甘美なる誘惑=破滅への誘い
「悪いけど、この意地は何が何でも押し通らせてもらう」
シグマの宣言に、狩人は険しい表情を崩さない。
「……いい気になるな。この程度で優位性が覆されたと思われるのは心外だ」
そして彼の言葉を否定するかのように、狩人は一歩を踏み出す。彼女が君臨していた森の戦場から、新たに出来上がった空白地の戦場へ移行するために。
あえて自身のアドバンテージを棄てる。その行いの中に、されど傲りも、油断も、隙も無い。
あるのはただ、目の前の獲物を狩り尽くすという絶対の覚悟だけ。
それをわかっているからこそ、シグマは警戒を解こうとはせず、身構える。
彼とて場が多少有利になったからと油断するつもりはない。それをするには、彼女の実力は未だ不透明過ぎる。
双方、新たな戦場に移行して尚、未だ自身の勝利を過信せず、不確かな疑念と明確な警戒が存在しているまま。
第二ラウンドは、開始した。
「ッ!」
先ほどと異なり、今度の先手はシグマからだった。
自身の持つ触腕、その内四本を振り回し、狩人へ向けて叩きつける。
闇雲に振り回すのではなく、あらゆる方向から逃げ道を塞ぐよう、計算されて繰り出された一撃。これを避けることは、そう容易いことではない。
だが、
「舐めるなァ!」
繰り出された触腕に対して、狩人の回避行動はあまりに迅速かつ精密だった。具体的には、音速の速度で迫る触腕の動きを一瞬で把握し、その攻撃の中に存在する僅かな隙間に対して、自身の身体を滑り込ませるようにして回避したのだ。
結果として、シグマの一撃で得られたものは空を切る感触だけ。その規格外染みた身体能力にたまらず歯噛みする。
その間に、狩人は身を翻して彼の振り切った触腕に飛び乗り、そのままその上を駆け抜ける―――!
「くっ!」
その接近を目の当たりにして、シグマの本能は反射的に狩人が伝っている触腕を振り上げた。
対して狩人は波打つ地面にしがみつくような真似はせず、むしろ真下からの力に対して身を任せて、浮かぶように空中へ。
それを、シグマは好機と捉えた。
「さすがに空中なら!」
全ての触腕を振り回して、彼女へ差し向ける。本数が増えただけでなく、先ほどの反省を踏まえ隙間はなるべく作らない配置で繰り出す攻撃。たとえ彼女が人外染みた身体能力を有していようが、この濁流のような攻撃から逃れる術は無い。
―――そう思ったのが間違いだったと、一秒後に後悔する。
「甘いッ!」
瞬間、ありえないものを見た。
複数ある触腕の内、最も早く狩人へ到達した触腕。だが彼女はそれの側面に蹴りを叩き込み、その反作用で空中での位置を動かし、体勢を整えたのだ。
そのような行動、簡単に行えるものではない。音速で駆け抜けるレーシングカーを踏み台にして跳躍するようなものだ。並の人間なら、まず足が触れた瞬間に全身を持っていかれるに決っている。
そして、その後に次々と降りかかる触腕の渦を難なく跳ね回りながら、絶対必中と思われた攻撃の数々を回避していった。
「そんな……ッ⁉」
攻撃を止めないようにしながらも、目の前で起こるありえない光景にシグマは唖然とするしかない。
その驚愕は、彼にとっての隙に繋がった。
「シッ!」
それを『勘』で察知した狩人は、回避行動を取る中でシグマに向けてナイフを投擲。彼にとっては一瞬の隙を突かれた形だ、当然避けられるはずもない。そのナイフは彼の左目を突き刺さる。
「うぐっ、この……!」
痛みを感じることは無いにしても、着弾の衝撃でノックバックするシグマ。崩した体勢を整えようとする間に、遂に狩人は彼の懐にまで接近する。
「ハァ!」
狩人の繰り出した初撃は、渾身の膂力を籠めた右拳による一撃。それはシグマの鳩尾を貫き、およそ人体から発することは無いような音が響き渡る。
凄まじい衝撃にシグマの息が止まる、が、狩人の攻撃はそこで止まらない。再びノックバックした彼を追うようにして狩人は踏み込み、更なる左ストレートを同じ個所へ向けて打ち込んだ。
湧き上がる吐き気を必死に堪えながら、シグマは自身の腹に刺さる狩人の腕を掴もうと手を伸ばすも、狩人は空き手でそれを防ぎ、その間に今度は脇腹へ向けて鋭い蹴りを叩き込む。
「グ、ハ……ッ⁉」
冗談抜きでくの字に折れ曲がるシグマの身体。だがこのまま彼女の蹴りを振り抜かせてはならないと、歯を食い縛ってその場に踏みとどまる。
―――これはもう、捕まえるとか妥協している場合じゃない!
シグマは拳を握る。そして儀式剣によって向上した身体能力を存分に籠めた一撃を彼女へ見舞おうとした。
だがその一撃を、狩人は上半身を後ろに反らすことによって回避。そのまま地面に手を付いて両足を跳ね上げる。結果として、後転による運動エネルギーを重ねた蹴りをシグマの顎下に炸裂させた。
「吼えた割にその程度かッ!」
狩人の追撃は終らない。
シグマの繰り出す攻撃の全てを往なし、交わし、受け流し。そして自分の繰り出す鮮やかな体術は全て直撃させ、彼の体力を削り取っていく。
一騎当千を誇る王位継承者相手にこの圧倒。間違いなく狩人の実力はルカに匹敵するだろう。
「っ、これじゃあ……!」
埒が明かない。
未だ反撃の兆しすら見えない状況にシグマが歯噛みした、その時だった。
『―――力が、欲しいか?』
底冷えするようなシャルベリアの声が、内側から響いた。
その声がもたらす形容しがたい恐怖によって、シグマの視界がスローモーションのように停滞する。
されど、彼女は状況を顧みない。
『存外に苦戦していると見える。いくら貴様が死なぬとはいえ、いつまでも進展のない戦いを延々と見せられては興も削がれるというもの。まるであのお転婆娘との戦いを繰り返しているかのようだ』
遅延した時の中で、不思議と彼女の声は変わらずに聞こえた。
それがマズい。いくら反論しようとも、口を動かそうとする頃には、彼女の言葉は次に移ってしまっている。
『だが、あの時以上に我は主を気に入っている。愛している。好いた相手に尽くそうというのは、当然の性というものだ』
狩人の次撃―――こちらの顔面を狙おうとする拳が、ゆっくりと迫ってくる。
しかし、もはやそれに脅威など感じない。もっと恐ろしいものが、シグマの内側で歌っている。
『貴様が望むのであれば、望む力をくれてやろう。もっとも、多少なりとも代償は支払ってもらうがな』
見えていなくても、彼女が笑っているのが分かった。あのいつものけたたまし喝采のようなものではなく、もっと残忍で、残酷な、そんな笑顔を。
まるで甘い誘惑と共に破滅へ誘おうとする悪魔のように。
『さあ、主は何を望む。状況を打破する力か。全てを屈服させる力か。それともあらゆるものを超越する力か! 答えるがいい!』
きっと、それさえあれば狩人の戦闘も圧勝することができる。その確信は確かにあった。
その上でシグマは、
「ッ⁉」
全身を纏う寒気を振り払うように、腕を横に薙ぐ。
それが偶然とはいえ、シグマの顔を捉えようとしていた狩人の拳を弾いた。この時、初めて自身の一撃が防がれたことに、彼女の表情が驚愕に染まる。
けれど彼はそれに手ごたえを感じることもなく、必死に叫ぶ。
「……要らない。そんなもの、まだ要らない!」
思わず手を伸ばしかけてしまった、悪魔の誘いへの拒絶を。
そして目の前の狩人がようやく見せた隙らしき隙を逃すまいと、全ての触腕を彼女めがけて叩きつける。
「くっ!」
初めて聞こえた焦燥の声。
されど彼女は相も変わらずの身のこなしで触腕の殺到を避けながら、後方へと飛び退いていき、そのまま森の中へ。
「逃がさない!」
まだ目的は達成していない。まだ問題は解決していない。
シグマは狩人の後を追うため突撃しようとする。たとえそれが、再び彼女のアドバンテージである木々の生い茂る狩場へ潜ることになるのだとしても。
「逃げるものか……!」
だが、その前に狩人の声が聴こえた。
誰に向けたわけでもない。むしろ自分に言い聞かせているかのような物言いだった。
そして次の瞬間、彼女が身に纏う外套を深く被り込んだかと思えば、その姿が闇に溶けるように消失する。
「っ、さっきの……!」
おそらくはあの外套こそが、先ほどから狩人が用いる不可解な現象を引き起こす基盤。魔術兵装に他ならない。
再び見えなくなる目標。その姿を捉えるための手段を模索しようと、足を止めかけるシグマ。
瞬間、その足元に彼のものではない影が、突如として出現する。
「上か!」
見上げようとした矢先、狩人が斬撃と共に降ってきた。
「私の狩りは、獲物を仕留めるまで終わらない!」
彼女の誇る身体能力で振るわれた短刀が、落下によるエネルギーを加えてシグマの肩口へ直撃。そのまま刃は彼の肉を切り裂いていき、遂には股下までの両断に成功する。
普通ならこれでシグマの身体は両半身が喧嘩別れ。その境目は二度と戻ることは無く、当然のことながら絶命に至るはずだ。
だが、離れ離れになる両半身の切れ目から、触腕と同じ質感を持った物質が放出。その離別を許さぬとでも言うように繋ぎ止め、そして元の形へ修復する。
「これでも治すか……!」
先ほどから見せられる埒外の治癒現象。これまでなんども〝今度こそ〟の期待を裏切られた狩人は、ようやく悪態らしき言葉を吐いた。
その間に再生を終えたシグマは、再び捉えた彼女めがけて一閃を繰り出す。
今度の一撃は手数ではなく速度を重視したもの。先の攻撃よりなお速度を増した一本の触腕が放たれるも、やはり狩人は紙一重の位置で回避する。
「これを避けるか……!」
先ほどから見せられる埒外の身体能力。これまで絶対必中とも言うべき攻撃を幾度と躱されたシグマは、この戦いの終わりが見えないことに対して焦りを募らせる。
片やあらゆる損傷を修復する者。
片やあらゆる攻撃を回避する者。
両者の戦いは、互いの攻撃が届かないがために、当初の予定よりも遥かに長丁場となっている。
だが、双方ともに相手の詳細が不明瞭であるから、持久戦は望めない。
「フッ!」
「ハァッ!」
故に、彼らはあらゆる手段を模索する。有効とされる手立てを見つけるため、思いついた手段を片っ端から実行していく。
(考えろ、考えろ! 相手が避けるということは、つまりこちらの一撃は有効であるということ。ならばその一撃を当てるためには、どうしたらいい!)
全身を切り刻まれ、それでもなお触腕を振り回しながら、シグマは必死に思考する。
(ここまでの戦いを思い出せ。何かないか。この戦いを勝利に導くための、その一手に繋がる何かは―――っ!)
その思考を絶つかのように、狩人の凶刃がシグマの顔面に迫る。だがシグマに捉えられるということは、おそらくこの一撃はブラフなのだろう。この一撃を対処した後、死角を突いた攻撃が繰り出されるに違いない。
何度も見てきたからわかる。でも、だからといって対処しなくていいわけじゃない。
ろくな案も思い浮かばず、シグマは迫り来る凶刃を手で弾いた。
―――瞬間、彼の中で爆発的に違和感が産まれた。
その間に、狩人は跳躍し再びシグマの顔面目掛けてしなるような横蹴りを放つ。同じ個所に重ねるような連続の攻撃。
それが息の出来ぬ間に来られようものなら、そう易々と防げるものではない。案の定、一度目を弾くことに精一杯だったシグマは二度目を防げず、その一撃をまともに喰らう。
衝撃で明暗する視界。その僅かな時間で、狩人は彼から生え出でている触腕の内二本の切断に成功する。まずはシグマ本人ではなく彼の武力から削ろうという魂胆らしい。
だが、彼女は無駄に深追いをしようとはせず、切断に成功した瞬間に後方へ飛び退きながら再び外套を纏ってその姿を消失させる。おそらくこれまでのように彼の周囲を巡って新たなる隙を見出そうとしているに違いない。
未だ突破口は見えず、ただひたすらに成されるがまま。この戦いは更なる延長を余儀なくされる。そのはずだった。
けれど、その戦場においてシグマは―――薄く笑っていた。
「……やっとわかった」
小さく呟かれたその言葉。
それは、先ほど彼が感じた違和感の正体を突き止めたものに由来する。
ようやく見えた解決の糸口。
だがそれも、拙い一本の糸のような細さの希望だ。おそらくチャンスはそうないだろう。
少なくともシグマ一人では、とても叶わない。
だから、
「手を貸してくれ、シャルベリア」
『応とも。久方ぶりの現世だ。少々派手に暴れさせてもらうぞ、我が主‼』
これは代償を差し出して力を得る、悪魔の契約などではない。
互いを信じて力を合わせる、仲間同士の協力だ。