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第三話:米内内閣成立から日米交渉の妥結まで

1940年1月16日、米内光政内閣が成立した。

しかし米内が親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動にも冷淡な姿勢を貫いたこと等により陸軍や親軍的な世論から不評を買い、軍部大臣現役武官制により、総辞職に追い込まれた。


7月22日、第2次近衛内閣成立。組閣直後の7月26日、国防国家の完成を目指すことなどを決めた「基本国策要綱」を閣議決定する。

同年9月27日には日独伊三国軍事同盟を締結し、同年10月12日に新体制運動の指導的組織となる大政翼賛会を結成。

翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結した。

6月22日に独ソ戦が勃発、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。一方海軍も、この機に資源が豊富な南方へ進出しようと考えた。大本営政府連絡会議では松岡洋右は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴えた。

7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。この決定を受けてソビエトに対しては7月7日いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対して南部仏印への進駐を決定した。

第2次近衛内閣は同年7月16日に、松岡外相を外すことを目的とした内閣改造を断行するために総辞職した。


1941年7月18日、第3次近衛内閣が成立。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を移管され、それを受けて7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日にサイゴンへ入城。これに対しアメリカは対日石油全面輸出禁止等制裁を強化するが、日本領内にも油田があるので大して問題にはならず、黙殺された。


9月6日の夜、近衛はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。

事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。

しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。


陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求。

外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衛は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。

会談の結果、10月18日に第3次近衛内閣は総辞職した。


後継内閣は、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立が望まれ、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。

稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。

昭和天皇は「陸海軍が平和の方針に一致するのであれば」という条件で東久邇宮内閣を認めたが、木戸幸一内大臣が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として東久邇宮内閣に反対し、あらためて重臣会議に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。


10月18日、東條英機内閣が成立した。


東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように指示された。

天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちにあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を据えた。

さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、即時に撤兵することを趣旨とした二つの案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。

また乙案においては、仏印から即時に撤兵することや、日独伊三国同盟の破棄も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。


アメリカ側は甲案は受け入れられないと通告したが、乙案を受け入れるかどうかで紛糾し、11月26日(日本時間11月27日)、乙案を受け入れるという趣旨のハル・ノートを通告した。


これにより日米交渉の妥結が実現した。


日米開戦の危機は、一旦回避されたのだ。


そう、一旦。

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