あぶらかたぶら
子供のころ魔法だと信じていたものは年をとるに連れて、”てじな”や”かがく”というものに化けてしまって、私の中の魔法使いや精霊たちは”げんじつ”に立ち退きを命じられている。
そんな“かれら”をどうにかしてやろうと思い、このまえ魔方陣を書いて悪魔を呼び出そうと試みたのだが、悪魔もこのご世代忙しいのか10回中1回も来てくれなかった。――10回では足りなかったのかもしれない。おかげで“かれら”の立場はさらに悪くなってしまった。
昔はこんなことをしなくても信じていたのだが、最近はどうやら半信半疑気味なようである。全く、大人になることは嫌なことである。
すべてはマス・メディアのせいである。テレビや雑誌など取り上げられているのを見ると、 どれもこれも安っぽい偽物見えてくる。無機質なレンズが映す画面の中で、司会者が本当だ。本物だ。と叫び、観客がざわめくと同時に熱は冷め、またひとつ何かが死んだような感触をおぼえる。あの連中は本当に信じてほしくてやっているのではない。視聴率を上げて金を得るために大げさにやっているだけで、本人たちは信じていないに決まっている。だから余計に腹立たしい。信じていないものを利用して利益を得ているくせに、陰ではその信じているものを笑うのだ。
そもそも、本当に信じてほしいならあんなことはやらないはずだ。“かれら”は連中が思っている以上に厳かで神秘的な存在である。軽い電波や質の悪い紙で伝えるものではない。
おかげで早々と私は超能力やネッシーなどのたぐいの存在をすっかり信じられなくなってしまった。もしも、本当に存在していたのなら、気の毒な話だが仕方がない。
だから、私はあの連中――大人という生き物が大っ嫌いである。あと何年かで自動的にその大人と同じような扱いを受けるかと思うと、勝手に落ちていく砂時計を呪いたくなる。
「ゆいおねぇちゃあぁん」
そんな私の毒づいた思考はミルクセーキのような甘く可愛らしい声にアッという間に離散された。しかし、どうも様子がおかしい。いつもならもっと張りのある声のはずなのだが、今回は言葉の語尾の部分が震えて、しゃっくりが混ざっている。
顔を上げると、涙と鼻水とよだれで顔がぐしゃぐしゃになった小さき友がこちらに向かってヒョコヒョコとやってくる。
「どうしたの」と聞くと、小さき友は大きく鼻水をすすって「こけたぁあ」と大粒の涙をこぼした。足のほうを見ると右ひざのあたりに赤くすりむいたあとがある。それにもかかわらず、ここまで歩いてきたのは立派である。普通なら、こけた場所から動かず誰かが駆け寄るまで大声で泣き喚くはずだ。
「良くここまで、自分で歩いてきたねぇ。えらい、えらい」
絹糸のように柔らかい髪で包まれた大きな頭をなでると、小さき友はまたひとつ、しゃっくりを上げた。顔から流れる透明な液体をすべてハンカチでぬぐっても次から次へとそれはあふれ出てくる。このまま、放っておいたら体中の水分が皆、出ていってしまうのではないかと、不安になるほどに。
「傷、洗いに行こうか」
小さき友は涙を拭きながら、こくんとうなずいた。
用意してあったばんそうこうを張ったあとでも小さき友は泣き止まなかった。できる処置は全部やったのだが、いまだに「いたいよ、いたいよ」とわめいている。やれやれ、どうしたものか。
「もう、だいじょうぶだよ。いたくないでしょ?」
しかし、小さき友は嫌々をするように頭を横に振って「いたい、いたい」といった。
こうなったら最終手段である。ばんそうこうが張ってある右ひざに手のひらをかざして、言った。
「あぶらかたぶら、あぶらかたぶら。痛いの痛いの飛んでいけ!」
すると、小さき友はその黒く大きい目をきょとんとさせた。
「痛いの治った?」
「まだいたいよぉお」
聞いたのがいけなかった。いまどきこの呪文はあまり効力がないらしい。みんなが知っている、というのも困りものだ。何とかして、痛みから注意をそらさなければならない。
「ねぇ、『あぶらかたぶら』の意味知ってる?」
案の定、小さき友は「しらない」という。当然だ。私でさえ、つい最近知ったばかりなのだから。
「『あぶらかたぶら』にはね大昔、中東のアラム語で”この言葉のように消えてしまえ“という意味があるの。それで、ヘブライ語がもとのカバラの言葉では”父と子と精霊と“という意味なんだって」
「よくわかんない」
「まあ、簡単に言えば、かみさまに“早く直りますように”ってお願いする意味かな」
「ふぅん」
呪文が聞き出したのか、小さき友の涙は止まっていた。私はもう一度、その頭をなでた。空を見上げると、次第にオレンジ色に染まりつつあった。そろそろ、小さき友の帰る時間だ。
魔法は確かにある。それを信じるものに確かな力を与える。
だから、まだ”かれら”を追い出す必要はないのだと、私は心の中で”げんじつ”向けて下瞼を指で引き下げ、赤い舌を出した。