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Life Screamer

 始めは小さな音だった。


 それが刻一刻と音量を増していき、遂には辺りが揺れ始める。


 ヅィーヴェンはその明確な異変を警戒しながらも困惑していた。


(猛獣? いや、この辺り一帯には精々オオカミ程度の獣しか生息していないはず。ここまでの地響きを唸らせるほどの巨大な獣がいれば、今日の今日まで情報が伝わっていないのはおかしい。では、これはいったい……―――ッ⁉)


 思考は、答えが出るまでは続かなかった。


 彼方に小さな影が見えたと思えば、それはやがて段々と大きさを増していく。こちらへ近づいている証拠だ。


 そして、接近してくるものの正体を視認し、ヅィーヴェンは驚愕で目を剥いた。


 綿毛と言えばいいだろうか。中心からいくつも細い糸を生やし、それが風に吹かれて地面を転がっている様。


 ただし、生えているのは細い糸ではなく大綱のような太さの触腕で、それらが地面を抉りながら加速を得ているという、例えた比喩とは大きくかけ離れた凄惨さだった。


 森の木々を薙ぎ倒し、ただ一直線に向かってくる破壊の進行は、凶悪の一言に尽きる。


 だが、それはヅィーヴェンにとってさして重要なことではない。そんなことは、触腕の生えている中央のあれに比べれば考慮する価値もない。


「…………なぜ…………ッ⁉」


 抜けば必ず死ぬ剣を、抜いてしまった継承者。きっと彼は助からない、これまでがそうだったのだから、此度も例外に漏れることはないと踏んでいた。


 なのに、その在り得るはずのない存在を目撃して、


「―――なぜ、貴方が生きているのですか―――――――⁉」


 彼は当然の疑問を絶叫した。


 そして、ヅィーヴェンに腕を掴まれ吊られていたハウルも、聞こえた彼の切迫した声に思わず閉じていた目を開けて、そして、その姿を目撃した。


「……うそ、なんで……」


 もう死んでしまったと思っていた。自分が殺してしまったと思っていた。


 その事実を少し前に受け入れてしまったからこそ、彼女の目にした光景に対する驚愕と困惑はヅィーヴェンよりも遥かに大きい。


 そして、ハウルは震えてわななく口で、その名を呼んだ。


「―――シグマ……」


 そのか細い声は、果たして本人に届いたか。


「LUUUUAAAAAAAAAAAAAAA――――――――――‼」


 断じて返事の咆哮ではない。これは狼煙、この森を駆け抜けてようやく出逢えたその敵に『今からお前を狩りに征く』と告げる、混じり気無しの意思表示。


 その時点で、彼の中で戦いの火蓋は落とされた。


 そして、跳躍。まるで獲物へ喰らい付く獣のように、彼はヅィーヴェンへ飛びかかった。


「っ、そんなものでッ‼」


 シグマの生存にハウル同様忘我となっていたヅィーヴェンだったが、こちらへ襲いかかってくると解った途端、掴んでいた彼女の腕を離し一瞬で防御術式を組み立てる。


 ヅィーヴェンの周囲を堅牢な防壁の膜が覆った、その直後だった。


 いくつもの触腕に身を包んだシグマの突進が、砲弾の如く直撃する―――!


「―――ぅグォオ―――ッ⁉」


 突進に押されて後方へ吹き飛ばされ、その延長線上にあった樹木の幹に背中から叩きつけられる。防御壁が壊れることはなかったものの、代わりに凄まじい衝撃が容赦なく内側を揺らした。


「ぅ、く……なん、なんですか……!」


 背後の幹に手を付いて、ふらふらとヅィーヴェンは立ち上がる。


 彼の身体に損傷は見られない。あの身の毛もよだつ威力を持ったシグマの突進は、防壁が文字通り全て防ぎきったのだ。


 だが、攻撃してきたという事実は変わらない。愚かにもあの継承者は、ヅィーヴェンが何者であるかも知らずに襲いかかってきた。


 その所業は万死に値する。もはや簡単に殺すだけでは生温い。


 憎悪を募らせ、ヅィーヴェンはむき出しの敵意を籠めた眼でシグマを睨みつけ……そのこめかみが、ピクリと痙攣した。


 あろうことかシグマはヅィーヴェンを見ていない。今しがた吹き飛ばした敵の所在などそっちのけで、彼は横で呆然とへたり込んでいるハウルを見ていた。


「……え……?」


 ハウルの口から困惑の声が漏れる。


 てっきり糾弾の罵声が来ると思っていた。ともすれば復讐の制裁が下されても当然だと、そう、彼の手で殺されることも覚悟していた。


 だけど、その気配は一向に無い。今のシグマは、ハウル以上に呆然とした表情をしていた。


 その思考も肢体も、容赦なく激痛で支配されているにも拘らず。


 それでもシグマがその痛みを堪える表情すら見せないのには理由がある。


 着ていた黒のジャケットないしミニパンツはズタズタに切り裂かれ、露出した白い肌の上には生々しい血を垂らす傷痕がいくつも刻まれている、ボロボロになったハウルの姿。それを見た衝撃が、全ての感情を空白にしてしまった。


 あれだけ守りたいと、そう願ったはずなのに。


 いつの間にか、こんなにも壊されていて。


「……ごめん」


 間に合えなかった不甲斐ない自分を糾弾し、シグマは悲痛の表情で静かに謝罪した。


 突然の謝罪の意図が解らず、ハウルの困惑はさらに加速する。だが、彼はその一言でハウルとの会話を終わらせ、再び視線を正面に戻しヅィーヴェンの方を向かい見る。


 彼はハウルを傷つけた元凶だ。彼のせいで、彼女はこんなにもボロボロになってしまった。


 ―――ぜったいに赦さないッ‼


「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――――――‼」


 身体を弓のように反らし、怒りの咆哮を森全体へ響かせるシグマ。


 すでに激痛は元に戻っている。またも思考の処理能力はそれらの処理に大幅にあてがわれ、判断能力は無いに等しいレベルまで低下するだろう。


 だが、それでもヅィーヴェンの姿だけははっきりと映す。理屈など知ったことか、ただ討伐しなければならない相手だから捉え続ける、それだけだ。


「―――フ―――ッ‼」


 全触腕を地面に叩きつけ、敵を屠るために前へ飛び出す。


「舐めるなァ!」


 シグマの到達よりも迅く紡がれるヅィーヴェンの魔術。先ほどハウルの身体を傷物にした黒色の槍が一秒足らずで十数本展開される。その異常な速度に、ハウルは思わず息を呑んだ。


 そして間を置かずに放たれる黒槍の驟雨。今度の狙いに甘さは無い、それら全てがシグマの急所を射抜けるよう緻密に計算されている。避けようにも十重二十重の面を敷く弾幕は逃げ場など残さない。


 そのため驟雨は容赦なくシグマへ浴びせ掛かり直撃した。さらに着弾した槍は大きく膨れ上がり、周囲もろとも吹き飛ばす。立て続けに起こる爆発が衝撃波を生み、砂塵の煙幕を上げた。


「シグマっ!」


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、押し寄せてきた砂塵に目を細めながらも必死に彼の名を呼んだ。


 同時にヅィーヴェンも彼女の悲痛な声を聞いて、薄く嗤う。


 その直後だった。


「――――――ッ‼」


 砂塵の膜を突き破り、シグマが飛び出してきた。


「なっ……⁉」


 現れた彼の姿に、ヅィーヴェンは思わず目を剥く。


 いくつもの触腕がシグマの前方で乱雑に重なり、即席の防壁(かべ)を編んでいた。


(防いだというのですか、あの一瞬で⁉)


 驚愕の事実に歯噛みしながらも、ヅィーヴェンは必死に距離を取ろうと後ろへ跳び―――背後に木があることを忘れていた。


「しま……ッ⁉」


 一瞬だけ背後に気を取られた。その僅かな時間で、シグマが彼のもとに到達するのには十分過ぎた。


 そして始まる、シグマの攻撃。


「オオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッッ‼」


 頭上へ掲げられた拳。その腕を沿うように三本の触腕も天へと伸長し、シグマはそれを渾身の力で振り下ろす。しなりながら振り下ろされる触腕はさながら鞭のように、ヅィーヴェンの防壁へ勢いよく叩きつけられた。


 あまりの衝撃に、ヅィーヴェンの防壁が軋み音を上げる。防壁ごと押し潰さんと眼前まで迫り来た触腕に、彼は冷や汗を噴き出した。


 だが、結局は届くことなく、防壁も割られることはなかった。

 その事実に安堵する―――暇などシグマは与えない。


 次撃、三撃、四撃、五撃―――何度も何度も何度も何度も、その防壁が砕け散るまで、シグマは両の腕とそれに纏わりつく触腕を振り下ろし続ける―――!


「う、ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお⁉」


 度重なる衝撃に、たまらずヅィーヴェンは悲鳴を上げる。


 仰向けの体勢で地面からわずかに浮いている彼は、未だ地面に衝突するという事態には陥っていない。だが、すでに背後の防壁は接地しており、シグマの触腕が叩きつけられる度に地面に大きな亀裂を奔らせ、今では防壁を含めた彼の四分の一は地面に埋まっているという状態である。


 それでも乱雑に振るわれる触腕の暴力は終わらない。


 終わらないからこそ、気がついた。


「……ハ、ハハ!」


 触腕が叩きつけられた回数が五十を超えた頃、ヅィーヴェンはその事実を理解し思わず笑みを漏らす。


 というのも、


「ハハハハハ! なるほど、そういうことですね! 貴方の力では、私の防壁を破るには至らない!」


 そう。これまで幾度も触腕の殴打が重ねられているにも拘らず、ヅィーヴェンの防壁には傷すら付いていない。それだけ彼の防壁は固く堅牢なのだ。


 魔術師において防御結界の硬さはその者が持つ魔力量に比例する。であれば、ここまでの防壁の硬さを永く維持できる彼の魔力量は相当なものだろう。


 そして、その蓄えられた魔力は決して防御のためだけに使われるものではない。


「いいでしょう、見せてあげます。私の得意とする魔術の象徴は『影』、その威力、その身で篤と味わいなさい‼」


 触腕の連撃、その合間の隙に手を伸ばす。


 シグマがあまりにも接近していたため、その掌を届かせることは容易だった。


 そしてヅィーヴェンの掌が、シグマの腹に押し当てられる。


 処刑執行の用意は整った。そしてヅィーヴェンは処刑執行を告げる言霊を紡ぐ。


「―――『陽光を拒み、(チニヴォーイ)闇夜を讃えよ(・ミール)』」


 先ほどハウルとの戦闘でも紡いだその魔術名。それを唱えたことで彼の掌から魔術が起動する。


 その刹那、ふとした疑問がヅィーヴェンの脳裏を過ぎった。


 ―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 その疑問が深く浸透するより速く、


 風孔。


 ヅィーヴェンの掌からあふれ出た影がシグマの脇腹を突き破り、そのまま彼を持ち上げ吹き飛ばす。


「シグマぁ!」


 宙へ巻き上げられたシグマを目にして、ハウルが必死の声で彼の名を叫ぶ。


 だが、シグマにはもう応えられないだろう。なにせ今回穿たれた風孔は、前回のと比べて遥かに大きい。かろうじて破壊を免れた細い糸のような肉が上半身と下半身を繋ぎ止めている有り様だ。


 目に見えて解る完全な致命傷。こうなってしまえばもう人は生きていけない。


 だが、


「……はい?」


 起きた異変に、ヅィーヴェンは間抜けな声を上げる。


 それはシグマに開いた風孔、その断面から鮮血を噴き出す傷痕から。


 瞬間、鮮血の代わりに白い物体が溢れ出て、その孔を渦を巻くように埋め塞いだ。


 その白い物質の正体など言わずもがな。まさしくシグマから生え出ている触腕である。


 やがて触腕は周囲の肉と同化するように、その色を肌色に染め上げた。もはや傷痕は痕跡すら残さず、自然体のように完治する。


「再生、ですと……⁉」


 考えてみればおかしい箇所はいくつもあった。


 例えば彼の脇腹。あれは出逢った当初に吹き飛ばしておいたはずだが、それでも再び現れた時には塞がっていた。


 例えば先程の驟雨の一撃。粉塵を突破してきたシグマが即席の防壁を作っていたことから勘違いしそうになったが、そもそもあれは直撃した後に作られたものであるのは明白だ。なぜならヅィーヴェンもハウルも、直撃した瞬間を目の当たりにしている。目撃者が一人なら位置関係の見間違いということもあり得るが、今回はそれぞれ別位置からの目撃があるため見間違いはありえない。


 つまりは二つの事例とも、シグマは先ほど見せた脅威の再生力をて切り抜けたのだ。


 そしてようやく彼が地面に落下する。だが倒伏していたのはほんの僅か、すぐに足を起点にして仰け反り起き、何事もなかったかのように血走った双眸をヅィーヴェンへ向ける。


「ウウウウウゥゥゥゥゥルルルルルルルルルルルルルル…………‼」


 獣のような唸り声がむき出しの歯の隙間から洩れ響く。


 その、本当に人の在り方を棄ててしまったような凄惨な姿に、思わずヅィーヴェンは生唾を呑み込んだ。


(いえ、恐れることはありません。たとえどれほどの人外に変貌したところで、私の結界が砕けないのは自明の理。ここはどうにか、あの怪物を屠り倒しうる一撃の模索に徹底しなければ―――)


 ヅィーヴェンは一人、敵の分析に専念し、その弱点を炙り出すため思案する。そうできるのはきっと、彼が自分の結界を破られることはないと理解しているからだろう。


 だが、それは一種の慢心である。そうやって相手は一つのことしか成し得ないと高を括れば、もしも予想外の行動を繰り出された際に対処することが難しくなる。


『どうした主、何を手間取っている? そう叩くことに執着するな、鞭で岩を砕くのは容易ではないぞ?』


 シグマの脳内で、激痛の中でもその清廉さを失わないシャルベリアの愉快そうな声が語り掛けてくる。


『一つの形に拘るな。元より我が力は明確なる形を持たず、それ故に無限自在に変化する。であればわかるだろう? 即ち―――砕けぬのなら貫き穿て‼』


 その言葉が答えになった。


 そしてシグマは再び咆哮を高らかに響かせ、再度ヅィーヴェンに向かって突撃する。


 音速で疾駆した彼の突撃は、瞬く間に結界へ着弾した。


 その衝撃にヅィーヴェンは苦悶の表情を浮かべる。


「ぐ……っ! ですが、それでも私の結界を破るには至りません……‼」


 確信を持っているからこその、自信に満ちたその呟き。


 だが次の瞬間、彼は驚愕で目を剥くことになる。


 ヅィーヴェンの結界に張り付いたまま、再び右腕を後方へ振り抜くシグマ。そしてその腕に沿うように、またも三本の触腕が這い伝い伸びていく。


 それだけなら先程の再現だ。しかし、今回は明確に異なる点がある。


 シグマの伸ばした腕の二倍くらいまで伸長した三本の触腕、それらが互いに絡みつくように束ねられていく。


 その先端があまりに鋭く尖っていて。ヅィーヴェンはようやくその意図に気がついた。


 形状変化。先ほどハウルの抗議で見せたものと同じこと。


「まさか―――⁉」


 もう遅い。


 シグマは伸ばした腕の肘を曲げ、その即席で作り上げた槍の切先をヅィーヴェンへ躊躇なく向けた。そして、


「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ‼‼‼」



 放たれた槍の刺突が、結界ごとヅィーヴェンを貫いた。



「ベ、オ……ッ⁉」


 高温に熱せられた釘を刺されたみたいだった。貫かれた位置から痛みという熱が徐々に各所に伝播していく感覚。


 思考が停滞しているからか、伝播の速度も停滞している。ゆっくりと、確実に細胞一つ一つから壊死させていくように。


 だが思考の停滞は一瞬だ。状況を把握したならば、すぐに情報処理のため動き出す。


 そして、いたみが、ばくはつした。


「ギォォォォォォォォォォォォォァァァァァァァァァァァァァ―――――ッッッ⁉」


 徐々に広がっていた激痛が、突如として全身へ一気に伝播する。耐えがたいその苦痛に、ヅィーヴェンは苦悶の絶叫を上げた。


 眼下には今も自分を貫いている、場違いなほどの純白な触腕の槍。意趣返しのつもりか、その穂先は深々と彼の脇腹を突き刺していた。


 これはまずい、非常にまずい。ヅィーヴェンの本能が絶え間なく危険信号(けいこく)を放ち続ける。


 これはすぐさま、この戦闘を中断してでも治癒に専念しなければ命が危うい。そう悟った、


 束の間、


「―――ッ、ハァ!」


 突然、シグマが己の腕を円を描くように振り回す。であれば、彼の腕に沿って伸びた触腕やそれに貫かれたヅィーヴェンも同じように。


 三周。その回数に差し掛かった頃、ヅィーヴェンの身体が遠心力によって触腕から解放される。だが、遠心力によって加わったエネルギーはそのまま彼を吹き飛ばし、やがて勢いよく木の幹に激突させた。


「ガは……っ!」


 衝突によって、肺の中の空気を全て吐き出す。もはや意識も絶え絶えで、今のヅィーヴェンはとても戦闘を続行できる状態ではなかった。


 だが、そうであってもシグマはそれを考慮しない。否、考慮する思考など存在しない。


 自身の操る触腕から逃げたヅィーヴェンを完全に屠るために、シグマは獣の如く牙をむき出して襲いかかる―――!


「っ、グ……『強制転移(ミータスタス)』―――」


 シグマが辿りつくその寸前、ヅィーヴェンは屈辱を噛みしめるような顔でその言葉を口にする。


 瞬間、彼の姿がノイズのように揺らぎ、そのまま虚空へ溶けるように消え去った。その結果、シグマの触腕は何もない場所を突き刺すことになる。


 あらかじめ定めた位置を設定し、術式を唱えることでその位置へ転移できるその魔術は、用意周到なヅィーヴェンが念のためと作っておいたものだ。だが、あくまでもそれは保険であって、使うことはまずないだろうと信じていた。それを使わざるを得ない状況になってしまったのは、彼にとってなによりの屈辱であったことだろう。


 辺りに静寂が流れる。もうシグマたちに対する敵因子はどこにもいない。ヅィーヴェンを退けたことによって、彼は勝利を手に入れたのだ。


 シグマはその事実を喜び安堵する―――だが、それを痛みは許さない。


「ァぐ、ギ、があああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 その場に蹲るように膝を付き、苦悶の絶叫を吼える。


 戦闘が終わったということは、この激痛と真正面から向き合わなければならないということだ。


「シ、シグマ!」


 今までの戦闘の凄惨さに呆然としていたハウルだったが、彼が突然苦しみだしたことで我に返り、慌てて駆け寄ろうとする。


 だが、その足元を鋭い一閃が紙一重で通過した。


「わっ⁉」


 見れば、シグマから生える触腕が、彼の絶叫で踊るように暴走していた。見境なく様々なものを破壊していく触腕は、まるで更なる戦闘を望んでいるかのように。


 というのも。


『ハハハハハハハハハハハハ‼ 悦いぞ、今のは中々に味があった! やはり貴様は見所がある!

 さあ主、何を立ち止まっている! 次は何だ。次は何を見せてくれるのだ⁉ 今度こそ我を感服させるに値するものを見せてくれ‼』


 シャルベリアはすっかり興奮しきった様子で、更なる戦闘を望んでいた。


「やめろっ、もうやめろ……! たたかいは終ったんだ! もう敵はいない、これ以上はたたかえないぃ……!」


『いいや、まだだ! これではまだ貴様を見抜くには足りない、まだ我は魅せられていない! だから戦え! 敵がいないのなら探し出せ、そして再び闘争を! 主が本当に相応しいかどうか、その手で証明してみせろ!』


 シャルベリアが昂るごとに、触腕の苛烈さは増していく。しかしシグマはそれを制御することはできず、ただ破壊の中心で苦しみ続けるしかない。


 嗚呼、また幻覚。また世界に亀裂が入り砕けていく。世界か視界か、どちらが壊れているのかはシグマにはわからない。


 この触腕は、この激痛は、もう消すことはできないのか。


 不安が絶望へと変わっていき、シグマの心を破壊していく。


 その時、


「シグマ! 剣を、儀式剣を鞘に戻して‼」


 ハウルの声が―――今までは激痛でほとんど聞き取れなかったのに―――はっきりと聴こえた。


「っ、わかった……!」


 聞き取れたことに疑問を呈している余裕は無い。シグマは息も絶え絶えで返事を返し、全身全霊で懐に仕舞っていた剣の鞘を取り出す。


 それだけで腕の筋肉繊維がズタズタと引き裂かれた。おかげで腕が異常に震えて、剣の切先を鞘の入口に上手く定められない。


 そして何度か狙いを外した後、ようやく切先が鞘の淵に引っかかり、それを確認したシグマはそのまま短剣を押し込んだ。


『……何だ、もう終わりか』


 脳裏でシャルベリアが物足りなそうに呟いた。


 ―――途端、顕現していた触腕の全てが弾けるように消失し、同時に激痛も嘘のように霧散した。


「……ぁ―――」


 あれだけ自身に莫大な影響を与えていたものがいきなり二つも消えたことで、強大な喪失感を得たシグマの身体は糸が切れたようにその場に倒れ伏す。


『いや、急いては事を仕損じるか。永らく待ち望んだ我が担い手、一時の感情で使い潰してはあまりに惜しい』


 剣を鞘に収めて、能力と痛みも消え去ったというのに、なぜかシャルベリアの声だけは未だに脳の中で聞こえていた。


『一先ずは御苦労だ、我が主。では一度眠るがいい、夢現の境界で待っているぞ』


 急に落ち着きを取り戻した彼女の声に、シグマは内心面食らう。


 それも束の間、ゆっくりと自分の視界が黒く狭まっていることに気がついた。どうも彼の身体は今にも眠ろうとしているらしい。


(そうだ、ハウルは……)


 ふと、先ほど聞こえた声の主が脳裏を過ぎる。


 ボロボロだった。


 華奢な身体は無残に切り裂かれ、自分を映していた眼は死にかけていた。


 共に過ごした時間の中で、たくさんの感情を見せて元気に動き回っていたのに。


 そんな彼女の抜け殻のような姿を見て、耐えられない激痛が一瞬とはいえ空白に感じてしまうほどの衝撃を受けた。


 シグマはハウルを助けるために戦ったはずだ。そしてその戦いには勝利したはずだ。


 でも、彼が戦い始めるその前から、彼女は傷つけられ壊されかけていた。


 果たしてそれは守れたというのだろうか。


 あるいは最悪、シグマがこうして倒れ伏している近くで、彼女もまた同じように地に伏して―――


 そうなればもう、シグマは自分の存在価値を一片も見出せなくなる。


「……は、うる……」


 彼女の名前を呼ぼうとしたが、上手く言葉が紡げない。


 そういえば体から意識を切り離してもらっていたっけと、シグマは朧げな思考で思い出す。


 ああ、だからだろう。閉じていく視界を止めたいのに、一向に抗えない。


 まだハウルの無事を確認していないのに。まだ、彼女を守り抜けたかわからないのに。


 ―――ここで、まだ、目を閉じるわけには―――


 そして足掻いたにも拘らずその瞼が下りる寸前、シグマは突然自身の身体が抱き起される感覚を感じた。


 どうやら彼の身体を動かした人物は、彼を仰向けにしようとしているらしい。


 ぐるりと反転する視界。もう九割が閉じられた瞼の隙間に、その姿が映り込む。


 そして意識が途絶える寸前、シグマは満足そうに微笑んだ。



 ―――よかった、君を守れたんだ。



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