表裏逆転
森の狩人―――ウォルコル・ヴァナルガンド・ロキニクスにとって、自身の『勘』とは己の命を預けるに値するものだ。
産まれてから今日に至るまでの時間を森で過ごしてきた彼女のそれは、もはや野生の獣が持つ物よりも遥かに高い性能を誇り、時には予知にすら近い結果を導き出すことも多々ある。森に入ってきたシグマらを、遠く離れた位置から見もせずに察知したのがそれだ。
あるは魔術ですら至ることのできない領域。その場所に、ウォルコルは研ぎ澄まされた勘だけで到達している。
とはいえ、彼女の勘とは、完全な予知能力のように何の前触れもなく事象を察知するのではなく、その事象を察知するためにいくつかの要素を必要とする。
それは、音や臭い、表情や反応など―――有り体に言えば、存在が発する気配だ。
普通の人間ならあることすら把握できない微小レベルのそれらを、ウォルコルの勘は敏感に検知する。
そしてそれらを分析し、遠く離れた位置から侵入者を察知したり、敵の放つ攻撃を事前に検知することができるのだ。
加えて、彼女のずば抜けた身体能力という要素も合わされば、もはや誰にも止められることは無いだろう。
それは初めから備わっていた機能ではなく、この森で生きている内に身に付いたもの。
この森という蟲毒の中で生まれた、脅威の生物。
彼女が放つ速度には、いくら王位継承者といえども追いつけない。
だから、
(次、左斜め上から三本、その隙間を縫って避けると同時に突きが来るから、ナイフを使って受け流す)
ウォルコルは未だ五体無傷の状態で、シグマを相手に圧倒する。
(ここまでブラフ。ここで本命の一本が背後から私を絡め取る気だが、それも伏せて回避し擦れ違いざまにナイフで切り落とす)
命のやり取りをしているこの場においても、ウォルコルは冷静な思考と正確な行動で状況に適応していく。
(本命を潰されたことで隙。その間に接近し、一気に叩く!)
恐れは無い、怯えは無い。
必要なことは、自身の勘が全て教えてくれる。要素さえ埋まれば、自身の身体能力で避けられないものは無い。
(……ここまで来て、それでも力を振り回すだけ、か。どうもあれは力だけが取り柄の脳筋らしいな)
接近の最中、ウォルコルはこの戦いにおいて一向に進歩しないシグマの戦いぶりに呆れ果てる。
一度やってダメだったものを、何度も何度も繰り返し。たしかに当たれば脅威の威力だろうが、当たらない以上は如何なる成果も発揮できない。
見切られたのなら、すぐにそのやり方は捨てて、次の方法へ切り替える。それが野生の狂気の中で生き残るために必要とされる技術である。
それを知らない者は、あっという間に強者に狩られる。
ならば今のシグマは、ウォルコルにとってこの上なく狩りやすい獲物だ。
その特性が不死に近しいものだとしても、限界に至るまで殺し続ければいいだけ。それが多くの数を必要とするとしても、こうも一方的に攻撃を当てられるのであればそう難しいことではないだろう。
現に、今もこうしてウォルコルは、シグマの急所を捉えて攻撃を放とうとしている。
すでに彼の触腕の半数以上は削り取った後。残る本数も今しがた彼女を襲おうとして失敗し、全て伸び切っている。
翼を折られた鳥。牙を砕かれた狼。毛皮を剥ぎ取られた猪。
目の前にあるのは、そうしたものと同質の、一切の脅威を感じられないただの獲物だ。
ならばウォルコルは―――狩人は、容易く仕留められる。
たとえこの一撃が失敗しようが、また別の方法で挑戦すればいいだけのこと。
己の勘も、〝今こそが好機〟と変わらない答えを告げている。
それさえあれば、彼女にとっては十分過ぎた。
そしてウォルコルは手に持つナイフを握りしめ、シグマの首元目掛けて神速の一撃を繰り出す―――その時だった。
「シャルベリアッ!」
直前で耳朶に滑り込んできた、シグマの呟き。
声は変わらず、音源も変わらず、何より己の勘すらも彼の言葉であることは疑っていない。
とどのつまり、シグマに何か劇的な変化が起こったわけではないのだ。
だが、次の瞬間。
―――彼の腹を喰い破って生まれた触腕が、容赦なくウォルコルに襲いかかる!
それ自体は、これまでの奇襲と何ら変わらないもの。であれば、彼女にとっても避けることは容易い、そのはずだった。
だが、今回の一撃に限っては、彼女は避ける素振りすら見せず、もろに直撃して吹き飛ばされ、そのまま背後にあった木の幹に勢いよく叩きつけられる。
「ガ……ッ⁉」
背中から伝わる凄まじい衝撃に、肺の空気は一気に零へ。瞬間的な酸素欠乏により意識が刈り取られそうになる。
しかしウォルコルは、寸でのところで大きく息を吸い、かろうじて意識を保つことに成功した。
「フ、フー……! ……な、にが……!」
揺れる視界、かき乱される思考の中で、それでも彼女は、たった今起こった不可解な現象に疑問を呈さずにはいられない。
たしかに凄まじい速度、そして見事なまでの奇襲だった。並大抵の人間であれば、絶対に避けることは不可能だと言えるほどの。
だが、そのカテゴリに彼女は存在しない。極限の精度を誇る勘はあらゆる攻撃を事前に感知し、同じく極限の精度を誇る身体能力であらゆる攻撃を回避することを可能とする。
実際、これまでも奇襲と呼べるような攻撃は何度も受けていながら、全て無傷で回避してきた彼女だ。今さら見えない一撃程度に苦心するはずもない。
だが、たった今受けた攻撃に対して、己の勘はまったくの無反応。
その結果がこれだ。一撃が命取りになるとされた攻撃を受けてしまい、今にも四肢から力が抜けてしまいそうになっている。
「化け物め……いったい、何をした……!」
息も絶え絶えに、ウォルコルはシグマを睨みつける。
その瞳の中にあるのは、未知の攻撃を受けた戸惑いや強力な攻撃を受けてしまったことに対する恐怖ではなく。
自身の矜持を傷物にされた、その一点に対する憎悪が宿っていた。
◇◇◇◇◇
時は、ほんの数分ほど遡る。
立て続けに襲来する狩人の攻撃に翻弄されている最中、シグマは意識の三割のみを迎撃に集中させた。
そして残りの七割は自身の内側―――今も愉快そうに見守っているシャルベリアと話をするために容量を割く。
(シャルベリア、ちょっといい?)
『ん? どうした? よもや前言を撤回して我が力の本懐を頼る気になったか』
(……言ったよね、それはまだ要らないって。そうじゃなくて、君自身に協力してほしいんだ)
『ほう、それはいったい、どのようにしてだ?』
(僕の身体の支配権を、一時的に君へ譲る)
さも当然のように、シグマはそう言った。
(ただし、触腕の支配権は僕に残したままにしておいてくれ。……できるかい?)
『その程度なら苦も無く行える。が、未だに貴様の意図が読めん。主はこの戦いにおいて、いったい何を見出したのだ?』
(彼女の察知能力を超える方法)
長い戦いでようやく得ることのできた糸口、それをシグマはシャルベリアに開示する。
(おそらく彼女は、僕の攻撃の意志に反応して、攻撃を見切っているんだと思う)
きっかけとなったのは、初めて狩人が驚愕の相を見せた、あの時だ。
あの瞬間、シグマは狩人の攻撃を往なそうとはせず、内から聞こえるシャルベリアの誘いを振り払おうとして、結果的に前者の攻撃を弾いただけ。
もしもあの時、彼が狩人の攻撃をどうこうするつもりでいたのなら、彼女は事前にそれを察知して何かしらの対策を取っていたはずだ。
それができなかったのは、あの瞬間、偶然とはいえシグマが狩人の予測を超えてしまったから。
ならば必然、この後の戦いにおいてそれは最適解となりうる。
―――即ち、自分の意図しない攻撃を放ち続ければいい。
言うは易く行うは難しを地で行くようなこの条件。本来人間が意図していない行動は反射と呼ばれる反応が基となるが、これを意図して繰り出すというのは至難の業である。そもそもにおいて、意図してしまったらそれはもう反射ではなくなるのだ。
(だから僕は無理をしてそれをやろうとは思っていない。その代わりとして、僕が意図しない攻撃を放っていると、見せかける)
『ああ、なるほど。ようやく主の腹が読めた。貴様、この我を仮面として使うつもりだな?』
(そう、要は意図的に彼女の感知能力を狂わせる)
つまりシグマの身体をシャルベリアが操ることによって、狩人はシャルベリアの意志を読み取ろうとする。だが、攻撃の主体となる触腕に関してのみシグマが操れば、狩人の感知の対象が触腕に向かない限り、避けることは叶わないと、そうシグマは踏んだのだ。
この方法は行ってしまえば単純なもの。おそらく狩人の適応能力が十全に発揮されれば、瞬く間に見破られて通用しなくなるだろう。
だから求めるものは、短期決戦。
(……一時的に君を矢面に立たせてしまうことにはなるけれど、その間は何が何でも君を守る。だから、協力してほしい)
その切実な要請を受けて、ようやくシャルベリアは満たされたらしい。
ようやくいつも通りの大笑いと共に、大喝采を放ちだす。
『ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼ ああいいだろう、喜んで協力してやるとも! 突拍子もないその方法、予想ができなかったために、どうなるか見当もつかない! 故にこそ面白い!』
(よかった、それじゃあ僕の身体を頼むよ。どんな無茶な動きだろうと、死なない限りは大丈夫だから)
かくしてシグマの主導権はシャルベリアのもとへ。
一時的とはいえ、数千年ぶりに儀式剣の外へ彼女は顕現する。
その昂る感情を表すかのように、彼女の口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。
『しかし、あれだな』
(どうしたの?)
『主は、我を守ると恥ずかしげもなくそう言ったが、この方法を取るのであれば、貴様が守るのは貴様自身の身体ではないのか?』
(え、今さらそんなところを指摘するの⁉)