たちゃ大手柄だぜアニキ! さっさと捕まえて帰れば、またあのきもちい気分にしてもらえるぜェ!」


 むき出しの敵意をあからさまに向けてきている。あれに説得も交渉も懇願も無意味だ。


 だって、もとよりあれらは狂っている。シグマらに会う、それよりも前から狂っているのだ。


 あれを相手に命乞いなど、それこそ正気の沙汰ではない。


「……っ」


 シグマはハウルをかばうように、二匹の前に立ち塞がる。


 すると二匹は揃って怪訝な顔をした。まるで、シグマがそこにいたことなど全く気づかなかったとでも言うように。


「なな、なんだ、オマエ? うまそうな、やつだな」


「……おいおいおい! まさかたぁ思うが、もしかしても人間かこいつ! なんでこんなとこにいるんだおい!」


 二匹はひどく陽気だ。シグマという異分子が現れたことをまったく意に介さない。もとい、まったく脅威と思っていない。


 それは事実だ。実際、二匹とシグマの力量は離れすぎている。徒手しか使えないシグマに対し、二匹は両方ともバズーカのような短筒を装備。さらにオークの方は、体格も常識を逸脱している。あのような剛腕で殴られようものなら、間違いなくシグマの体は原形を留めれないだろう。


 その事実を再認識し、ごくりと生唾を飲み込んだ。


 そして、


「おま、オマエ、決めた。オデ、オマエをとって、喰う!」


「そりゃいいなアニキ! オイラもちょうど腹のあたりが減ってんだ! 腹ごしらえしないとなァ!」


 二人の敵意が、シグマに集中した。


 あまりの重圧、得体のしれない焦燥感、あるいはあの世へ至るまでカウントダウンが、彼の鼓動を加速させる。


 目の前の脅威にシグマは太刀打ちできない。彼が勝つ可能性など、万に一つもあり得ない。


 ここで戦うことは愚行以外の何でもない。まだ逃げ出した方が可能性はあったろう。


 だけど、シグマは逃げない。両腕を広げて立ち塞がるように、その場から退こうとしない。


 それどころか、彼の眼には戦う意思すらある。


(重要なのはあの武器だ。あれさえ奪えば勝機はある。流石にあの大男からは奪えそうにないから、狙うのは小人の方にしよう。あの体格なら、上手くいけば無理やり引きはがせる―――!)


 恐怖は消えた。残ったものは敗北の運命に抗う覚悟だけ。


 そんな彼の内情などいざ知らず、二匹の怪物は同時に駆けた。狙うはシグマ、その胴体を引き千切り、零れた血で喉を潤し、濡れた肉塊を貪らんとするため、獣のように襲いかかる―――!


 勝負は一瞬。きっとシグマの敗北は覆らない。


 なぜなら前提条件に差がありすぎる。武器も持たず、技も持たず、そんなものであの二匹に勝てる者など何処にもいない。


 必死に絞り出した作戦も、何もかもが現実から離れすぎている。そもそも銃を奪おうとする際に自分が撃たれる可能性を考慮していない時点で、あまりにも自身に甘く分析している。


 結局のところ、あんな分析は仮初の希望でしかない。それに気づかず、あたかも実行に移そうなど愚の骨頂。


 故に、彼に勝機はありえない。このまま最初の一撃を躱せずに、肉塊と果てるのがオチだ。


 だが、それはシグマ一人が戦った場合である。


「―――防御結界(じゅつしき)解除、『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』ページ切り替え―――」


 ここにはもう一人、配役がいる。今までの睨み合いの中もずっと、一人でこの状況を打破するために行動していたハウルという少女が存在する。


 忘れていたというのなら、それこそ愚行に他ならない。


 見ろ、すでに彼らは、さきほど火球を防いだ魔法陣の中に侵入している。そこは彼女の領域だ。許可なく侵入した輩には、相応の罰を与えるのが定めだろう。


 故に、彼女は攻撃の力を作り出す。先程唱えられたハウルの言の葉、それに呼応するように、彼女の持っていた本は独りでに宙へ浮き、その頁をバタバタバタ‼ とすさまじい勢いで捲り始めた。


 やがて目的の頁を開くと、そこに書かれていた文字が今度は白く輝き始める。それは術式の構築が終わった合図。


 実行の用意は整った。そしてハウルは、処罰の名を高らかに告げる。


「―――『闇夜を穿つ眩き閃光(オダーフ・スピーシカ)』‼」


 瞬間、今まさにシグマを潰さんとしていたオークの巨体が吹き飛んだ。


 シグマ、ゴブリン、共々が驚愕で停止している。当然だ、どちらとも何が起こったか理解できなかったのだから。


 そして彼方を見やれば、吹き飛んだオークは木へ叩きつけられ、苦しそうに蹲っている。


 いったい誰が捉えられようか。ハウルの紡いだ言葉は、輝く閃光を収束させた光球を生み出し、それをその名の通り光速で発射した。


 その威力はまさしく強力。もしも受けたのが頑丈なオークでなければ、全身の骨を粉々にしただろう。


「ゥゴ……、カ、は……お、おなか、いたい……」


 その一撃を喰らったオークは、光球が直撃したわき腹を押さえて苦しそうに息をしている。そして放心状態から立ち直ったゴブリンは、目の前にシグマがいることも構わずにオークの下へ駆け寄った。


「お。おいアニキ! 大丈夫か⁉ 大丈夫なら早く立てよ、さっさとあいつらやっつけて王様にまたアレをもらうんだろ! なあ!」


 ゴブリンは倒れたオークを鼓舞しようと、必死にまくしたてる。やがて痛みも引いてきたのか、オークもわき腹を押さえながらではあるが、ゆっくりと立ち上がった。


 その目には、先程以上の殺意が籠っていた。


「オマエ、オマエ、ゆるさない。オデ、ころす。オマエを、グチャグチャにして、くってやる!」


「へへへ、あーあ、もう知らねェ。こうなったアニキはもう止まんねェぜ! 残念だったなァ!」


 素人目にもわかる。二匹の怒りはもう有頂天に達している。

 だというのに、ハウルは竦まない。それどころか、前へと歩み出て近づく始末。そのまま進んでシグマの隣に立つと、彼女は真っ向から二匹に問うた。


「なんでお父様を裏切ったの? 別に貴方たちに苦行を強いていたわけでも、信頼を損なうようなことをしたわけでもないのに……どうして貴方たちはあんなにも簡単に、自分の王様を裏切ったの⁉」


 それは切実な問いであると同時に、二匹に向けた糾弾でもあった。


 シグマは起こった出来事など、ただの少しも知らない。だけど、泣き出しそうになるのを堪えながら必死に叫んだハウルを見て、なにかつらい出来事が彼女を襲ったのだと理解した。


 そして、自分もこの少女の力になりたいと、不意にそう思った。


 だがその感情は、あくまでシグマ本人だけのもの。他者もそうであるとは限らない。


 現に、目の前の化け物もひどく馬鹿にした様子で、高らかにせせら笑った。


「プギャハハハハハハハハハハハ! なんで? なんでかだって? んなもん決まってんだろ! あの王様より今の王様の方が楽しいからだよ!」


 何か王に対する不満があったわけではなく、何か自分の信念があったわけでもなく。


 裏切ったのは、ただ悦楽を享受したいなどという、あまりにもくだらない理由であった。


 ゴブリンは笑っている。まるで何かのタガが外れたかのように、一切の知性が存在しないひどく耳障りな笑い声をあげている。


 その態度に反省の色も、慚愧の念も、後悔の意思も何もなく。


 それはとうとう、ハウルの慈悲を超えた。


「―――許さないっ‼」


 すさまじい怒気が込められた一声が、辺りに響き渡る。その迫力には思わずシグマもビクリと体を竦ませた。


 対して二匹の内、オークの方はその行動を宣戦布告と受け取ったか、その一声に負けじと図太く響く咆哮を上げた。そして自分に傷を負わせた憎き相手を殺すため、その図体で一気に押し潰さんと迫り来る―――!


 その威力は、ダンプカーの衝突と同じか、或いはそれ以上。立ち塞がる者は全て薙ぎ倒し、先程の光球もあの威力の前には意味を為さないだろう。


そして脅威はまだ尽きない。迫り来るオークの背後からは、ゴブリンが短筒からいくつも無数の火球を放ち援護している。


 このまま先程のような防壁を張れば、あの突進は避けれない。だが突進を避けようと逃げに走れば、無数の火球に撃たれることになる。


(マズイ―――!)


 守りも逃げも、意味が無い。シグマたちは八方塞がりかと思われた。


 だが!


「『闇夜を穿つ眩き閃光(オダーフ・スピーシカ)』―――術式増強、砲門展開‼」


 誰もが、その光景に唖然とした。


 ハウルの周囲に、先程オークを吹き飛ばしたらしめた光球が渦巻いている。その数、優に五十超。


 それらが壁を作るかのごとく、空中に配置されていく。状態としては、弓に番えられた矢と同じ。


 であれば、その後に起こる結末など想像に難くない。

 

 ―――即ち、一斉放火。豪雨にも似たその攻撃は、向かってくるオークに(おびただ)しく降り注ぐ!


 さすがのオークも、激流のような砲弾の波には抗えなかった。連続で飛来してくる光球に全身を撃たれ、その場に踏み止まることすら許されず、またもハウルの攻撃に吹き飛ばされた。


 だが、今度は先程のような容赦はない。再び木へ叩きつけられたオークに、追撃の雨が降り注ぐ。


「グ、オ、オオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォ⁉」


 オークは必死にその荒波から逃れようと必死だ。だが、もがき抗おうとする手足は、伸ばしたところで光の雨に埋もれて潰える。いかに自慢の怪力を以てしても、事態の回天を図れない。


 やがて、響く悲鳴のような絶叫も、その音量を徐々に減少させていく。


 それでも、ハウルはその攻撃の一切を緩めはしなかった。


「な、あ……⁉」


 その一方的な暴力を見せつけられ、ゴブリンは動けない。


 今ならハウルの注意はオークに向けられている。この隙に手持ちの短筒で彼女を撃てばいいものを、今のゴブリンにはそんなことすらできない。


 今、あの少女の注意は、あの津波のような暴力は、すべてオークに向けられている。


 では、それが自分に向けられれば?


 そう考えると、恐ろしくて動けない。逆転を狙い短筒を向ける動作も、この場からずらかる逃避の動作も、何もかもの動作があの矛先を自分に向けるような気がして動けない。


 だが、そうやって放心していても、訪れる未来は変わらない。


「―――貴方は、どうするの」


 そして遂に、矛先の切先はゴブリンへと向けられた。なぜなら標的としていたオークはぼろ雑巾のようになりはて、すでに息絶えたからだ。


 もしもここで抵抗するようであれば、次にああなるのはゴブリン自身だ。


 であれば、賢明な判断はどうするべきか。


「こっ、降参だ! 降参する! もうなにもしねぇから! だ、だから、殺さないでくれぇ!」


 腰を抜かしたゴブリンは、そのまま後ずさりながら白旗の意を示した。


 だが、それでも展開されたハウルの砲門は未だ閉じない。


「なら、その武器をこっちに寄こして。それで貴方の降伏を認める。そしてその後には、ちゃんと話してもらう、この一連の首謀者は誰なのか、そしてお父様はどうなったのか!」


「へ、へい。仰せのままにしますんで、ホントその物騒なもんは仕舞ってくだせぇ」


 先程までの威勢はなんだったのか、今は媚を売るような商人さながらの平伏ぶりである。


 そのまま、ゴブリンは持っていた武器を渡すため、近づいてくる。


 一方、完全に置いてけぼりになっていたシグマは、今は屍となったオークの方を眺め見た。


 全身を光球で撃たれたことによって、その巨体は見るも無残な有様と化していた。その光景に、シグマは心底驚嘆する。


(これを、ハウルがやったのか……)


 オークとハウルの対決など、何も知らない者が見れば、十人が十人ともオークの方が勝つと答えるだろう。実際、シグマだってオークとの対決に、ハウルを巻き込まないように動いていた。


 だが蓋を開けてみれば、オークと彼女との実力には天と地ほどの差があった。


 その結果がこの有様。ハウルはたった一人で、自分の倍以上の体格を持つ怪物を倒したのだ。


(立つ瀬がないな、僕は)


 先程必死こいて彼女を守ろうとした自分が恥ずかしくなってくる。さらに事態が鎮静化し思考も冷静さを取り戻したところで、自分が考えた作戦がとてつもない愚策だったことに気づき、さらに羞恥が加速した。


(ホント、穴があったら入りたいや……)


 トホホと、ハウルに気づかれないよう内心落胆するシグマ。


 だが、起こったことは悔やんでも仕方がない。そう考え至り、彼は気持ちを切り替えた。


 まずは恥じるよりも先に、このゴブリンからの情報収集が先決だ。シグマはいまいち事情を読み取れないが、ハウルの知りたい情報をこのゴブリンは持っているらしい。


(まあ、ここで僕が出しゃばっても時間の無駄にしかねないし、ここはおとなしく傍観を……ん?)


 そこで、初めてその違和感に気づいた。


 それはゴブリンの目つき。あれは降伏し従順を受け入れる者の目ではない。もっと獰猛な、起死回生を狙う獣の目。


 そしてハウルは、それに気づいていない―――!


(まず―――⁉)


 気づいた瞬間、シグマの体は彼が考えるよりも速く動き出した。


 そしてほぼ同時に、ゴブリンも行動を開始する。


「―――バァカが‼ そらよ、受け取れぇ!」


 ゴブリンの取った行動は至ってシンプル。持っていた短筒を突然ハウルの方へと放ったのだ。


「―――え?」


 ハウルはその突然の行動に呆気に取られた。その隙が致命的になるとも知らずに。


 宙に浮いた短筒、それが禍々しく輝き始めた。まるで、内部のエネルギーをまとめて放出し、盛大な爆発を上げるような―――!


「―――ハウルッ‼」


 瞬間、シグマはハウルに突き当たるように飛びかかった。


「きゃあ⁉」


 そのまま彼女を抱きかかえ、飛び掛かった勢いで転がるようにその場を離脱する。


 ―――その直後、短筒が轟音を上げて爆発四散した。


 かろうじて爆発の直撃は避けられたものの、距離を取るのには些か時間が足りなかった。起きた爆風は容赦なくシグマを叩き、そのまま吹き飛ばす。


 滞空の刹那、せめてハウルを守るようにと体勢を整え、そのまま背中から落下した。


「ぅ、グゥ……!」


 たまらず苦悶の声を上げる。爆風のダメージもさることながら、落下の衝撃が膨大な痛みを訴えてくる。


「し、シグマ! 大丈夫⁉」


 ああ、でも。腕に抱きかかえた者が、必死そうな声で自分の安否を心配している。どうやら彼女に身体的な外傷は無さそうだった。その事実に、シグマは心から安堵する。


「あ、ああ……なん、とか」


 息も絶え絶えで、上手く言葉が紡げない。それでも自分の無事を伝えると、途端にハウルは安心したように破顔した。


「よかった、無事なんだね。本当によかった……!」


 思わず涙が零れそうな、泣き笑い寸前の笑顔である。それが心から自分の心配してくれたものだと理解したシグマは、なにか自分の中に温かいものが流れた気分になった。


 だが、そんな二人を見ていて面白くない者がいる。


「……ハッ、運のいいやつだ」


 遠い彼方、爆発のどさくさに紛れて既に距離を取ったゴブリンは、相変わらず気味の悪いニヤけ顔で吐き捨てた。だが、その表情には隠し切れない悔しそうな意が見える。


「貴方、なんてことを……!」


 ハウルはゴブリンの方を睨みつける。だが距離が距離だ。威圧しようにも、その気迫は届かない。


 だからこそ、ゴブリンは不利な状況であるにも関わらず、上から目線の高圧的な態度がとれるのだろう。


「今回は退いてやるよ。だから次来るまで、せいぜい楽しんどくんだなァ!」


 そう言い残して、ゴブリンは脱兎の如く走り去る。


「逃がさない!」


 その無防備な背中を狙い撃とうと、先程の光球を再展開させようとする。だが、


「痛っ……!」


 痛みを訴える苦悶の声を上げたのはシグマ。見れば、彼の足首から下は爆発の火炎に焼かれたか、履いていた靴は燃え尽き煤となり、皮膚はひどく爛れていた。


「あっ……」


 一瞬、その傷に気を取られて、ハウルは頭が真っ白になる。その隙に、ゴブリンは逃げ失せた。


 もはやここから追いかけて倒しに行くのは不可能に近い。ハウルは長距離の走行で体力を消耗しているし、なにより今のシグマの足では、とても走ることは叶いそうにない。


 であれば、優先すべきはシグマの方だとハウルは結論付け、追撃を行うことを辞めて彼の方へ駆け寄った。


 そしてその傷口を改めて確認し、ハウルの表情は一気に険しくなる。


 もはやこの傷は、自然治癒での完治はまず不可能だろう。赤く爛れた皮膚はとても直視できるものではなく、ともすれば残った皮膚を薄皮一枚削げば、骨さえ見えかねなかった。


「ひどい、こんなの、治るかな……?」


 あまりの壮絶さに不安が伝染したか、心細そうな声を上げるハウル。


「ごめん、僕が不甲斐ないばかりに……」


 自分が彼女の足を引っ張ったと思い込んだシグマは、ハウルに申し訳なく感じ、謝罪した。


「ううん、シグマのせいじゃないよ。それよりじっとしてて、ちょっと傷に触るから」


 一切の罵倒をしないハウルに感心しながらも、彼女の言った言葉の後半がなぜか頭に引っかかる。


(ん? 傷に触る?)


 その意味をシグマが理解するよりも先に、


「えいやっ」


 と、元気な声で、ハウルは傷を負ったシグマの足首を、両手で鷲摑みしてきた。


「いだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ⁉ ちょっ、なに⁉ いきなりなにしてって痛い痛い痛い痛い! はっ、ハウル! お願いだから力を籠めないでいたーっ⁉」


 シグマの必死の懇願も空しく、ハウルはその力を弱めようとはしない。


「じっとしてて! 暴れられると上手くいかないから‼」


 それどころか逆に怒られる始末。何とか鬼神の如き忍耐力で耐えてはみたが、代わりに視界がやばい感じに歪んできた。


 ハウルのやってることがいまいち理解できないまま、シグマの意識は薄れていく。と、


「えーと、えっと、『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』頁切り替え、修復機能の欄へ。でも完全じゃない術式だから、私の魔力を直接併せて補強してみよう」


 彼女の言ってることが、シグマには微塵もわからない。


 だが変化はあった。ハウルの足元に置いてあった本が再び空中に浮き、勝手に開いて頁を捲り始めたのだ。


 そしてまた発光する。今度は緑色の光。


 だが、それは先程の戦闘で見せたぎらぎらとした輝きではなく、もっと穏やかで、安らぎすら感じる優しい光だった。


 それが、開いた頁から滲み出す様に宙に展開し、そのままハウルの腕に纏わりつく。


「『傷痕を癒す(リチャーブネ)治癒の光膜(・スウェート)』。……上手くいくかな……?」


 最後の一言は聞こえなかったことにした。


「というか、なにを―――って、え?」


 ハウルの腕に纏わりついていた淡い光が、流れるように足の損傷部分へ移り行く。途端に、風が流れるだけでも迸る激痛が、嘘のように和らいだ。


「痛く、なくなった」


 今もなお、ハウルの両手は損傷部分を掴んでいる。だというのに、焼きつくような痛みは溶けるように消え去った。いや、消えたのは痛みだけではない。より詳細に言えば、足の感覚そのものが無くなっている。


「ハウル、これは?」


「うん、今シグマの足の感覚を、シグマの人体から切り離したんだ。でも痛みや傷がなくなったわけじゃないから、もう少しだけじっとしててね」


 さも当然のように彼女は言っているが、果たしてそんなことが容易に行えるものか、とシグマは疑問に思う。少なくとも、自分にできる芸当ではない。


 だが、現に足の痛みは無くなった。これだけは間違いのない事実だ。


(オークやゴブリンといい、さっきから空中に浮いている本といい、ホントに何者なんだハウルは?)


 浮かぶ疑問を、目の前のハウルに聞いてはみたい。だが、彼女が応えられるような状態にないのは、誰の目にも明らかだった。


 額には玉のような汗を浮かべ、表情はすっかり憔悴しきっており、まるで崖に張られた渡り綱を慎重に歩くような、そんな緊張が籠められていた。


「魔力変換、物質構成、再配置、抗体抑制、組織定着、順応開始―――」


 一言一言、念を籠めながら紡いでいく。それに伴い、ハウルの腕から供給される光の量も増加していく。


 すると光に包まれた足の傷痕が、みるみるうちに塞がっていった。


「うそだろ……⁉」


 これまで起きた怒涛の人智外現象を目の当たりにしておいて、それでもなお、シグマは目の前の光景に絶句せずにはいられない。怪我の修復を早送りで見せられている、そう錯覚してしまいそうな光景であった。


 やがて、爛れていた部分は完全に塞がった。もう傷は痕すら残っておらず、そもそもそこに傷があったことが嘘に思えるほど完全に修復された。


「―――行程完了。魔力供給停止、『摂理を統べる(ボルシェグネ)魔導の書(・クニーガ)』機能停止」


 そしてハウルがそう唱えた瞬間、宙に浮いていた本が閉じられ落下し、シグマの足を覆っていた光の膜が大気へ溶けるように霧散した。同時に、彼の足の感覚も戻ってきた。


「すごい、もうまったく痛くない」


 幻影によるまやかしでもなく、表層だけを取り繕った張りぼてでもなく、どうやら本当に傷そのものが完治したらしい。


 驚愕と感動で、感嘆の声を漏らしながら、シグマは自分の足をまじまじと見つめた。


「ハァ、ハァ……よかった、ちゃんと治ったね」


 一方、見事シグマの足を直して見せた張本人であるハウルは、彼の傷が完全に修復されたことに安堵している半面、大きく肩で息をして疲弊していた。


「ハウル、どうしたの? なんかすごく疲れているけど……」


「その、ここまで大掛かりなのは初めてだったから、かなり緊張しちゃったんだ」


「そっか。ごめんね、そんなにも気を使わせて。

それと、ありがとう。君がいなかったら、きっと僕はもう一生歩けなかった」


 姿勢を正し、深々とハウルに頭を垂れるシグマ。彼女に対する感謝の念は、どれだけ礼を言っても足りないくらいだ。


 そして、そんな反応をされるのが意外だったか、ハウルは照れ隠しをするようにわたわたと手を振りまわす。


「よ、止してよ。元はと言えば、全部私が引き連れてきたのが原因だし……」


 確かに。今回シグマが負傷したのは、結局のところあのゴブリンとオークのせいだ。そして、彼らはもともとシグマではなく、ハウルを追ってきていた。


 では、あの二匹に追われる彼女は、いったい何者なのか。


 先程の不可思議な現象や、その事象を発生させていたような古本、そしてハウルの詳細についてを、シグマは教えてほしかった。


 だが、今はそれよりも優先すべきことがある。というか、ゴブリンで思い出した。


「そうだ、逃げたあいつが援軍を呼んでくるかもしれない」


 仕留めきれずに、そのまま捨てセリフを吐いて逃走したあのゴブリン。あの口ぶりからして、他にも味方がいるような言い方だった。


「……うん、きっといるだろうね。何人、いるのかはわからないけど……」


 ハウルはとても悲しそうな顔でそう言った。一瞬、その表情が、先程二匹に問うていた時の表情と映り重なる。


 だが、それについて訊いている暇は無い。


「ここから移動しよう。追手が動く前に、なるべく遠ざかるべきだ」


 シグマの提案に、ハウルも強く頷き返す。そして二人して立ち上がり、ゴブリンが逃げた方向とは逆方向へ移動することにした。


「ちょっと待ってて」


 そう言ったハウルは、シグマが目覚めた魔法陣の近くに置いていた、何重も布で包んだものを回収する。とてもとても大事そうに胸に抱えていた。


「大丈夫?」


「うん、行こう」


 ハウルの準備が終わったのを確認し、シグマは歩き始めた。


 その足取りはとても軽快で、先程まで重傷を負っていた足とは到底思えない。


「足、痛まない?」


 しばらく歩いて、ハウルが心配そうに訊いてきた。


「痛かったらすぐに言ってね。やせ我慢はダメだよ?」


「全然平気だよ。むしろケガする前より調子がいいかもしれない」


 そう言って優しく笑う彼の表情に、苦痛の色は少したりとも見当たらない。その事実にハウルは改めて安堵する。


「成功して良かった。……下手すると足そのものが爆発四散するかもしれなかったし……」


 後半聴こえてきた不穏な言葉は、シグマの中で聞こえなかったことにされた。

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