第一幕 3
ぐいと首根っこを乱暴に引かれた。弾みで後ろにしりもちをつく。
「ぐぇ!」
「死にたいのか、君は。」
凛としたバリトンボイスが心地よく響く。
黒いスーツをばっちり着こなした、およそ三十代くらいの色男。細身だが筋肉はしっかりついてそうだ。
さらさらと揺れる髪を撫でつけつつ、苦笑を浮かべている。
「まったく。武器も無いのにあんな巨大な敵に向かってくなんて・・・蛮勇かな?」
びくりとして慌てて前髪で目を隠す。
「・・・あんたには、関係ないだろ。失せろ。」
男が眉根を上げる。
「おや、君みたいな可愛い子が話す言葉じゃないなあ。」
目線の高さまで屈むと、人差し指と親指で顎を固定し、自分の高さまで上げた。前髪がさらりと落ちる前に目を細める。
「立派なレディになるまで調教が必要かな?」
多くの女性が熱をあげそうなその言葉と距離だが、少女はぞぞと鳥肌を立てた。
「はっ、離せ!」
ばしりと手を払い落とす。
「はっは! 照れちゃったかな?」
「ふざけんな! いいから――」
どすんと凄まじい轟音がして、巨大昆虫の腕がすぐ隣で振り下ろされた。
「おおー。今のは近かったな。」
「――ちっ。」
走り出そうとしたその腕が再び捕まった。
「おっと。だから危ないよ。」
「離せ! あんたに関係ないって――」
「大アリだよ。私の目の前で人が、しかもこんなとびきり可愛い子が死ぬなんて許されないからね。」
「あんた、いい加減――」
はっとして声が出なくなる。
男の鋭い瞳が、頭上を射抜いていたからだ。
胸ポケットから薄いケータイを取り出す。
「私だ。まだ足止め出来ないのかい?」
『申し訳ありません、もう少々・・・』
「彼から連絡は?」
『・・・あとでシめておきます。』
「いや、それはいいとして・・・まいったな。」
物騒なやり取りから察するに、この男はあの巨大昆虫を止めようというのか?
「おっさん・・・何する気だ?」
「おっ・・・おっ、おっさ・・・!」
衝撃を受けて男がフリーズする。
『ルークス所長? 聞こえておられますか?』
電話の女性の声にすら反応しない。
『所長? ご無事ですかしょちょ――』
ざざ、とノイズが走る。
『所長、聞こえてっか? クロだけどぉ! まだあいつと繋がんないのかよ?』
今度は若い男の声だ。
『もうこっち限界! ターゲット移すよ!』
はっとして男がケータイに耳を当てた。
「あ、すまん、放心してた。」
『おいおいおいぃ! どんだけ余裕なんだよ! こっちゃ命賭けてるっつーの!』
「悪かったって・・・しかし、まだ彼とは誰も連絡が取れて無くてな・・・」
『悠長なこと言ってるとダイアンストリート潰れるぜ。』
「うーん、参ったなぁ・・・」
「ダイアンストリート?」
二人の会話に、思わずアルヴィンは割って入った。
ダイアンストリートと言えば、まさか。
さっきの、小さな小さなレストラン。
あの、おせっかいな店長が一人でやってる店があるところだ。
――また絶対来いよ。
そう言った寂しそうな笑顔がふっと浮かぶ。
「・・・ダメだ。」
『あ? 所長、誰かといんのか? まさか女か!? こんなときに!? あいつじゃねーんだからやめろよふざっけんなよ!』
「待て待て、勘違いだ! きみも早く非難しなさい!」
「ダメだ、あそこにはまだ人がいる!」
『ああん? 女はすっこでんろよ。つーかパンピーがでしゃば――』
「うるせぇ黙ってろ。」
ぱっと男からケータイを奪うと即座に通話終了のボタンを押した。
「ああ! ちょっと君何して――」
「足止めをすればいいのか?」
「・・・は?」
突然のことに男が目を丸める。
「あのでかい昆虫。」
顎で昆虫を差す。
「そりゃそうだが・・・待て待て、君みたいなか弱い娘に出来る訳ないだろ。早く避難してなさい!」
「足止めだけ? それとも殺すのか? 生かすのか?」
飄々とした中にある不思議な威圧感に気圧され、思わず男は口走った。
「そりゃ、殺すが・・・」
「ふうん。わかった。結果はどうなってもいいよな?」
「はっ?」
困惑している男にも目もくれず、少女は耳を澄ませた。
――・・・こちん。
――・・・かちん。
大丈夫、聞こえる。
今なら、出来る。
ごき、と首を鳴らし、頭上を指さした。
「あの近くまで飛んでいけたりするか? 顔のとこ。」
「君何を言って――」
状況を理解していない男の胸倉をつかみ上げ、少女は初めて声を荒げた。
「早くしろっ! 店が潰れんだろっ!」
キッと睨んだ顔から前髪が流れ、瞳が露わになる。
ごく、と男の喉が鳴る。
あまりにも、赤い。
血の色に似た、真紅の瞳。
その瞳孔はまるで爬虫類のように、「鋭く縦に尖って」いた。