勝利の温もり
パチパチと、薪の弾ける音で目が覚めた。
「……ぅ……」
呻くような声を上げ、シグマは重い瞼を薄く開ける。
霞みがかった視界に映るのは、ごつごつとした荒い岩肌の天井。なにやら妙に明るく照らされており、その明かりも不動ではなく微妙に揺らめいていた。
「ここ、は……」
見覚えがある。
昨夜、ハウルと一緒に一夜を過ごした洞窟だった。
「―――シグマ?」
すると、件の彼女の声が頭上から聞こえてきた。ゆっくりと頭を上に動かしてみれば、そこにはハウルの姿が確認できる。
シグマを見下ろす形のハウルは、なぜかポカンと口を開けていた。……やがて彼が目を覚ましたという事実を理解するとともに、徐々に目の端に涙が溢れ、零れだす。
「え……?」
いきなり泣き出したハウルに困惑の声を上げるシグマ。そんな彼の顔へ被さるように、彼女は両手でシグマの頭をひしと抱きしめた。
「生きてる、よかった……生きてるよね、シグマ、……本当に、本当に良かった……!」
ハウルはなおも泣き続けながら、シグマが無事だったことを純粋に喜び続ける。その涙が自分の為に流されていると理解するのに、彼は些か時間を要した。
視線を横にずらしてみれば、洞窟の入口から見える陽の色はすでに赤みを増していた。ヅィーヴェンと戦闘をしたのが朝方であったわけだから、軽く八時間は昏睡していたことになる。
きっと彼女は、シグマの昏睡が解けるまでずっと傍にいてくれたのだろう。それもわざわざこの洞窟内にシグマを運んで。
少しだけ申し訳なさで胸が痛んだ。
「ごめん、心配かけたね」
今も泣きじゃくり続けるハウルに、シグマは心から謝罪する。
それでも、彼女がこんなにも心配してくれていたということが嬉しくて、シグマの口元はわずかに緩んでいた。
もっとも、彼はそれを自覚していないけれど。
(にしても……さっきから頭の後ろが柔らかいと思ったら……)
後頭部から地面にしては柔らかい弾力と、それに伴う温もりを感じる。それがなんであるか、ハウルの体勢から把握できた。
(膝枕、してくれていたのか)
途端、気恥ずかしさで頬が熱くなる。さらにそれが引き金となって、このタイミングで昨夜木の実を取ろうと試行錯誤したときのことを思い出す。
具体的には、ハウルの太ももに挟まれたあの時とか。
(バカ、違うだろ。何考えてんだ僕は……!)
湧き上がってきた雑念を、必死に目を瞑って振り払う。それでもやはり後頭部から伝わる温度は無視しきれなくて、やむなくシグマは無理やり身体を起こすことにした。
「ハウルごめん、起きるからちょっといいかな?」
「え、……あ、ご、ごめんね!」
ハウルに腕を解いてもらい、ゆっくりと起き上がるため四肢に力を籠めるシグマ。
ひどく動きが悪い。まるで至るところの関節が錆びついているかのよう。ただ起き上がるという一動作だけで、著しく体力を消費した。
それでもなんとか起き上がり、改めてハウルと向き合う。
彼女の眼は赤く腫れ、目じりにはまだ涙が溜まっている。その様は今にも泣くのを堪えているのが明白で、何かきっかけで堰が切られようものなら瞬く間に決壊するだろう。
だからシグマはできる限り優しく話かけることにした。
「それで、その……」
意識してハウルを刺激しない声を選んだつもりだった。
……つもりだったのに、またボロボロと彼女の眼から涙が零れだす。
「うぇ⁉ ちょ、ハウルどうしたの⁉」
シグマが慌てても、ハウルは一向に流す涙を拭おうとはせず、ただひたすらに彼を見つめている。
その堪えるような表情の彼女に困惑していたシグマだったが、よくよく見てみると彼女が震えていることに気がついた。
口はきっちりと真一文字に結んで、覚悟を決めたような真っ直ぐな目。だというのに瞳の奥は揺れていて、その身体も隠し切れないほどに震えている。
その様を見て、シグマはふと思った。
―――まるで、今にも自殺してしまいそうだ。
「……ごめんなさい」
ようやくハウルが口を開いたと思えば、開口一番は謝罪だった。
「私、シグマを騙して殺そうとしてしまった。シグマを助けるって言ったのに、まったく逆のことをしてた……本当に助けたかったなら、儀式剣なんて渡しちゃいけなかったのに……私がそうしてしまったせいで、シグマを苦しめてしまった」
シグマは黙って彼女の言葉を聞いていた。時折、眉をひそめながら。
「……私のせいでたくさんつらい目に合わされたから、きっとシグマは怒ってるよね。……うん、それは当然だと思うし、その、私が言うべきことではないけど……私も自分に怒っている。それだけ私は卑怯で残忍なことをしてしまったから……」
あらゆるものが耐えられず、たまらずハウルは俯いた。震えはさらに大きくなり、涙は相変わらず零れていて。
それでも、絞り出すように、
「どんな、糾弾も、報復も、受け入れるから。それで、っ殺されることになっても、文句は言わない、だから……」
それでようやく、シグマはハウルの『恐怖』の正体を理解した。
彼女はずっと前から罰を受けることを覚悟していた。たとえそれがどれほど凄惨なものでも、最悪の場合死に至ることになるとしても、それらすべてが相応だと自身にひたすら言い聞かせて。
そうして覚悟を決めたけれど、それでも死の恐怖を完全に呑み下せず、こうして今でも震えている。
……もうそこに、かつての明るく快活な彼女の色は微塵も見えなかった。
「……じゃあ言うけど」
そして、今までずっと黙って聞いていたシグマが、ようやく口を開ける。
ハウルは俯いたまま、びくりと萎縮する。
罰が告げられる。その事実に、その内容に、その執行に、恐怖して。
それでも涙だけは堪えた。被害者ぶる涙は―――たとえ本人にその気がなくとも―――誰の目にも醜く映る。そうやって最後まで醜態を晒すくらいならと、ハウルは固く両目を結んで涙を堰き止めた。
焚火の火が揺らぎ、二人の淡い影を切なく揺らす。
そして、とうとう―――
「君が何を言っているか全くわからなかった」
あっけらかんと、シグマは普通の声色でそう言った。
「……え……?」
予期せぬ言葉に、思わずハウルは面を上げる。
目の前にいたシグマは、不思議そうに首を傾げているだけだった。
「君の言ってることには幾つもツッコミを入れたいけど、とりあえず今は一つだけ」
呆然としているハウルに、シグマは彼女の言葉で最も気にかかった点を指摘する。
「僕は怒ってなんていない。むしろ君には感謝しているんだよ」
そんなの当然だろうと、言わんばかりに。
「君は自分のせいで僕がつらい目にあったと言うけど、それは間違いだ。僕は僕の意志で君と契約して、儀式剣とも契約した。たしかにつらかったし苦しかったけれど、それを君が気負う必要はない。全部、僕が望んでやったことだ」
「で、でも! 私に関わらなければ、シグマはこんなにも傷つかずに済んだ。私と逢わなければ、こんなにもボロボロになることはなかったのに……」
「それこそ間違いだ。いいハウル? 大前提として、僕は君に逢えなければここまで生きていけなかった。君に逢わず、関わらずに一人のままで行動していれば、きっとあの森のどこかで誰にも気づかれずに野垂れ死んでいたんだよ。
でも君と出逢って、いろいろ助けてもらえたから、僕は今ここで君と話せている。君がいてくれたおかげで、僕は生きている。だから僕は、ずっと君に感謝しているんだ」
否定しようと思った。
表面だけを取り繕った嘘の言葉だと思いたかった。
でも、そう信じるには、焚火の炎に照らされるシグマの微笑みが、あまりにも真っ直ぐで。
「それにね、僕は嬉しかったんだ」
彼女の動揺に気づいていないのか、あるいは気づいていないふりなのか。シグマは眼を瞑り、今までのことを思い返しながら、一言一言噛み締めるように話し出す。
「今までずっと君に守られているばかりなのに、僕は君に何も返せなかった。だから、いつか君の力になって、恩返しがしたいと思っていたんだ」
結局のところ、それがシグマの行動理念の根底にある答えだった。
何時間も議論と吟味を重ね、いくつもの考えを生み出した。でもそれらは、どれだけ立派なものであっても、どれだけ崇高なものでも、彼が元から抱いていた答えの前では霞んでしまって。
そうやって様々な考えを切り捨てた果てに、ようやくシグマは自身の心を理解した。
なんてことはない。ただ自分は、ハウルの力になりたかったのだと。
「ようやく君に追いついた。僕はそれがどうしようもなく嬉しいんだ」
屈託のない笑顔でそう言われ、ハウルは驚愕で呆然としていた。
「……そんな、ことで……?」
「そんなことなもんか。君と出逢って、ずっと抱えていた蟠りだ。それだけ、僕にとってはかけがえのない願いだったんだよ」
森でゴブリンらと対峙したときに見せた、ハウルの悲痛な表情。
あの時から、シグマの願いは形を持った。
その後も劣等感や無力感に打ちひしがれて、一度は死の淵まで立たされたりもしたけれど。
それでも、彼は己が願いを成し遂げた。
だから、ほら。とても嬉しそうに、幸福そうに、シグマは笑っている。
「……ぁ、」
思わず堰き止めていた涙が溢れ出した。
みっともなくて、止めようとしたけれど、それでも涙はハウルの意志に反して流れ続ける。
本当だった。
シグマの言葉に嘘なんてなかった。
なのに、勝手な自己都合で否定しようとして、またも彼の想いを蔑ろにしてしまうところだった。
「ごめ、んなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
ハウルは謝り続ける。零れる涙を、ずっと拭いながら。
でも、もうその涙は恐怖によって流れてはいない。むしろ恐怖が無くなった安堵による緊張の解れから流れていた。
それを見て、もう説得は必要ないとわかったから。
「いいよ、もう気にしないで」
優しく笑って、彼女を赦した。
そしてシグマはおもむろに立ち上がり、泣いているハウルに手を差し伸ばす。
「さ、ハウル。またご飯を採ってこよう。朝は食べ損ねてしまったし、もうお腹がペコペコだ」
「……うん!」
そう言われ、彼女はまだ少し泣きながらも差し伸べられた手を取った。
その彼女の口元には、小さな笑みが戻っている。
思い返せば、今日初めて見るハウルの笑顔。それが二人で過ごした平和な時間の証のような気がして、
(ああ、そっか。僕、勝てたんだ)
なんて。
今更ながら勝利の温もりを実感するシグマだった。