第一話:昭和時代の始まりから世界恐慌まで
1926年12月25日、大正天皇崩御。同日、皇太子裕仁親王が践祚、直ちに改元の詔書が公布され、昭和に改元した。
1927年3月14日、片岡直温蔵相の「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」発言より昭和金融恐慌が始まった。
23日に貴族院で震災手形整理法案が可決されると、最初の取り付け騒ぎは収束した。
しかし、4月1日に台湾銀行が「鈴木商店とは手を切った」という事を発表すると、金融界には衝撃が走った。
台湾銀行と鈴木商店は同時に金策の道を絶たれて倒産寸前に陥った。
第1次若槻内閣は台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。
取り付け騒ぎが再発し、そんな中、立憲政友会の田中義一内閣が組織された。
田中義一内閣は金融恐慌解決のために日本銀行から市中銀行への緊急融資を行った。
外交政策としては従来の穏健な中国政策と国際協調を基調とした「幣原外交」を破棄して、東方会議を挟んで3度の山東出兵を行った。
だが、第2回目の出兵で済南事件が起きて、予定外の第3回出兵を行ったにもかかわらず成果が上がらず、軍部が要望した朝鮮軍や満洲軍(外満洲に駐留した軍)の投入を見送り、撤兵。
軍の不満は高まり、後に満洲事変が引き起こされることになる。
さらに恐慌対策を兼ねて「産業立国」路線を採り、大規模に工業団地を造成し、鉄道・舗装道路を多数作った。
一方6月1日、憲政会と政友本党が合同し、立憲民政党が発足した。
これに対し1928年1月21日、ついに田中義一首相は衆議院を解散。
第16回衆議院議員総選挙である。
政府は露骨な選挙干渉を行うが、与党の政友会は1議席差まで追い詰められた。田中義一内閣が再び成立したが、試練が訪れる。満洲某重大事件…つまり満洲事変である。
1926年、蒋介石を中心とする国民革命軍は広東省から北伐を開始した。
1928年にはとうとう奉天派を破り北京を占領し、張作霖は奉天まで撤退した。
国民党軍は追撃、錦州を占領し奉天に迫った。
1928年9月4日の早朝、張作霖の乗る特別列車が『国民党』により爆破され、張作霖は死亡。
翌日それが新聞でスクープになると、朝鮮軍・満洲軍は行動を開始。
列強は非難声明を出し、田中義一内閣も行動を停止させようとしたが、
1929年2月初めまでには満洲は占領され、1929年3月1日、愛新覚羅溥儀を元首とする満洲国の建国が宣言された。
田中義一内閣は混乱し、7月2日にはついに総辞職した。
それにより民政党の濱口雄幸率いる濱口内閣が成立したが…
1929年10月24日木曜日。
ニューヨーク株式市場が突如大暴落した。
世界恐慌の始まりである。