表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/105

虚人の目覚め


 ―――虚空に、溺れている。



 なぜ、そう思い立ったのかはわからない。だけど、此処に何も無いのは明白だった。


 物質や存在はおろか、上下左右の概念すらも、此処には無い。


 膨大な虚無の世界。そこに自分だけが漂っているのだから、溺れるという表現はあながち間違ってはいないのかもしれない。


 嗚呼、でも。


 今、全身の感覚が一つを捉えた。あの真下にある、この虚無を埋め尽くすような暗闇(ぜつぼう)を。


 アレへ至ってはだめだ。そう全感覚が揃って恐怖している、警告してくる。


 だけど落下は止まらない。そもそも気づいた時から落ちているのだ。落ちる前ならいざ知らず、落下の最中に〝上へ戻ろう〟などと言われても、土台無理な話である。


 きっと、あの暗闇との衝突は避けられない。


 だから自分が行きつくまで待っていればいいものの、アレは我慢というものを知らないらしく、いくつもの黒い触腕を伸ばして獲物に絡みつける。


 その触腕は塩酸で出来ていた。絡みつかれた途端、自分を構成していた記憶が溶けていった。


 じわりじわりと、自分が浸食されているのに、悲鳴の一つも上げれない。


 当然だ。なぜなら彼には体が無い。悲鳴を上げるための声帯も、触腕を振りほどくための手足も、()()()()()()()()()()()()()()()()、今の彼には存在しない。


 故に、彼に抵抗する術はない。このまま塩酸の触腕に遍く溶かされて、この虚空に霧散する。


 それが、彼に約束された絶対の結末。もうここから覆すことなど、ありえない。

 ありえない、はずなのに。



 ―――ダメッ!



 消えゆく記憶の中で、唐突にその声が再生された。


 途端、彼に生きる意志が芽生えた。同時に絡みつく触腕に嫌悪感を覚え、振り解こうと無意味に腕を振る。


 すると、彼の腕が、触腕を引き千切った。


 腕だけではない。人の体を構成する様々な部位が、次々と創られていく。


 もはや彼は漂うだけの人形ではない。自分の意思を持って生きる、人間だ。


 であれば、彼は此処に居る資格は無い。元より此処は生者禁制の空間。速やかに彼には退場願う。


 突然、上昇が始まった。数秒もしない内に、あの莫大な暗闇は彼方の底へ。


 そして暗闇から遠ざかる毎に、周囲に光が増してくる。真上を見れば、そこかしこを照らす、眩い光輪が自分を見下ろしている。


 その光へ、彼は躊躇いなく、手を伸ばした―――


             ◆◆◇◆◆


「―――ぅ……」


 視界には何も映っていないのに、ひどく明るさを感じる。


 背後には柔らかな毛糸の絨毯。どうも自分はそこで横になっているらしい。


 そこでようやく気がついた。視界に何も映っていないのは、未だ瞼を閉じているからだと。


 薄く、ゆっくりと、目を開ける。最初に視界に入ってきたのは、生い茂る木々の隙間から洩れる零れ日だった。


 やがて、視界がはっきりしていく毎に、思考も鮮明となっていく。


「……ここ、外か……?」


 寝起きで本調子ではない体を無理やり起こし、周囲の状況を確認する。ひとまず解ったのは、自分が今まで寝ていた場所が毛糸の絨毯ではなく、草丈の低い雑草が生えている地面だった。


「なんで僕は外で寝ているんだ?」


 前後の記憶を探ろうと、必死に脳を回転させる。すると、彼は無意識に、自分の首へ手を当てがった。


(……?)


 自分のやった行為でありながら、彼はその行為に困惑する。別に首に何か異常があるわけではなく、全くの正常だった。


「……まあ、いいか。それよりも、とにかく家に帰らないと……って、あれ?」


 わからない。彼はその事実に直面し、硬直した。しかもその数は一つではない。


 まず一つ目。ここがどこかわからない。彼の記憶の中に、こんな青々とした立派な森の情報は無かった。


 次に二つ目。家がどこかわからない。そもそもここがどこかわからない以上、自分はどの方向に向かって帰ればいいかさえ判断のしようがない。


 そして三つ目。これが最も深刻だった。


「……僕は、誰だ?」


 ―――自分が、わからない。


 必死に記憶を探ってみた。言葉の情報はわかる、知識の情報もわかる、だけど、自分の情報だけがわからない。


「なにか、なにか、自分がわかるようなものは……」


 縋るような思いで、着ていた黒のジャケットのポケットを弄る。すると、そのうちの一つに固い感触を得た。


「あ、スマホだ! そうだ、これの電話帳やアプリ情報に何か書いてるかも……!」


 急いで電源を点ける。残量電池もかろうじて残っており、その液晶は輝きだした。


 映ったスライド画面には、シグマの文字を中心に針を伸ばした時計が二十二時十一分を指している。


 その画面を、彼は迷いなく横へスライドした。


 途端に現れる数字のキーボード。暗証番号を入力する画面だ。


「パスワード! パスワード、は……」


 無情にも、この情報も消えていた。彼にはこの画面から次へ進めない。


 それでも諦めずにでたらめな番号を再三入力してみたが、最終的に『しばらくしてからもう一度お試しください』という勧告が出て、入力すらできなくなった。


「……これ、確かやりすぎると端末が初期化されるんだよね……」


 その初期化に辿り着くまでに正しい数値が見つかればいいが、どうもそれは現実的ではない。そもそも残量電池が残りわずかなため、しばらくしてもう一度点けても、液晶の光は瞬く間に消えるだろう。


「八方塞がりか……どうしよう」


 がっくりと肩を落とし、落胆する。


 だけどそれも十秒足らず。何かを決意したように、彼は勢いよく立ち上がった。


「とりあえず情報収集だ。町とかに出れば、交番か何かがあるかもしれない」


 そう言って、彼は周囲の探索へと赴いた。



 ……約一時間後、彼は未だに森の中で、先程以上に落胆していた。


「なんなんだこの森……広すぎるにも程がある」


 少なくとも最初の十分は、ひとまず全方位の状況を確認していった。が、どこもかしこも同じような景色ばかり。そこでやむを得ず、一方向にひたすら進み続けてみた。


 それでも、森を出ることは叶わない。目を凝らしてみても、その果てにはさらに似たような景色が続くだけだった。


「人はおろか生き物の影すら見えないしなぁ。というか、イノシシとか出たりしないよね?」


 半ばやけくそ交じりに独り言を呟くも、返答なんてありはしない。むしろ余計に空しくなるだけだった。


「とりあえずさっきの所には戻ってこれたけど……というか何だこれ? ミステリーサークル?」


 始め、自分が目覚めたところに戻ってみると、そこには雑草を圧し潰してできた線によって、いくつもの図形を組み合わせたようなマーク、いわゆる魔法陣みたいなものが描かれていた。


「……もしかして僕、怪しい宗教団体の儀式みたいなのに巻き込まれたのか?」


 彼の疑問に答えるものはどこにもいない。が、あえて言わせてもらうなら、それは当たらずとも遠からず、といったところだ。


 だがそんなことに気づくわけもなく、彼はため息を吐いて、その場にへたり込んだ。


 空を見上げてみれば、生い茂る葉の隙間から、真っ青な空が見える。


「……綺麗な景色だなー」


 現実から逃避する。そんなことに意味は無いとわかってはいるものの、そうせずにはいられなかった。というか、そうするしかなかった。


 だが、実際に目に映っている景色はとても美しく感じる。自分の記憶と照らし合わせても、こんな景色を見られるような場所は該当しなかった。


 そして、この陽気な空気はひどく睡魔を誘き寄せる。先程目覚めたばかりの彼も、十五分もここに寝転がっていると、自然と瞼が重くなっていった。


 どうせ睡魔に抵抗しても、起きててやることは無し。ならばいっそ、なるがままになーれ、と。


 彼は、そのまま目を瞑った。


 ―――遠くから、足音らしきものが聴こえる。


「っ⁉」


 ガバリと、彼は勢いよく跳ね起きた。辺りを見回し、音源の位置を絞り出す。


(音が大きくなっている。もしかして、近づいてきてるのか?)


 こちらから探しに行くか、それともここで動かず待っておくべきか、はたまたどこかへ隠れるべきか。


 どの選択をするか、彼は必死に考えた。だからこそ、彼は最後まで気づかない。

 

その音源が、すぐ近くにまで迫っていることに。その姿が見えないのは、ちょうど彼の位置からは立っている木が死角となっているからだ。


 遭遇はまもなく。彼は気づいておらず、向こうもまた、一向に動かない彼のことに気づいていない。


 そして、そして、そして。



 ―――二人は、邂逅した。



 死角の木陰から飛び出してきたのは、一人の少女だった。黒のフードを被り、なにか布で包まれたものを後生大事に抱えている。


 少女は、彼の姿を見て驚いているらしい。ここまで走ってきたのか、息切れを起こしながらも、彼を見て硬直している。


 彼もまた、少女を見て硬直していた。選択の思考も、今や突然の遭遇で真っ白になっている。


 互いに見つめ合い、硬直し合う異様な状況。このままでは日が落ちるのではと思われた。


 だが再び、彼方から足音が聴こえた。しかも、今度は複数のものだ。


「あっ……⁉」


 少女にもその足音は聞こえたらしい。音源の方向を見て、怯えたような表情になる。


 その変容を見て、もしかしてと、彼は聞いた。


「追われてるの?」


 彼としては普通に話しかけたつもりなのだが、少女はビクリと萎縮してしまう。だが、やがておずおずと頷いた。


 すると、彼は何を考えたか、突然少女の手を取った。


「こっち」


「え、ちょっ……⁉」


 そのまま少女の有無を言わさず、彼は走り出した。


 無論、彼とて何も考えていないわけではない。目的地はすでに、先程の探索で見つけている。


 そこは、森にいくつも生えている木々のうち、ひときわ年代を重ねている老木だった。その根元は枯れ朽ちて、人ひとりが入れそうな空間ができていた。


「ちょっと汚いけど、我慢して」


 そして彼は、そのまま少女を中へ押し込んだ。


 さらに少女の姿が外部から見えないよう、自分も中に入って覆い隠す。黒系の服を着ている自分なら、ある程度は穴に充満する影と同化できると考えたのだ。しかしそこまで空間は広くないため、自然と二人は密着するような形となった。


「~~~⁉ っ、ンム~~~~~~~~~~~!」


 少女はパニックを起こしたか、声にならない声を上げて抗議の意を示す。


 だがその行為を、彼は静かに咎めた。


「静かに。……近くまで来てる」


 そう言うと、少女はすぐに静かになった。


 耳を澄ませば、ここからそう遠くない場所で荒げた声がする。どうやら少女を見失ったことに腹を立てているらしい。


 知らず、二人の鼓動が速くなる。もしもこの辺り一帯を隈なく探られようものなら、いくらこの身代わりでも限界がある。かといって今から逃げ出しても、もう遅い。このあたりの地理がよくわからない自分と、今まで逃げ続けて疲労困憊の少女では、とても逃げ切れるヴィジョンが見えなかった。


 二人にできるのは、祈るだけ。その重度の緊張に、たまらず目を閉じた。


 だが声の主はそのまま留まることはしなかった。徐々に声が遠ざかっていく。


 やがて声が聴こえなくなって約三〇秒、彼はようやく張り詰めた糸を緩ませるように息を吐いた。


「ふぅ。よし、うまくいった。ごめんね、こんな汚いところに押し込んで」


 そう言いながら、彼は少女から離れるように穴から出る。そして後に続くように少女も、躊躇いがちではあったが穴から出てきた。


「あ、……あの、その……ありがとう、ございます」


 消え入りそうな声で、少女は礼を言った。彼は「どういたしまして」と微笑み返す。


 それにしても、小柄な少女だった。身長は彼の胸元辺りまでしかなく、萎縮してしまっているせいでさらに縮こまって見える。また、ウインドブレイカーのような半袖のジャンパーと、丈が太ももの半分くらいしかないミニパンツは、両方とも黒色で統一されており、少しばかりサイズが大きめなのか服にたるみができているのも、外見的幼さを増長させた。


 そのため、少女が彼の顔を見て話そうとすると、必然的に上目遣いとなっていた。


「……なんで、助けてくれたの?」


 少女にとって、それは一番の疑問だった。そもそも初対面なはずなのに、なぜにこの人は理由も訊かず、自分をかばってくれたのか。


「…………うーん、なんでかって言うと……なんでだろ?」


 が、その理由は本人すら理解していなかった。あまりの無計画さに、少女は呆れを通り越して困惑した。


そんな反応を見て、彼はわたわたと弁解する。


「ごめん、今のナシ。でも理由か。あえて言うなら……いろいろと教えてほしいから、かな?」


 その答えを聞いて、少女はビクリと体を震わせた。そして抱き抱えている物をさらに強く抱きしめ、半歩ほど後ずさる。


「……いろいろって、なにを?」


 相手の答えが極秘事項を求めるものなら、すぐにでもこの場から離脱する。そう決意し、少女は足腰に力を入れる準備をした。


 そして、彼が訊いてきたものは―――


「ここってどこ? というか、僕は誰なんだ?」


 ……今度こそ、少女は本気でズッコケそうになった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ