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企画モノ

きえる

作者: 佐倉治加

 日々をこなす、と言うと退廃的な香りがする。決められたこと決まったことをそのように、作業するだけの簡単な人生。

 実際、私の毎日は誤差を見つけるのがむつかしいくらい、繰り返しで単調だった。就職してから五年経つ。仕事に慣れたでしょうと言われる時期を超えると、三十路手前の私には、変わらぬ日々が映っていた。仕事についてから一年のサイクルを丸々四回繰り返した。一回目は何も分からず必死だった。二回目は一回目を思い出しながら何とかこなした。三回目で余裕が出た。四回目には余裕にお釣りがくるほどに。大学から始めた一人暮らしも通算九年目。就職してから多少生活のリズムに変化は出たが、今では五年目に入ったそっちの方が大学の時よりも長くなろうとしている。朝六時。目覚ましが鳴るより前に起きて、自分用に朝ごはんとお弁当を作る。それを持って出かけるのは七時四十三分。燃えるゴミは月曜日と木曜日で不燃物は隔週水曜日。バス停まで歩いて五分。アパートからの道のりの途中に公園。そこを通り抜ける時、カラスかスズメかハトか、白地に黒ブチの猫。どれに会えるかで今日の運勢を決めている。七時五十分発のバスは時間より前に来ることはない。それに乗って十二分。会社のすぐ側のバス停に着く。始業は八時半だから大体余裕を持って到着する。それから、同じ部署で事務職の河井さんと菅井さんと私、三人で始業前のおしゃべりをしながら準備。八時半に仕事が始まって十二時過ぎに一旦休憩。その後一時から五時まで仕事をして、そこからの残業は繁盛期だけ。五時三十三分発のバスは行きと同じように、遅れてやって来る。それに乗って一旦帰宅。公園を突っ切る時には、冬にはもう鳥はほとんどいない。猫もいない。玄関を開けて、一息つく。買い出しの日にはそこから近くのスーパーに行く。安売りは火曜日と金曜日。変わりばえのしない部屋で一人、ご飯を食べながらスマホをつつく。同居中の寂しさが、向かいで一緒にご飯を食べているから、見もしないテレビに何か喋らせておく。平日にできる趣味はジグソーパズル。今部屋の真ん中に置いてあるのは、南米ボリビアの絶景、ウユニ塩湖のパズル三千ピース。ジグソーパズルはやりすぎて、もう千ピース未満ならすぐに仕上がってしまう。ウユニ塩湖に手をつけて今日で三日目。ご飯の後片付けを終えたら、二時間くらいそれをやる。ウユニ塩湖まで実際に行くと三十五時間くらいかかるというし、費用は五十万を超える。そして、実際に真っ青な空が塩湖の水面に映って鏡張りになる情景が必ず見られるわけではないようだ。そう考えると数千円のパズルを何日かかけてやって、必ず絶景の縮小版が見られるパズルは私が持つのに適している。オレンジ色のベッドサイドには、この間仕上げた夜のモン・サン・ミシェル三千ピース。スチールの枠に入れて飾ってみた。パズルは就職してからの趣味で、押入れには糊で固めた完成品が七十は入っている。絵柄でやる気が左右されるので、最近は気に入った絵柄の新作が出るのを待っている。手持ち無沙汰の日はパソコンで動画を見たりSNSで大学や高校の同期のページにイイねをつけて回る。休日は土日。もう一つの趣味はカメラ。と言っても、これも休日を潰すために始めた趣味で、初心者用の一眼レフをぶら下げて、電車で適当な駅まで行って、その辺りをぶらつきながら撮影。アパートに戻って写真整理。気に入ったものはインスタグラムに載せる。これも五年前から始めて、フォロワーが五百人くらい。手帳にタイムスケジュールを書きこめば、毎日きちんと埋まるようになっている。空白の日なんてない。貯金だって三百万は超えた。貯蓄型保険を合わせればもっとあるかもしれない。職場の人間関係も良好で、プライベートの趣味も自分では充実していると思っている。

 それなのに今年の春先、私の景色にヒビが入った。なんの前触れもなかった。


 あああああああああああああああああ。


 と叫べたらどんなにかいいことでしょう。

 そんなことを考えながら、宵闇までまだ一時間くらいのところ。

 私は通り抜けに使っている公園に座っていました。

 いつもなら絶対に寄らないコンビニで酎ハイを三本も買って、ベンチに腰掛けています。

 住宅街で奇声なんて発したら通報されるに決まっていますし、そんな勇気は私にはないのです。

 コンビニも便利になったのね、なんて思いながら。缶をしっとりと傾けます。

 その他に考えることなら幾らでもあると思うのですが、不思議と全く思いつかないのです。

 ほら、実家のこととか、大学以来誰ともお付き合いしてないこととか。

 自分の問題って色々あるでしょう、なんて。

 そんなこと言われても、実家では兄が結婚して両親と暮らしているし、お付き合いなんて今の職場じゃ出会いすら期待できないんです。

 中身がまだたっぷり入った缶を右手の親指と中指ではさんで、そこを軸に揺らしてみました。缶の表面はスチール色で、勢いのある字体で商品名が印字されレモンのイラストが公園の街灯に瑞々しさを増して、さ、私をお食べ、とワンダーランドのスイーツのように私を誘うのです。

 缶に堂々と印刷された灰色のレモン以外に愚痴をこぼす相手が見つからないなんて、何とも滑稽な人生になってしまったものですね。

 視線を上げると、公園の中の木々が暗くなっていくところでした。蝉の声だけがこだまして、実際の音量とは正反対に、鼓膜は静寂であるよと煩いくらいに訴えてきます。

 色はほんのりと。あるにはあるのですが、色味を帯びて感じられないのです。

 様々な色が全てグレースケールに置換されたおかげで、夜に引っ掛かり出した公園は、黒に近くなって先の見えぬ洞窟のように大きく口を開けています。

 今私が座っているベンチのそばには煌々とした街灯。それが私をその大きなお口から守ってくれているように思えるのですが、もう良いのです。

 別に、飲み込まれたってどうってことないのです。

 缶の中身を一気に半分くらいに減らして、ほうっとアルコールの混じる息を吐き出してみました。まだ一本目だというのに頭がふらーり、揺れています。お酒には弱くないはずの私ですが、今日はどうやら違ったようです。

 酔いが回ってきましたが、構わずに缶を口に運びました。

 飲み口に歯が当たってカチリと鳴った時でした。

 ベンチの対面に植えられたツツジの低木の闇の合間から、黒く蠢くものがゆっくりとこちらへ向かってきました。街灯の光が手を伸ばすところまで来ると、それがあの猫だと分かりました。

 猫は足音を立てず、白と黒の入り混じった細くて立派な長さの尻尾を、右へ左へ軽快に揺らしながら、私が座るベンチの前にやってきて、私と向き合うように地べたに座ったのです。

 足を組んだ私のつま先から、二十三.五センチの私の足二つ分離れたところに座って、尻尾をするっと体に巻きつけて、お行儀の良さを私に見せつけました。

「黒ぶちさん、こんばんは」と私は酔いの回った口調で話しかけました。心の中でこの猫のことを、いつも黒ぶちさんと呼んでいたのです。近寄ってきてくれたことで嬉しくなって、チッチと舌を鳴らして猫を呼んでみました。

「失礼な娘だ。私を道化のような名で呼ぶでない」

 唐突に猫が喋りました。ツンとして気位が高そうなのに、見た目は親しみやすいぶち柄。私は缶を持ったまましげしげと猫を見つめました。

「驚かないのだな」

「喋れるんですね」

 私と猫の声が見事に重なりました。しばしお互いに黙ります。自分で気づいてないだけで実は結構酔っているのかしら、猫が喋るなんて、と考えているうちに、猫が人間らしくコホン、と咳払いしてこちらを見ています。それは私が喋る、と言わんばかりの牽制でしたので、声には出さず笑ってしまいました。

「娘、最近変わったことはないか」

 その言葉に内心どきりとしました。原因は分かりません。私は固まった笑みを引っ込めて神妙に答えます。

「ありません」

「そうか」

 猫はすっくとたちあがると、公園の細かい砂利を踏んでいる音もさせずに私の座るベンチのそばに来て、トッと座面に飛び乗りました。猫なのに軽やかではありませんでした。かといって重厚さもありません。無いのに有るような、逆に触れるのに実態が知覚できないような振舞いでした。

 喋る猫と隣り合って座っているだなんて、物語の中の出来事みたいです。その近さに、触れてもいないのに、ふわふわの毛の感触が腕に走る気がしました。

 例の、日々の占い。出会えたのがスズメなら小吉、ハトなら中吉、カラスなら吉、そして猫は大吉、その他は末吉でなにもなければ凶と決めていましたので、朝に会う猫は大吉です。ただし夜は気をつけなくてはなりません。陽極まれば陰転する、などという言葉があるくらいですから、大吉であっても要注意なのです。

 ふと視線を下げると、猫の尻尾の先が二つに分かれていました。かなり酔ってしまったのでしょうか、ものが二つに見えるなんて。

 私は何度か瞬きをしました。それでも尻尾の先は二つに分かれたままです。

「珍しいか」

 そう聞かれて、私は頷きました。今まで現実では見たことがない形です。お話の中ではたまに目にしますけれど。

「そうか」

 そう言ったまま猫は沈黙してしまいました。

 暗闇を見通すことができるという目。その黒い部分が昼間とは違ってまん丸になって、先ほど猫が出てきた低木の闇を見つめています。

 私は、手にした缶を一度傾けて、唇を湿らせました。実はこの時声を出そうと思ったのですが、カラカラになっていたのです。緊張しているのでしょうか。

「猫さん、変わったことありましたよ、今」

 何とかそう言って私が笑いましたら、猫も前を見たまま

「そうか」

 と笑いました。猫の喉が震える波にのって、びゅーっと風が吹いて、公園の木々が音を立てました。そういえば、テレビで嵐が来るとかなんとか。

 隣では風に煽られ、缶を入れた袋がガサガサと文句を垂れ、私は風下の方へ顔を向けました。それは猫の座っている方でした。

 猫は風に逆らって風上を見ます。その目は翠玉色に光っていました。

「最期に、何かしておきたいことはないのか」

 あらまあ。やはり夜に会う朝の大吉は、凶にもなりうるのですね。

「こういう時は、何も聞いてくれないと思っていました」

「お前は私を見た日は幸運だ、と思っていたのだろう。だからいいのだよ」

「そういうものなんですね」

 私は缶の中に残った液体をぐいと飲みきって、ベンチの上に置きました。

「あと、二本あるんですよね。飲み終わるまで待っていただけますか」

「それだけでいいのか」

「それだけでいいのです」

 缶の中身が減り続けている間、猫も私も饒舌でした。

「話を聞いた時はまさか、と思ったが、お前を遠目から見て分かった。これは事実で現実なのだと。笑うな。私の方が変わっているだと。ふん。尻尾が二つに分かれているからなんだというのだ。そのようなモノ、他にいくらでもいるぞ。春から今までお前を監視していたのだが、その間。お前は全く変わらなかったな。『嘘というものがなければ、人は絶望と退屈で死んでしまうだろう』と、確か、フランス人の作家が言っていたが。よく知っているな、か。長く生きておるからな。暇つぶしは時に非常に重みを持つ。でなければお前のようになってしまうだろう。そういえば、お前の周りに嘘はなかったのか。そうか、分からないか。嘘はないならない方がいいと思うが、お前の周りでも気づいていないだけで嘘はあったと思うぞ。騙される方が楽、な。そういう考え方もあるのだな。人間はよく分からぬ。それにしても退屈とは恐ろしいものだな、どこにでもあるだけにな」

 そうやって喋っている間に、空模様が怪しくなってきました。公園には街灯がありますから明るさは気になりませんが、黒かった空が雲のせいで辺りが少し明るく見えるようになりました。風が強くなって猫の声が時々途切れます。

 ポツ、ポツ、大粒の雨が顔に腕に落ちて弾けます。その雨は一分も経たないうちに激しくなりました。

 この時、あ。誰も泣いてくれなくても、自分は泣こうかなと思いました。そうでした。泣くのを隠してくれるから、私は雨が好きだったのです。そんなことも忘れていました。毎日折りたたみ傘なんて持って歩いてなければ、私は明日も新作のパズルを楽しめたかもしれないのです。今となっては、こんなタラレバ、全くもって無意味なのですけれどね。

 嵐がやってきた街の公園で、私は三本目の缶を開けました。あまりに雨が降るものですから、お酒は塩味もしません。涙が出るそばから雨が流してくれるのです。私のタイムリミットは缶の中身。それを減らす私の一口よりも雨が飲み口に降り込む量の方が少なくて、とても順調に減ってゆきます。

 ノリにノって減っていくものですから、私は思わず猫に聞いてしまいました。

「誰も、気にしませんよね」

「そうだな」

 猫の言葉は真実で酷いものです。でも、その酷さが嬉しくもありました。

「お前だけではないよ、それは」

「安心しました」

 雨の音の他は何もありませんでした。私たちはしばらく喋りませんでした。何も考えなくてもいいのだ、と悟ると寂しくて幸せで、綺麗にムダ毛を処理した穴の一個一個から苦い汁が出てくる感じがしました。お風呂場で肌にカミソリを滑らせていると、時たま血が滲むのです。アレは薬より苦いのです。もう見ることもありませんけどね。

 遂に、私は最後の缶の最後の一口を飲み干しました。それは梨味でした。全然季節のものではなくて笑えます。シュワシュワした一滴が舌表面の小さな突起の集合を、ドット絵ゲームのように滑って行きます。ああ、お別れですね。

「では、行くか」

「はい。昨日、ウユニ塩湖のパズルを仕上げておいて良かったです、海抜四千メートルなんて、日本だと山を登っても行けませんから」

「そうか」

 私は晴れわたっていました。土砂降りの向こうには天の川があって、そのずっとずっと向こうに行くのですから。

 嵐を物ともせず、猫はすっと立ち上がりました。私も後に続こうと立ちました。びゅうと吹く風に三つの缶とコンビニの袋が飛ばされる音がしました。跡を濁してしまいました。でも、私の死体の比べれば缶と袋くらいどうってことないでしょう。公園の清掃係か、地域のふれあい清掃で綺麗さっぱり片付けられてしまう筈です。なんて事ないのです。

 猫は闇の合間から登場した時と同じ足取りで、雨の中を堂々と歩いて行きます。猫の後ろから私は静々、とついて行きました。猫の行先は公園にぽっかり開いていた大きな口でした。猫はその口に正面から突っ込んで茂みの向こうへすり抜けたのに、私は黒いパンプスのつま先から飲み込まれたのです。





『本日正午ごろ、A市山中で女性の遺体が発見されました。遺体は、行方不明だった会社員のBさんであるとみられ、警察は確認を急いでいます』

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― 新着の感想 ―
[良い点] 話自体が狂気となっている話。ボクはそう感じました。 即興で書いたような筋を推敲を重ねつつ濃密に生み出している制作の情景が想起され、ほんとうに即興で書いているとするなら濃度の高い才能に惚れ惚…
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