あなたのおかげで
入浴シーン、機会があればまた書きます。
西日が世界を茜色に染め始める。あと少しで夕暮れは完全に地平の彼方へ沈み、夜が訪れるだろう。
この世界に来てから、夜というものの恐ろしさを知った。街灯はおろか、星以外の光が一切存在しない世界は、見渡す限りが真っ黒な闇に染め上げられる。そこへ何も準備せずに飛び出せば、自分の掌すらまともに見れなくて。自分が闇に溶けてしまいそうな恐怖を味わった。
だからこそ、今では人の生み出す灯りが何よりも愛おしい。陽が落ちても自分の周囲が確認できること、それがどれだけ幸福なことか、元の世界にいた頃にはわからなかったことだった。
その灯りを自分だけのものにしようと、シグマは視線の先にある光の輪へ手を伸ばす―――だけど手は虚空を掻くだけ、届かない。
それもそのはず。シグマはベッドに仰向けに寝転がったままなのだから。
(なんで、こんなことになったんだっけ)
手を下ろし、ゆっくりと上半身を起こすシグマ。そのまま首だけを動かして、ぐるりと周囲を確認してみる。
そこはシグマの世界で言う、学校の教室ほどの広さを持った部屋だった。しかし配置されてるのは教壇や生徒用の机椅子ではなく、もっと生活に寄り添う物……つまりはベッドやタンス、小さなテーブルなどである。
シグマが座しているベッドは部屋の片隅に置かれており、その付近には水差し用の瓶が置かれた小さなテーブルや、衣装用のタンス、一冊も入っていない空の本棚がある。だが、それらが配置されているのは、部屋の中央を区切りとした片方だけ。
もう片方には、同じ家具がシグマの方と鏡合わせになるように配置されている。
ここへ案内してくれたメイド曰く、あちらはハウルの生活スペースらしい。
なんでも彼女がいることは完全に想定外だったそうで、あてがえる部屋が他に無く、やむなくこれまで共に過ぎしてきたシグマと同じ部屋に入れるしかなかったらしい。
たしかにハウルと出逢ってから二日、森の洞窟の中で共に夜を越してきた。だが、あくまでもそれは、余計なことが考えられないサバイバル生活であったからだ。文化的な暮らしを手に入れた今となっては、その考えも変わってくる。
一応、部屋の中央には簡易的な仕切りが置かれているものの、その高さはシグマの首元辺りまでしかない。普通に立っているだけで、仕切りの向かい側は簡単に見ることができてしまう。
「……これじゃあハウルも気が滅入るだろうな」
見知らぬ土地で、男女が同じ部屋で共同生活。完全なプライベート空間が成立していないこの場所では―――たとえ本人の表情に見えなくとも―――精神を徐々にすり減らす要因となるだろう。
別段、シグマとしては見られても恥ずかしいと思うものは(今の段階では)持ち合わせていないが、ハウルがどうかはわからない。
「……まあでも、着替えとか見られていいはずないし」
その辺に関しても、あらかじめルールを定めておかなければ後々大喧嘩に発展する事態になりかねない。
そこで一刻も速く、シグマはハウルと話し合いたいと思っているのだが……
「ハウル、大丈夫かな」
先ほどから一度もシグマの呟きに返答が無いのは、この場にハウルがいないからだ。
謁見が終わってから、彼女はレオンと共に何処かへ行った。おそらく彼女に課せられる懲罰を不問にするための調書を、ここではない場所で行っているのだろう。
ハウルと別れてから、かれこれ二時間は経過した。シグマは一向に帰ってこない彼女のことが気がかりで、どうも落ち着かない様子である。
だが、いくらシグマは焦ったところで事態は好転しない。今のシグマに出来ることなど、待っている他に無いのだ。
そこでシグマは焦る気持ちを抑えるために、謁見の内容をもう一度思い出していた。
「……お姫様が僕を召喚した召喚主で、ハウルが王族で、ハウルの故郷が別の継承者にクーデターされて、……お姫様と僕が結婚させられそうになっていて、そして明後日に僕とハウルはこの国の軍隊と戦わされる、と……」
正直、どれも内容が濃ゆすぎて、胃もたれしそうだ。せめてこれらの説明には一週間ほど時間をかけてほしいと、シグマは嘆息する。
特に最後者の二つに関しては、考えているだけで胃がキリキリと痛みだす。
脳裏に浮かぶのは、お姫様―――ルカライネの顔。
初めの印象は、素直にかっこいいと思った。凛とした立ち住まいを崩すことのない彼女の姿は、それだけで美しいと言うに値する。
だが、あくまでもそれは最初だけ。
その後に見せた彼女の様々な表情は、シグマの印象を幻滅に近い形で粉砕した。
中でも軍事演習の件を告げた時の彼女の表情は、今でも痛烈に残っている。
一国の姫とは思えないほどの嗜虐に満ちた微笑み。あれを見た途端、シグマの背筋を今までにない悪寒が走った。
その経験から、シグマはこう断言する。
「あの人、絶対ドSだ」
揺るぎようのない確信。シグマは死んだ目で虚空を眺める。
もしもシグマがマゾヒズムであったのなら彼女の存在に歓喜していただろうが、残念ながらそんな性癖は持ち合わせていない。
相性の観点から言えば、二人はこの上なく反発し合う仲になるだろう。
「最悪だ……先行きが不安要素しかない……」
これでは戦場で背中を預け合うなど到底無理、むしろ肌が接触した途端に二人の死闘が始まる可能性だってあるかもしれない。
さすがにそれは無いだろうと、一笑に付したいのだが、
「……冗談と思いたいけど、普通にありえるんだよな……」
そう。ルカライネには、シグマを殺したいという理由があるのだ。
何の話も無く定められていた婚儀の話。どうも大臣の言うところによると、シグマとルカライネは後々結婚する予定なのだそうだ。
それはシグマだけでなく、彼女にとっても初耳だったようで、必死の形相で大臣に反論していた。結局彼女は言い負けてしまったが、それでも婚儀の開催を遅らせることには成功していた。
つまりそれだけ、彼女はシグマと婚儀を交わすのが嫌なのだろう。
押し問答の末に彼の方を見た彼女の双眸が、それを証明している。
嫌われたことに関して心にダメージがあるかと言われれば確かにあるのだが、現在問題なのはそこではなく……
「やばい、殺されるかも……」
それは明後日に行われる軍事演習。
相手側の具体的な戦力を聴いていないので断言はできないが、なんとなく全力で潰しに来そうな気がしてならない。
それこそ二人(ハウル+シグマ)VSこの国の全軍とかいう、もはや戦力差を見ただけで「あ、これ負ける」と諦観を超えて悟りの境地に至れるほどの。
うそだと思いたいが、どうも彼女の様子を見ていた限りだと、そうも言っていられないのが恐ろしい。
最悪、事故と称して消されるまである。
「……頭、痛くなってきた」
シグマは再び仰向けに寝転がる。
「大丈夫?」
すると、心配そうな声が足下から聞こえた。
「え、ハウル?」
慌てて起き上がると、そこには不思議そうにシグマを見つめているハウルがいた。
いつのまにか戻ってきていたらしい。
「よかった、無事だったんだ。その……大丈夫? なにもされてない?」
「うん、大丈夫だよ。とりあえず話せるだけのことは話したから、ひとまずは安心かな」
「そっか、よかった」
ほう、と息を吐いて安堵するシグマ。
「でも、君の国のことを安易に話してよかったの? さっきの話を聞いてた限りだと、どうもハウルの国とこの国は仲が良さそうには思えなかったんだけど」
するとハウルは悲しそうに眼を伏せた。
「……そうだね、たしかに私の国はこの国と友好的なわけじゃない。でも、今回起こったことは、私一人が抱えていても身に余ることだから仕方ないよ。それに遅かれ早かれ、すぐに全国に広がる規模の事件だしね」
「……………」
少しだけ沈黙が流れる。
話しているハウルがとてもつらそうな面持ちだったから、シグマは掛ける言葉に迷ってしまった。
「そういえば、ハウルは王族だったんだね」
やがて見つけた話題も、言った後で後悔する。
その話題はハウルを悲しませてしまうものだと、わかっていたはずなのに。
でも、彼女は苦笑して頬を掻くだけだった。
「ごめんね。別に隠していたわけじゃないんだけど」
「それ以上にいろいろなことがあり過ぎたからね、言う暇も無かったし仕方ないよ。でも意外ではあったな」
「ふふっ、私にそんな威厳は無いもんね」
「あ、いや違うよ。別にバカにしたわけじゃない」
イタズラっぽく微笑むハウルに、シグマは慌てて否定する。
そんな彼を見て、また彼女は楽しそうに笑った。
「うん、わかってるよ。ちょっとからかっただけ」
ハウルは無理をして笑っているようには見えなかった。
どうも調書で抱え込んでいたことを話せたのが、肩の荷を下ろすことに繋がったらしい。
そう考えると、無理やり調書を止めさせなくて正解だったなと、シグマは心の中で呟いた。
「シグマの方こそ、あの後なにかあった?」
あの後、とは謁見が終わってからのことを指している。
シグマは肩をすくめながら首を横に振った。
「何も。ハウルが帰ってくるまで、ずっとここでボーっとしてた」
「そうなんだ。てっきりルカライネ様に連れていかれたと思っていたのに」
それはシグマも考えていたことだった。
謁見での話が正しければ、ルカライネはシグマを召喚した、本当の契約主だという。であれば、彼女はシグマに対して少なからず話すべきことがあるはずだ。
だが、ルカライネは謁見が終わるや否や、すぐに壇上から降りてどこかへ行った。その迅速さに、シグマは声をかける暇も無かったのである。
まあ、その理由に関しては大体の見当はつく。
「嫌っているだろうからなぁ、僕のこと」
先ほどの結論からして、彼女がシグマを避けているというのは明白だった。ぶっちゃけ、それはシグマも同じ気持ちなので助かると言えば助かるのだが。
そしてハウルも納得がいったのか、どこか遠い目になる。
「私たちいろんな無礼を働いちゃったからね……ホントに、まだ首が繋がってるのが信じられないよ」
改めて謁見の自分の振る舞いを見直してみると、たしかに無礼極まりない。あんなことをすれば、別にルカライネでなくとも相手の顰蹙を買う要因になりかねない。
が、あの場ではそうでもしなければハウルが理不尽に裁かれるところだったのだ。それを考慮すれば、やはりあの判断は間違っていなかったとシグマは思う。
「でも、シグマはそれで大丈夫なの?」
「え、なにが?」
ハウルの質問の意図が解らず、シグマは訊き返す。
するとなぜか彼女は視線を泳がせながら、歯切れ悪く訊いてきた。
「その……シグマは結婚するんでしょ……?」
ガツン、と脳天を揺さぶる衝撃を持った質問だった。
「……勘弁してよ。あの姫様と結婚したんじゃ、半日とこっちの身が保たない」
ハウルに一番指摘されたくないことを指摘され、暗澹たる気持ちになるシグマ。
半日とは言ったものの、おそらく一時間保てばいい方だろう。それほどまでに二人の仲は壊滅的なのである。
「…………。シグマは結婚したくないの? あんなに綺麗な人なのに」
少し思案した後、ハウルは不思議そうな顔で訊いてきた。
その瞳の奥に、わずかに期待の色が見えるのは気のせいだろうか。
「まあ、魅力的とは思うけど……」
いくら継承者という特別な肩書を持つシグマといえど、根本が男であることは変わらない。
結婚に対しての憧れは確かに存在するし、ましてやその相手が美人とあれば心底嬉しいと思える。だが、
「僕は姫様のことを知らないし、きっと姫様も僕のことはよく知らないはずなんだ。そんなので結婚しても、きっと互いが他人行儀になって、送る生活も白々しいものになってしまう」
相手の素性がわからないから、地雷を踏まないように言葉を選び続ける。
相手の素性がわからないから、怒らせないように慎重な行動をし続ける。
それを繰り返し続けて最終的に残るのは、摩耗を避けるよう無駄な要素が一切排斥された、必要最低限の接触だけだ。
会話には必要最低限の情報以外の言葉が削がれ、会う回数を減らすために必要以上の接触を避ける。
そこに愛なんて生まれない。そこに友情も生まれない。
ともすれば他人であった方がまだマシだと思えるような。
互いに摩耗し枯れ果てた日々を、二人で送ることになるのだろう。
「そんな毎日を繰り返すとわかっていながら、僕は結婚したいとは思わないよ」
そのシグマの答えに、ハウルは何度か目を瞬かせる。ややあって、彼女はシグマから顔を逸らした。
「……そっか、結婚しないんだ。そっか……」
彼に聞こえない声で、ハウルは何やらボソボソと呟く。
思案に耽り俯きがちなその横顔には、なぜか安堵が含まれているように見えた。
「まあ、それはいいとして」
そこでシグマは一旦話題を切った。
「……明後日、どうしよっか」
「……そういえば、それもあったね」
現状、最大の問題となっている軍事演習の件。
ハウルは今の今まで忘れていたらしく、思い出した途端に表情を曇らせた。
「ハウルはどう思う? 姫様が言ってた『軍事演習に参加してもらう』ってことの意味。ただこの国の軍隊を把握するために見物してもらうとか、そう意味じゃないよね」
「たぶん。なんとなくだけど、あの姫様はそんなに甘くないと思う」
「だよね。やっぱり全軍 対 僕達って想定しておいた方がいいのかなぁ」
「私もそうだと思うよ。たぶんそれが一番合理的なはずだから」
「え?」
半ば現実離れしたことを言ったというのに、なぜかハウルはそれを否定することなく同意してきた。それが意外で、思わずシグマはその根拠について訊き返す。
「えっとね、シグマはもう私と契約して、儀式剣も手に入れて、いわば継承者として完全な状態にあるの。完全な継承者は常人をはるかに凌駕する力を保有していて、それこそ一人で一個大隊とせめぎ合うことができるって言われているんだ。だから、今回の演習に参加するっていうのは、おそらくシグマの持つ継承者の力を計りたいんだと思う。全軍と相対して、シグマがどういった力の形を見せるのか、それを把握するために」
「なるほど……でも、それだけならわざわざこの国の軍隊と戦わなくともいいんじゃないの? 別に猛獣相手であってもさほど結果は変わらないよね?」
「そうだね、たしかにシグマの力を計るだけならそれでもいいかもしれない。でもこの軍事演習には、もう一つ大きな意味があるんだ」
「それは?」
「兵士さんたちに継承者の脅威を実感してもらうこと」
「……? それは必要なことなの?」
「うん。だって考えてみて。王位継承戦というのは百年周期で行われる。もし仮に前回の継承戦を経験してそれで生き延びたとしても」
「そっか。次の継承戦が始まるころには老人になっているんだ」
例えば一〇〇年に継承戦が勃発したとして、その頃に従軍している兵士たちの平均年齢は二五歳と仮定する。
そして次の王位継承戦が始まるのは、百年周期で二〇〇年。
この時、一〇〇年時から二〇〇年時の王位継承戦が始まるまでに経過している時間はちょうど百年になる。であれば、当然一〇〇年時に従軍していた兵士たちも、二〇〇年時のときには百歳もの年齢を重ねている。
平均して百二十五歳。たとえこの年まで生き残っていたとしても、おそらく兵士としては役に立たないほどに老衰しているのである。
「だから必然的に、今従軍している兵士は王位継承戦を経験していないの。その人たちが何も知らないまま、継承戦の戦場に投げ出されたら……」
「圧倒的な力を持つ継承者に気が動転して、統率が取れなくなる?」
ハウルは頷いた。
「それを防ぐためにも、一度自国の王位継承者と戦わせることで、継承者がいかに脅威かを知ってもらう必要があるんだ。これはこの国だけが行っている事じゃなくて、ほかの国でも行われていることなんだよ」
シグマは納得し、大きく頷く。
なるほど、たしかに合理的な理由である。
「でも、それならなんでハウルも参加しないといけないんだろう?」
「それは私にもわからないな……。私がシグマの力の一部とみなされたか、それとも私の力も同時に計るためなのか……」
とはいえ、ハウルも演習に参加することは既に決定事項。今から理由についてあれこれ考察したところで、覆ることはない。さして重要な事柄でもないので、これは後回しにしてもいいだろうと、シグマは考えを打ち切った。
問題は、演習での立ち回り。一対一で戦うのならともかく、複数での戦闘となると味方との連携は戦局を左右するほどの重要性を持つ。そのため、それに関して協議しようと、先刻までシグマは考えていたのだが、
(いや、これもまだ後でいい)
そもそもにおいて、シグマたちは演習に関する詳細を一切知らないでいる。一応、先ほどハウルが、この国の全戦力を相手取ることも十分にあり得るという話をしていたが、あくまでもそれは予測の域だ。
演習がどういう形式で行われるのか、どれほどの規模なのか、どうすれば勝利なのか……対策を立てるにしても、それらの条件を詳しく知っておく必要がある。
幸いにも、刻限はあと一日の猶予を残している。調査をするだけなら十分すぎる時間であった。
「明日、それらの条件を訊きに行こう」
それは、ハウルも来てくれると踏んだ上での発言だった。……しかし、
「……ごめんねシグマ。私は一緒に行けないよ」
彼女は申し訳なさそうに縮こまって、シグマの誘いを断った。
「……なにかあったの?」
まさか断られるとは思っていなかったシグマは、首を傾げながらその理由を訊ねた。
すると彼女は目を伏せる。やがて静かに説明を始めた。
「私ね、昨日ヅィーヴェン先生と戦って気づいたんだ。私には戦うための手段が少なすぎるって」
それは森の中での出来事。
ハウルは死に体のシグマからヅィーヴェンを引き離し、時間を稼ぐために彼と戦闘を行った。
けれど、実際は戦闘と呼べるほど拮抗することはできなくて、それは一方的に蹂躙される始末となった。
その最もたる要因は、
「私には手札が無い。攻撃のための術式も、攻撃を変化させる技術も、相手と戦うときに使う力が私には不足している。……本当ならもっと早くに覚えておかなきゃいけなかったんだけど、私にはまだ必要ないって、まだ覚えるときじゃないって、そうやって言い訳をし続けて逃げてきたんだ」
その結果があの有様。
ヅィーヴェンに敗北し、心も再起不能なほどに破壊され、そして危うく陥落した王城へ連れていかれそうになった。
「でも、もうそんな甘え事を言っていられる状況じゃなくなってしまったから。あの国を取り戻すために戦わないといけないから。
……私は強くならないといけない。私には、あの国を取り戻せるだけの力が要る。たとえその道のりが果てしなく困難だとしても、僅かなことも積み重ねて乗り越えれるようにしなければいけないの」
その表情はとても弱々しく、だけど同時に、悔恨の念が籠められているようにも見えた。
果たしてシグマは気づいただろうか。その表情を、かつては彼も浮かべていたことを。
「だからね、私は明日、この国の資料室に行こうと思うんだ。そこで魔術に関する知識をもっと蓄えて、使える魔術を一つでも増やしたいの」
ハウルの目には、たしかな決意が灯っていた。
ああ、とシグマは内心で感嘆する。
彼女の明確な意志は、もはや自分には曲げられない。
「でも大丈夫なの? 資料室って、要は国が持ついろんな情報が保管されている場所だよね。そんなところにハウルが入ったら問題になるんじゃ……」
国にとって情報とは、その内容によっては国の基盤を揺るがしかねない、いわば危険物のようなもの。正しく扱えばそれ相応の効果や恩恵をもたらすが、もしも流出や悪用された場合には膨大な損害を発生させることになる。
そのため他国の間者に情報が漏洩することがないよう、その立ち入りが厳しく制限されているのではと考えた。
「あ、それは大丈夫。ちゃんとレオンさんに許可は頂いたから。さすがに最高機密が保管されている場所はダメだけど、それ以外なら構わないって」
どうやらその点も抜かりは無いらしい。
シグマは微笑みながら頷いた。
「わかった。じゃあ演習のことは僕が訊いておくよ」
「ごめんね。重要なことをシグマに押し付けて」
「大丈夫、これぐらいなら苦じゃないさ」
ひとまず方針は整った。
だが、その方針は全て明日以降に動くもの。今日の時点では何もすることはなくなった。
窓の方を見れば、いつの間にか陽も落ちている。漆黒に染まった夜空の下で、街灯のような魔法器具が放つ優しい明かりが庭園を薄く照らしていた。
今から街に出てみようと考えてみたが、この城へ向かう間に通った庭園の広さを思い出しやめておこうと結論する。まだ完全に道を覚えていない以上、街に出る前に庭園の中で遭難しかねない。
となると、ここから先は手持無沙汰の時間。シグマはいかにして時間を消費しようか決めあぐねる。
すると、唐突に出入り口のドアが何者かにノックされた。
「失礼します。先ほど浴場の用意が整いました。もし差し支えなければ案内させていただきます。如何いたしますか?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、シグマをこの部屋へ案内してくれたメイドの声だった。
シグマとハウルは互いに顔を見合わせ、やがてどちらからともなく破顔する。
ひとまず時間は潰せそうだ。
◆◇◆◇◆◇
夢見心地の入浴を心行くまで堪能し、ご満悦のシグマとハウル。用意してあったバスローブに袖を通し、再び部屋に戻ってきたとき、そこには豪勢な食事が並んでいた。
いくつかの野菜らしきものをほろほろになるまで煮込んだ、ミネストローネのようなスープ。表面を香ばしいきつね色に染めた、割ると肉汁が零れだすミートパイ。ぶつ切りの肉と野菜を交互に刺して焼き上げた、海外のバーベキューに出てくるような巨大串焼きなどが、部屋に置かれていたテーブルの上に所狭しと敷き詰められていた。
森で過ごしていた頃は、木に実っている果実をそのまま齧ることで飢えを凌いでいた二人である。久々に見た料理という、人の味覚を最大限に楽しませてくれるものを直視して、口内は早くそれを食べたいと唾液で満たし、腹は催促するかのように軽快な音を鳴らす。
料理に飛びついて、並べられていた皿を全て空にするのに、二十分もかからなかった。
人が生み出した叡智の中で最もたるものは調理方法の確立に他ならない―――とは、串焼きにかぶりつくシグマの感想である。
やがて平らげた料理の皿は、再び部屋に訪れたメイド―――今度は四人いた―――に運ばれて行った。
腹が満ちれば、睡魔が訪れる。これは人にとって当然の生理現象である。
無論、二人とて例外ではない。シグマは何度か目を擦り、ハウルはとろんとした目で船を漕ぎ始めていた。
別段、起きていてもやることはない。二人とも就寝することに異議は無かった。
「『消灯』」
ハウルの呟いた言葉と共に、天上で部屋を照らしていた光輪が中央に収束するようにして消えた。
光源を失った途端、たちまち窓の外と変わらぬ暗さになる部屋。先ほどまで明るさに目が慣れていたせいか、一寸先もまったく見えない。
暗闇の中でシグマは静かに息を吐く。
(……落ち着かないな……)
原因はすぐに判明した。この部屋が広すぎるのだ。
暗闇の中であっても、ある程度の空間把握能力は働いている。ここには、普通の部屋で生活するときの閉塞感が微塵も感じられない。まるで外で寝ている気分だった。
いくら眠気があっても、こうなっては中々眠ることはできない。独りで眠っている間に、何者かに襲われてしまうのではないかという、何とも言えない感情が産まれてくる。
少しすれば慣れもするだろうが、それまで眠ることは難しいだろう。
これは長い夜になりそうだ―――そうシグマが諦観した、その時だった。
「……シグマ、起きてる?」
部屋の中央を区切る仕切りの向こうから、ハウルのか細い声が聞こえてきた。
「起きてるよ。どうしたの、何かあった?」
「ううん、何も無いけど……」
「もしかしてこの部屋が大きすぎて不安だったりする?」
歯切れの悪い返答に、シグマはなんとなく彼女が同じ感覚に陥っているのではないかと考えた。
仕切りの奥でハウルが苦笑する気配を感じた。
「ふふっ、正解。当てられるとは思わなかったな」
「やっぱりハウルもなんだ」
「シグマもそうなの?」
「うん、こうも広いと部屋の中にいるって感じがしなくて落ち着かない」
「すごくわかる。もう少し狭くてもいいのにね」
二人で同じ感想を言い合い、それがおかしくて互いに口元を緩ませる。
今この時だけは、少しだけ不安も和らいでいた。
「それにしても、ハウルは王族だったんだよね。ならこれくらいの広さの部屋くらいあったんじゃないの?」
「そうでもないよ。私の部屋はここの半分くらいだったから」
「そっか。それならやっぱりこの部屋は広すぎるね」
身の丈に合わない、不相応な空間。そこに充満する不安は心細さを加速させる。
ハウルと話してある程度は緩和されたものの、やはり完全には消えてくれない。
そして、それは彼女も同じだったのだろう。
「……ねぇ、シグマ」
わずかに逡巡しているのが感じ取れる声で、ハウルはこう提案する。
「一緒に寝ない?」
「…………………………………………はい?」
たまらず疑問形で訊き返すシグマ。
「一緒にって……僕とハウルが?」
「うん。二つのベッドをくっつけて近くで眠れば、なんとなく眠れるような気がするんだ」
「あ、そういうこと……」
てっきり別の意味かと勘違いしていたシグマは、そう勘違いしてしまった己の邪さに顔を覆いたくなる羞恥に駆られる。穴があれば今すぐにでも飛び込みたい心境だった。
しかし、シグマの醜態は別として、ハウルの提案は悪くない。
この不安は広い空間に独りでいるからこそ起こるものであるのだから、近くに誰かがいれば不安が解消されるのは道理である。
「その、シグマが迷惑ならいいけど……」
「いや、全然大丈夫だよ。それじゃあベッドを動かそうか」
「……! うん!」
そして。
再び明かりを点けて、それぞれのベッドを中央へ運んでいく(ちなみにどちらともシグマが押して動かした)。
さすがに直で接するのは、風紀的な乱れに繋がる可能性があるのではという懸念があったため、間に部屋の仕切りを通す形で完了した。
そして再び消灯。また暗闇が空間を支配する。
けれど、今度は先ほどよりも怖くない。
すぐ隣にハウルがいる。ただそれだけで不安感よりも安心感の方が上回った。
「ねえ、シグマ」
仕切りの奥から聞こえる先ほどよりも鮮明な声。その声色から、彼女もどことなくリラックスできているのが窺えた。
「今日はありがとう」
「……僕、なにかしたっけ?」
「謁見で私がルカライネ様に問い詰められていた時に、シグマは私を庇ってくれた。私ね、それがとても嬉しかったんだよ」
謁見のことを思い出し、シグマは思わず表情を曇らせる。
ハウルが言っている状況のことはすぐに特定できた。そして、自分がどういう行いをしたのかも。
たしかにあの部分だけを切り取って見てみれば、シグマはハウルを守るために自ら矢面に立った形になるだろう。
だけど、その後はどうなった。
果たしてシグマは、有意に行動出来ていたと言えるのか。
「……結局、僕は何もできなかった」
低い声で漏れた弱音。
しかしそれをハウルは即座に否定する。
「ううん、そんなことない。シグマは気づいていないかもしれないけど、シグマが庇ってくれたから、私はルカライネ様と話す勇気が出たんだよ。シグマがいなかったら、きっと私は何も伝えることができないまま幽閉されていたと思うんだ」
それはシグマが知る初めての事実だった。
あの時、ハウルは必死な様相でシグマを止めて、そのまま自ら前へ出て事の顛末を説明していた。
そのきっかけを作ってくれたのはシグマだと、他でもない彼女が言う。
気休めだと心の内で誰かが囁く。
ハウルの言葉を否定しようと画策している。
ああ、でも。
こんなにも胸が空くような気持ちになるのなら、それが嘘でも構わないと。
シグマは溜まっていた負の想いを吐き出すように、大きく息を吐いた。
「……あ、あのね、シグマ」
そしてもう一度、ハウルは彼の名前を呼ぶ。
今度はわずかな気恥ずかしさの色を見せて。
「あの時のシグマ、とってもカッコよかったよ」
シグマは目を点にして、ハウルの方を向いた。
当然ながら彼女の顔は仕切りが邪魔をして見ることはできない。
しかし同時に、それを幸いだと思っているのも事実。
きっと今浮かべている自分の顔は、今までになく間抜け面だと思うから。
「そ、それだけっ。私はもう寝るね! おやすみっ」
ハウルは慌てて布団を頭まで被った。おやすみと言ったものの、これからしばらく彼女は布団の中で悶え続けることになるだろう。
シグマは目を点にしたまま、何度か瞬かせると、
「うん、おやすみ」
やがて顔を綻ばせて、就寝の挨拶を返した。
そして目を瞑り、意識が落ちようとした瞬間。
「こちらこそありがとう、ハウル」
静かに彼女に感謝して、今度こそシグマは眠りに落ちた。
まあ、いくら静かに呟いても、それが聴こえる距離にハウルはいるわけで。
結果として彼女が悶える時間は延びたのだけれど。
次はもしかすると二週間後になるかもです。
ホントにすみません…