レオン宅にて
ようやく店を出てみれば、入るときは頭上にあったはずの陽が、今では地平線の彼方に隠れようとしていた。空は燃えるような茜色に染まっている。
時間というのは、何かに没頭すればするほど加速して進むもの。
店の中で御馳走を挟んで兵士たちと談笑したのは、思いの外愉しい時間となった。
そうして共に笑い合った彼らも、今では帰路へ向かおうとしている。
「じゃあなー! 明日も頑張ろうぜ!」
その途中、ふり返りながら手を振り応援の言葉を投げてきた兵士の一人に向かって、シグマは笑って手を振り返した。
「いい人たちばかりですね」
兵士の姿が見えなくなって、彼はポツリと呟いた。
「ええ、私の自慢の部下たちです」
すると隣に立っているレオンが、微笑みながら肯定した。
「我らは兵である前に、人間でなくてはならない。他者との関りを排斥して戦いだけに没頭してしまうようであれば、いくら結果を残しても誰の支持も受けれないんです。だから我々は『人々の生活に寄り添う』ことをモットーにしているんですよ」
「なるほど。道理で誰も毛嫌いしているような人を見かけないわけですね」
万人から支持される、好意を抱かれる、というのはとても難しい。
千差万別の価値観を持った人々の中には、すべからく嫌悪を抱くような者もいるのだから。
でも、彼らの在り方を見ていると、万人に支持されるのも不可能ではないと思えてきてしまう。
少なくとも彼ら兵士たちは、この国で誰彼にも歓迎されているように見えた。
シグマはそれが、羨ましく感じてしまった。
「……っ」
ずきりと、また首元が痛む。思わず彼はその部分へ手を当てがった。
「おや、どうかしましたか?」
心配そうに訊ねてきたレオンに、シグマは「何でもないです」と笑って返した。
レオンも問題が無さそうだと判断したのか、すぐに元の表情へ戻る。
そして、そのまま彼は一つ提案してきた。
「シグマさん、この後なにか用事はありますか?」
「いえ、とくにこれといっては」
シグマとしては、このまま兵士たちと同じように帰路を辿るつもりだった。しかし帰っても別段やることは無かったりする。
そういえば勝利条件の三つ目をまだ聞いていなかったと思い出す。もしかしてそのことで自分を引き留めたのかと、シグマはレオンの言葉を待っていると、
「よかった。では私の家に寄って行きませんか?」
なんて、予想外のお誘いが来たのだった。
◇◇◇◇◇
そんなわけで店を出てしばらく歩いて大体十五分。
シグマはレオンの家とされる建物の入り口に立っていた。
国の守護を務める部隊を連ねる隊長であるレオン。しかし彼の役職から想像していたよりも、その家はずっと普通だった。周囲に建つ民家と比べてみても、何ら特筆していることは無い。
「では、どうぞ」
そう言って先導していたレオンが入口のドアを開け、中に入るように促してくる。
「お、おじゃまします」
そそくさと中へ入るシグマ。玄関には何足かの靴が並べられており、後ろでレオンが自分の靴を脱いでいた。どうやら土足ではないらしい。そのため、シグマも彼に倣い、靴を脱いで並べておく。
「こちらです」
レオンに案内され、薄暗い廊下を歩いていく。すると、廊下の先にあるドアの奥から楽しそうな談笑の声が聞こえてきた。
「ただいま、今しがた帰りました」
帰宅したことを伝える挨拶と共に、レオンはそのドアを潜る。
「あら、おかえりなさい」
女性の声と思しき返事が返ってきた。
「あ、おとーさんおかえりー!」
次いで、元気そうにはしゃぐ少女の声も。
その少女はレオンが部屋に入るや否や、それを待っていたかというように彼に飛びついた。それをレオンは避けようとはしないで抱きしめるように受け止める。
「ただいまアリーシャ。今日もいい子でいましたか?」
「うん! 今日はおかーさんのお皿洗いのおてつだいをした!」
「そうですか、それは良いことをしましたね。ではご褒美に高い高いをしてあげましょう」
そのままアリーシャと呼ばれた少女は持ち上げられ、キャーっと楽しそうな歓声を上げる。すると持ち上げられたことで、レオンの後ろにいるシグマの存在に気がついたらしい。アリーシャは眼を丸くして首を傾げた。
「あれ? おにーちゃんだーれ?」
「ああ、紹介し忘れてました。こちらはシグマさんです」
簡単な紹介をしながら、彼はシグマの方を向いてアイコンタクトを送ってきた。どうやら中に入ってという意らしい。
促されるがまま、シグマもドアを潜る。
そこはリビングだった。白のカーペットが敷かれており、その上には人形や積木などのおもちゃが散らばっている。奥にはカウンターを隔ててキッチンが併設されており、何か料理を作っているのか薄く湯気が立ち上っている。
「あらあら、また可愛らしいお客さんね」
そのキッチンにいたエプロン姿の女性が、料理と思しき作業を止めてシグマの方へ歩いてきた。
「シグマさん。こちらは家内です」
レオンの紹介にシグマは思わず目を丸くする。
まさか結婚しているとは思っていなかった。
そんなシグマの驚きをよそに、レオンの妻と紹介された女性は軽く一礼した。
「初めまして。ニーア・レフェル・アリシードと申します」
さらりと肩のあたりまで伸びた銀麗の長髪に、その色を映したかのようなグレーの瞳。そして髪を分けるようにして伸びる、銀毛に覆われた獣の耳が特徴的だった。また、シグマの位置からは見えていないが、背後の尾骨辺りにやはり銀毛に覆われた尻尾が垂れている。
「は、初めまして。僕はシグマです」
たおやかでありながら上品さを醸し出すニーアの所作に、シグマはたじろぎながらもなんとか返事を返す。
「アリーシャ、自己紹介を」
「はーい!」
するとレオンに促され、アリーシャもニーアの横に並んで勢いよく一礼した。
「はじめまして! アリーシャ・レフェル・レオンハートといいます。どうぞ、アリーシャと呼んでください!」
はつらつとした、元気なあいさつだった。
こちらは父親の遺伝子を強く受け継いだのか、レオンと同じ金色の髪。それを首元の辺りで三つ編み、肩から前方へ流すようにして垂らしている。
さらに目を引くのが彼女の背後。髪の色同様、金毛に覆われた尻尾がパタパタと左右に振られている。どうやらその天真爛漫な笑みに違わず、心から喜んでいるらしい。
その明るさにつられて、シグマは頬を緩ませる。
「初めまして、アリーシャちゃん」
「あ、ちゃんは付けなくてだいじょうぶです! こう見えてもわたし、りっぱなしゅ……しゅくじょ? なんですから!」
自信満々に胸を張るアリーシャを見て、シグマはおかしくて噴き出しそうになる。
さすがに本人の前で笑い出すのは不躾が過ぎるので、なんとか下唇を噛んで堪えはしたが。
「えっと……」
シグマは視線だけをレオンに向けた。さすがに親御さんの目の前で気安く娘の名前を呼び捨てで呼んでいいものか迷ったためだ。
するとレオンは軽く頷いた。どうやら問題は無いらしい。
「じゃあアリーシャ、僕はシグマって言うんだ。よろしくね」
「はい! よろしくです、シグマおにーちゃん!」
突然のお兄ちゃん呼びに、シグマは気恥ずかしさで照れ笑いながら頬を指で掻く。
その束の間、
「ぅづ……⁉」
また 首元に 激痛。
されど渾身で患部に触れることは耐えた。
もうシグマも気づいている。この痛みはただの幻痛。触れたところでそこに傷痕は存在しない。
だから確認することに意味はない。そんなことをしても、周りを無意味に心配させるだけだから。
『―――オニイチャン―――』
一瞬、別の誰かが自分を呼んだ。途端に首の激痛も鋭さを増す。
普通であれば、幻痛が引き起こした幻聴だと切り捨てたかもしれない。しばらくすれば治るものだと、無視を決め込んでいたかもしれない。
けれど、シグマはそうすることができなかった。
その声に郷愁のような懐かしさを覚えるとともに、心を万力で締め上げられるような息苦しさを感じてしまう。
いったい、これは誰の声だったか。
探ろうとしても、その声はやがて靄のように霧散して、遂に特定は叶わなかった。
「――――――」
少しだけ目を瞑り、小さく息を吐いて意識を切り替える。
今はレオン一家との交流が先決だ。正体不明の痛みや声に気を取られていてもしょうがない。
幸い、彼らはシグマの異変に気付いた様子はない。シグマは内心ホッと安堵した。
「ところでニーア、夕飯の準備はどうですか?」
「あと少しかかると思うわ。今日は歓迎会もあるって話だったから、こんなにも早くなるとは思わなくて」
「明日が明日でしたから、歓迎会も速めに切り上げたんですよ。ですがそう急がなくても大丈夫です。私もシグマさんも多少は食べてきましたから」
「え?」
レオンとニーアの会話が気にかかり、シグマは思わず彼らの方を振り向いた。
今の話の流れからすると、要するに……
「あの、僕も食べていいんですか?」
「はい、そのためにシグマさんを呼んだんですから」
「でもいきなりだし、それじゃニーアさんに迷惑が……」
するとニーアが微笑みながら首を横に振った。
「大丈夫ですよ。三人分作るのも四人分作るのも大して手間じゃありません。それに昨日のうちに主人からお客さんを連れてくるかもと言われていましたし、準備の方も整っています。ですからどうかくつろいでくださいな」
「身内自慢になりますが、ニーアの料理の腕は確かですよ。あの姫君に王室調理人としてスカウトしたいと言わせたほどです」
そう聞くと、俄然食べてみたくなる。
ニーアの方にも負担の色は見えないので、ここはありがたく厄介になろうとシグマは承諾した。
しかし彼女の話だと、まだ夕食までには時間があるとのこと。そこで食事が出来上がるまでの間、今度こそシグマは演習の勝利条件についてレオンに訊ねようと思ったのだが、
「ほらアリーシャ、シグマさんが遊んでくれるそうですよ」
「はい?」
「わーい! じゃあいっしょにおままごとするー!」
少女の無邪気な笑顔を前にして断れるはずもなく。
シグマは夕食が出来上がるまでの間、アリーシャと遊んで過ごすことになった。