04 回想
──『あれ』は確か、俺が10歳のときのことだったと思う。
実の親父が事業に失敗して蒸発して、借金返済のために家含めて色んなものを売り払って、今までの俺の子供部屋より狭いワンルームのアパートで引っ越してしばらくたった頃の話。
専業主婦だったお袋も働きに出て、気苦労から白髪も目立ち始めたことが記憶にある。
転校不要だったことに喜んでいたのも短い間で、環境が激変した俺は見事にクラスの「いじめられっ子」に転落していた。それまで友だちだった子もいじめる側に回って、遊ぶ相手もいない。そんな日々。
『その日』は夕方から雨がぱらついていていた。
持ってきた傘を広げて帰ろうとしたとき、「すまん、今日これ貸してな」って言って、その傘が横から奪い取られた。いじめられっ子だった俺はどうしようもなく、そのまま雨の中を駆け出した。小雨だから大丈夫と思ってたら、雨がどんどん強くなって、下着までびしょ濡れで。
ようやく家にたどり着いたと思ったら、悪いことは重なるもので、鍵をどこかに失くしてたんだ。濡れて気持ち悪くて寒いのに、お袋が帰るまで家に入ることすらできない。惨めな自分に、いつの間にか俺はわんわんと家の前に座って泣き出していた。
そんな時2つ隣の家のドアが開いて、『その人』──実はもう名前を忘れてしまったから、ここでは『春美さん』って呼ぶね──が出てきて、泣いてる俺を部屋に招きいれてくれた。春美さんは髪が長くて、胸が大きくて、大人しい感じの綺麗な人だった。
その人の部屋に入って驚いたのが、部屋じゅうに所狭しと置かれた人形の存在だった。
特に一番大きな人形は当時の俺より少し背が高いくらいで、最初生きてる女の子が床に座っているのかと思うくらい精巧だった。狭いアパートにはあまりに似合わない存在は当時から疑問に思ってたけど、確か事情や由来は結局聞けずじまいだったように思う。
風呂場の中、バスタオルで体を拭いて、着る服がないことに気付く。風呂の中からそのことを言うと、春美さんはしばらくためらっていたようだけど、女の子の服を取り出してきた。きれいな大人の女性の前で、バスタオル1枚の裸でいるか、少女の服を着るか究極の選択。
高校時代から背が伸び始めて今は172cmあるけど、小学校時代の俺はいつも学年で1、2を争うくらい背が低くて、この頃は130cmあるかないかくらいだったのかな。とても嫌だったけど結局身につけたこの時の服は、ほとんどぴったり身体にフィットした。
「アキちゃんの服、ぴったりだったみたいね。良かった」
「……“アキちゃん”って、誰?」
「その子よ」
春美さんは笑いながら、一番大きな人形を手で示す。……不思議なことに、この件で俺の記憶に明確に残っているのはその人形の名前と、その人形を呼ぶ春美さんの声の響きだけ。
ただ、『その日』はそれ以上のこともなく、お袋が帰ってくるまで春美さんの部屋で、お嬢様のような白いフリルつきブラウスと、同じくフリル付きの黒いスカートの姿で過ごして終わっただけだった、と思う。
──え? 女装は似合ってたかって? それを含めて、これから話すね。
それからしばらく、学校から帰ったあと毎日のように春美さんの部屋を通う日々が続いた。……今なら分かるけど春美さんは水商売の人で、夕方6時くらいが出勤時間で。俺の相手をすることで負担がかかっていたのは当時の自分でも理解していて、でも孤独だった俺は、好意に甘えてお邪魔することをずるずると続けてた。
『僕の出来ることならなんでもするから』。贖罪意識から春美さんにはそんなことを言って。
確か1ヵ月後くらいかな? 春美さんが、俺に「お願い」って言ってきたのは。何でも“アキちゃん”の新しい服を買いたいから、買出しに同行して欲しいとの話。
(荷物運びかな?)と思ってOKしたら、“アキちゃん”の服一式に着替えさせられたんだ。
嫌とは思ったけど、『なんでもする』と言ってた以上断りきれなくてね。下着から完全に女物で、白と黒のゴスロリ衣装を身に着けて、お尻より長い黒髪姫カットのカツラをつけて、付けマツゲとかできっちりお化粧までさせられて。
──今の俺から想像つかないと思うけど、小学校卒業くらいまでの俺はお袋似の女顔で、背も小さかったし結構女の子に間違われることも多かったんだ。中学以降はまあ、そんなこともなくなったけど。それでも一番最初の日にお人形の服を着たときは、普通に『男の子が女の子の服を着てる』感じだったけど、その日仕上がってみると、本当に『生きて動き出した少女のお人形』そのもので、それが自分であることが信じられない気分だった。
──まあ、随分前の話だし、記憶の中で美化が進んでるのかもしれないけどね。
春美さんはごく自然に俺に対して『アキちゃん』と呼びかけるし、いつの間にか俺もその呼び方に馴染んでいってしまっているし。まあ偶然俺がマサ“アキ”だから慣れやすかった、という理由もあるだろうけど。
その日は春美さんと一緒に電車に乗って街にでかけて、ロリ系の子ども服中心に色々試着して回ったっけ。俺と人形の服のサイズが同じくらいだから、これでぴったりな服が着せてあげられるって、大喜びだったと思う。最初は恥ずかしかったけど、店員さんとかに完全に女の子として扱われるのが新鮮で気持ちよくて、誰も俺のことを俺と扱わないのが嬉しくて、最後は割に楽しんでた記憶がある。
──女装趣味じゃなくて、変身願望かな。あの頃は本当に、俺が俺であることに嫌気がさしてたから、別人になることが嬉しかった。だからまあ、正直に言えば俊也が悠里のふりをするのを見てて、今でも羨ましいって思う気分もどこかにあるんだ。もう、俺には無理だろうからね。
まあ、それはともかく。
その日以降、大きく変わったのが春美さんの家での俺の扱いだった。それまでは普通に男の子として扱われてたのが、春美さんの家に行くたびに服を脱がされて、動く着せ替え人形であるかのように、可愛らしい女の子向けのドレスを着せられて。
──それが本気で嫌だったら、もう二度と行かなくなって、それでお終いだったよ。でも結構長い間その関係が続いたはずだから、俺はやっぱりそれが嬉しかったんだと思う。