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作者: 八束天音

友人が昔、自転車で日本を横断し(ようとし)たことがあるという話を聞いて思いつきました。

ただどこまでも何もない平面。地球が丸いなんて嘘だ。自転車でどんなに端へ漕いで行っても、地面が傾斜を描くことはなく、当然いつまでもペダルは軽くなったりしない。だから僕は一個の歯車になって、ペダルを回す歯車として、自転車のために足を動かす。額にまいたタオルからさらに汗があふれ、鼻頭を伝って頬を伝って顎を伝って何滴も何滴も僕の体から水分が失われていく。空は単純な青を捨てて紫や橙をにじませ始めていた。気持ちばかり焦る。けれど、ただどこまでも何もない平面を、まっすぐに終わらない道は、果てなんてなくて、僕はなすすべもなく、ただ後ろから逃げるように、立ち止まることを恐れるように、ひたすらにこぎ続けるしかない。

 日本は島国で、山の国で、川の国だ、というのも嘘だ。海も山も川も全然見えない。まっすぐにそっけない地面と、真っ平らにそっけない空があるきりで、神様が地球を作るときにどこかに手抜きをしたとすればきっとここなんだろうな、と思う。単純極まりない風景の中、複雑な機械とその歯車になった僕は名画の中に間違ってくっついた汚れのように、隅っこの方に申し訳なく紛れ込ませていただいている。なんてちっぽけなんだろう。自分という存在があまりにもくだらなくて、取るに足らなくて、僕は泣きそうになった。あまりにもたくさんの辛い思いを抱えて、あの場所から逃げ出した僕を、弱々しく、寄る辺のない僕を、こんな遠くまで来ても、誰も、受け入れてくれないのだ。あの場所でも、ここでも、世界中どこでも、僕は一人ぼっちで、どうしたって独りで生きていかなければならないのだ、ということがわかってしまった。誰も僕を見てくれないし、誰も僕に声をかけてはくれない。傷ついて、血まみれになって、命からがらに逃げだした僕を、誰も。

 空の色がどんどん朱に、緋に、紫に、まじりあって溶け合って変わっていく。色が重みを増し、世界は端から光を失っていった。こぎ続ける僕はただ空を、前をにらみつけて、祈りの言葉も思い浮かばないまま、とにかく何かに祈っていた。このまま夜になって、夜を超える自信が僕にはなかった。そもそも朝にパンを一切れかじったきり、昼に水を飲んだきり、何も口にしていないのだ。お腹は鳴くのをとうにあきらめていたけれど、このまま何も食べないまま野宿をしても、明日の朝になってひと漕ぎだってできる自信がない。何か食べないといけない。そんなことを考えて、それと同時に、こんな広くて何もないところにいて、それでも空腹を心配する自分が、なんだかおかしくなって、僕は自転車を漕ぎながら、ふへへへへ、とみっともなく笑っていた。かまうものか。誰も僕を見てくれないし、誰も僕に声をかけてはくれない。誰も僕を変な顔をして見たりしないし、誰も僕を嘲笑ったりしない。

夕陽は名残なく地平の下へ消えた。電源を切るみたいにして、あっというまに世界中が夜に染まった。地面も空も何もなくなって、僕はどこにもない場所に放り出された。何も見えない、何もわからない、何もない……いや。

星が、星が出ていた。満天の星だ。空いっぱいに、煌々と、点々と、灯々と、キラキラと、星、星、星、星! 見たこともないくらいの、大量の、洪水のような、星の海だ。息が漏れる。世界はこんなに広かったのか、宇宙はこんなに広いのか、なんて広大で、なんて壮大で、なんて膨大さだろう。地面が消えて、空が広がって、僕は空に浮かんでいた。両手いっぱい、視界いっぱい、体中が星の光を受けてジワリと光る、恍惚が体中を走り抜けて、世界中に散らばっていく、震えて、涙が出て、嗚咽が漏れるような、感動! 自分の指先さえ見えないような夜の闇を、無数の無限の星々が、照らしている。スポットライトのように、僕を、僕の目の前の道を、照らしている。道の先に、灯りが見えた。灯りは、平原の中、その底にともっていた。人家の灯だ。僕は息をのむ。星々に導かれて、この道の先に、僕はたどり着いたのだ。

人家は、宿だった。宿の主人は真夜中の訪問客に驚いたが、疎むことはなく、ボロボロの僕を泊めてくれた。

温かく炊かれた白米をほおばって、僕は自分が、どうあっても人間であることを知った。星も、空も、道も、雄大で、寛容だけれども、それは人間の僕を受け入れただけで、人間らしい僕を受け入れることはないだろう。人間だからこうして涙が流れるのだし、空腹を抱えるのだし、感動できるのだし、おいしいご飯を食べることができるのだ。

軋みを上げる体を湯船に落とし込んで、体中の泥と汗を落とした。それから疲れ切ってがくがくになった足を冷たくも柔らかい布団の中に押し込んで、死んだように眠った。

翌朝、僕は世界が始まる瞬間を見た。

空は、墨塗りに水を溶かしていくみたいに、黒が薄くなり、紺になり、橙が滲み出し、すいすいと地平から光の筋があふれて雲を照らす。地平の向こうからやってきた、何条もの光の筋が空いっぱいに広がっていき、夜を追い出して、朝がやってきた。音のない世界に鳥が鳴き、風が吹く。広々とした空間を、朝が満たしていく。朝は、彼方遠くの端まで満ちると、唐突に、あっさりとそのファンアーレをやめた。地球丸ごとの始まりを告げる壮大な朝は、いつもどおり、平穏で変わりない、どうということのない朝になった。そうか、これが本当の朝なんだ、僕はファンファーレの名残をどこかに捜しながら、理解した。本当の朝というものは、こうやってやってくる。そしてこれが毎日毎日、誰も知らない間に起きて、終わるのだ。そしてこれが何度も何度も、何年も何年も、何百年もずっと前から、何千年もずっと先まで、ただひたすらに繰り返されるのだ。

平穏に戻った平原に、ご飯の炊ける匂いが漂ってきた。さっきまでの不思議な体験は、もう生涯体験することはできないだろう。そう思うと、さみしいようなもったいないような気がしたけれど、同時に、すがすがしい気持ちになった。こんな体験を一つ抱えていられるということが、きっとこれから先ずっと救いになっていくのだと、どういうわけか確信できた。忘れることのない体験を、それがこれだと確信できたことが、きっと、幸福ということなんだ。僕はたぶんこれから先何度でも、この光景を思い出す。戻ろう、あの場所に。逃げ出した僕を、受け入れてくれる場所はなかったけれど、逃げ出した僕でも、戻るべき場所はある。ただ、勇気がなかっただけなんだ。人間の僕を、人間らしい僕を受け入れるだけの勇気が。だけど今、僕は戻る力を取り戻した。だから、帰ろう。あの場所へ。

彼の思考と地の文が混在しているので、なるべく改行を控えてみました。独りでいる時ってなにかと無駄にあれこれ考えてしまいますよね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 僕が歯車になる時 夜明けとともに "世界の中心から" 世界の一部になる時 僕は初めて 万能ではない自分を 受け入れることができた。
[一言] 北海道を自転車で走ってみたくなりました。 この話の主人公(中高生ぐらい?)と同じような感動は、今の自分ではもう得られないでしょうが。
[良い点] 自転車でこいで体験したことは本人でしか分からないけれど、そこで体験した素晴らしさや壮大さが十分に伝わってきました。
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