第十八話「クラキの旅立ち」
「スゥ……?」
少年は聞き逃さなかった。
姉と呼ぶのも忘れて少女を振り返る。
先ほどの呟きは涙声だったが、スゥは泣いていなかった。
子供なりに決意を秘めた表情を見せている。
「魔法使いのお姉さん」
「え? ああ、はいはい。何かしら?」
アレーネは気前よくスゥに目線を合わせた。
「わたし、山賊に捕まって、酷いことされそうになったとき……クーちゃんに助けてもらったんです」
「……嘘でしょ?」
「本当です」
スゥはきっぱりと言い切った。
まっすぐアレーネの目を見て、逸らさずに。
「あのときクーちゃんが来てくれなかったら、きっとわたし死んでました。ここには帰って来れなかったと思うんです」
もし倉木少年が来なかったら。
今になってIFを真剣に考えたからか、スゥは恐怖に身を竦ませた。
「リバーフォレストのみんなにも話しました。でも、誰も信じてくれなかったんです。クーちゃんはそれでもいいって言うけど、わたしはすごく悲しかった……」
その感想に俺は違和感を覚えた。
観測中、彼女の心がそこまで大きく動いたデータはない。
これは、もしや……。
「クーちゃんが魔女を倒したっていう話は、わたしも初めて聞きました。でも、ほんとうだと思います」
アレーネは真剣な眼差しで少女の告白に頷いた。
少年も彼女の言葉に聞き入っていた。
「ごめんね」
しかしアレーネはスゥの肩を抱いて、まっすぐな視線を受け止めながら頭を振る。
「私はやっぱり、自分の目で見るまで信じられない」
スゥの瞳が失望に染まった。
信じてもらえない悲しみが、さらに深くなる。
「あいつを、倒せるやつがいるなんて。ましてや、それが年端もいかぬ子供がやったなんて」
だが、これはスゥが悪いわけでも、ましてやアレーネが悪いわけでもない。
敢えて言うならバーネラが悪いのだ。
あの魔女の恐ろしさは、それだけアレーネの心に深く染み着いてしまっている。
あるいは、アレーネの中でバーネラという存在は未だに生きているのかもしれなかった。
「でも、そこまで言うなら、わかったわ」
だが、アレーネは魔女としては異端だ。
自分の中で折り合いがつかなくても、子供の願いを踏みにじるような外道にはなりきれない。
だからこそ彼女は落ちこぼれなのだ。
「例の死霊術師退治、やってもらえる? 自信がなければ断ってくれても――」
「もちろんやります! それで信じてもらえるんでしたらっ!」
これに少年が即答した。
今度はアレーネの方が台詞の行き場を見失い、口をぱくぱくさせる。
「……クーちゃん」
アレーネから視線を外したスゥが少年をせつなげに見つめる。
いつもお姉さんぶっている彼女が弱々しい表情を見せていた。
「大丈夫。僕は姉さんを嘘つきなんかにしません」
少年はすべて請け負った。
彼もかつて傷つき、心を救われたことがある。
スゥが同じ想いをすることを、ましてや救ってくれた恩人が傷つくことを良しとするはずがない。
「クーちゃん」
少女はゆっくりと少年の胸に頭を埋めた。
少年は彼女の頭をそっと撫でながら、アレーネを見上げる。
「アレーネさん。あなたからのお仕事、お請けします」
「伊達で言ってるわけじゃないみたいね……」
少年の強い眼差しに、アレーネもただならぬものを感じたのか。
「いいわ。お手並み拝見といこうじゃない」
頑固な魔女は、ようやくその首を縦に振ったのだった。
その夜。
少年はいつものようにスゥと同じベッドに入る。
普段よりも甘えてきた少女に、少年も優しく応じた。
(……僕、力のことは信じてもらえなくてもいいって思ってました。どうせ自分の力じゃないんですし)
スゥが寝静まった頃、少年が念話を送ってきた。
(でも、姉さんがこんなに苦しんでたなんて知らなかったです)
――俺もだ。
(えっ。神様まで?)
――俺が読みとれるのは所詮、表層思考だけだ。時間をかければともかく、一瞬で人間のすべてが理解できるわけではない。
スゥが少年のエピソードを誰にも信じてもらえないと悩んでいたことは俺も知っていた。
しかし彼女がそのたびに悲しみに囚われていたかというと、そんなことは断じてない。
その時々においては、本人もさほど深く気に病んでいなかったのだ。
だが今まで溜まっていた小さな不満がアレーネとの会話で一気に吹き出した。
信じてもらえなかったことがさもとても悲しい出来事だったかのように……記憶が書き換えられたのだ。
これらの記憶の改竄は別段珍しいことでも何でもなく、実際に人間が無意識且つ自然に行なう行為である。
どのように記憶が書き換えられるか、さすがの俺にも読み切れるものではない。
――倉木君。この仕事が一段落したら、スゥのことでひとつ相談がある。
(え? 今じゃ駄目なんですか?)
駄目ではない。
死霊術師との戦いを控えている状態で、迷いを生じさせたくないだけだ。
(姉さんのことなら、すぐに話したいんですけど……)
少年が急かしてくる。
そう言うのであれば……。
――……いや、そうだな。すぐに話そう。好きなタイミングで構わない。明日にでも創源に来てくれ。
(わかりました)
少年はすぐに来た。
輝きを伴って創源へと降り立つ。
「本当に今か」
「善は急げといいますから」
少年はいたずらっぽく笑い、俺の傍らに走り寄ってきた。
「えへへ」
「なんだ、気持ちの悪い」
「何でもないです」
少年は俺の言葉に傷ついたらしく、拗ねたようにそっぽを向いた。
「ここはいつも同じですね」
少年は話を逸らすように周囲を見回した。
「そのように創ったからな」
春風と、どこまでも続く草花。
創源の景色は変わらない。
「なんだかそれも寂しいですね……」
倉木少年は風に靡く髪を抑えて微笑んだ。
そんな女性的な仕草をみせる彼を見て、俺は聞いておくべきことを思い出した。
「……スゥのことをどう思う」
少年は僅かに赤面しながら俺を責めるように上目遣いを使ってきた。
「……神様、絶対知ってますよね?」
「君の口から聞きたい」
スゥのように、そのときにならないと気づけない想いといったものもある。
たかだか精神探査ですべてを知った気になるなど、烏滸がましいにも程がある。
「……好き、ですよ」
隠したところでしょうがないとわかっているので、少年はあっさり観念した。
「姉としてか?」
「わからないです。神様のことも同じくらい好きですし」
「俺のことなど聞いていない」
「そんな……っ」
少年は俺の言葉に傷ついたようで、泣き顔になった。
「ああ、悪かった。俺も少年のことは憎からず想っている」
「本当ですかっ!?」
俺の適当な言葉で少年はあっさり上機嫌になった。
なるほど、この少年はこうやって手綱を握ればいいわけか。
「僕をあんなに信じてくれる人、今までいませんでした」
しばらく話した後、話題はスゥに戻った。
「もしいたら、僕は死のうだなんて思わなかったかもしれません」
草花を愛でながら、少年は本当に幸せそうに笑っていた。
「帰還とスゥ、どちらかを選べと言われたらどうする」
「……え?」
意味が伝わらなかったらしい。
もう一度、わかりやすい言葉を選んで言い直す。
「元の世界に帰るのと、スゥとともに暮らすのと、どちらかしか選べないなら何を優先する?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「どうしても何もない。元の世界にスゥを連れて行くことはできない。帰るとすれば、彼女を置いていくことになる」
俺は事実を淡々と述べる。
スゥの住む世界はベイダであり、少年の暮らしていた世界ではない。
「それは……」
「そして、もうひとつ。君とあの少女とでは、流れている時間が違う。この世界で共に過ごすとしても彼女だけが老い、君は永遠にその姿のままだ」
「あっ……」
少年は考えもしなかったらしい。
まあ、子供の頃は今の時間がずっと続くのだと錯覚するものだ。
「君の時間を元通りにすることは簡単だ。そうすれば彼女とともに生き、老い、死んでいくことができる。だが、それは帰還を諦めることに他ならない」
「…………」
「もし元の世界に帰るつもりなら、どうするにせよいずれ彼女とは別れなくてはならない」
二者択一。
少年が帰還を諦めない限り、スゥと姉弟の関係でい続けることはできない。
別れても姉弟だと言い張る分には、それはそれで構わない。
あるいは、年老いた後に再び若返ってやり直すこともできなくはないが、その分は少年の精神に跳ね返ってくる。帰ったとしても、それは老人の精神を宿した子供だ。
人間は周囲の反応や接し方によって精神年齢が左右される事例がある。子供の姿のまま年月を過ごすことで、子供としての自分を維持する事ができる可能性も高くなる。
無論、それも百年単位で数えた場合まったくアテにならなくなるが。
「あくまで長い年月で見たときの話だ。今すぐ答えを出す必要はない。だが、頭の片隅には置いておけ」
「……いえ、今決めます」
「何?」
少年の予想外の答えに、俺は思わず眉を潜めた。
「僕はこの世界にいる限り、姉さんと一緒にいます」
「ほう? ならば、スゥだけが君より先に死ぬことになるが」
「そうなる前に、僕がコームダインを倒します」
俺は思わず目を見張った。
自分の意志ではっきりとコームダインを倒すと宣言したのは、彼が初めてだったのだ。
ここで俺は少年との間にある認識の齟齬に気づいた。
少年はこの世界での活動が永劫にも等しい時を費やすものだとは知らない。
だからこそ、少年の中に目標を達成して終わらせるという選択肢が生まれ得たのだ。
コームダインは世界にいるとは限らない。
それどころか、いない可能性の方が遙かに高い。
コームダインとは何処の世界、時間、次元にいるかが一切不明であり、名前と行動の痕跡だけが確認された存在なのだ。
俺はあらゆる並行世界に少年のような代理干渉者を送り出している。介入回数は那由多を越えるが、今のところ奴は見つかっていない。
この情報を漏らせば、少年との関係は決裂する可能性が高い。
だからこそ、言う必要もない。
コームダインがこの世界にいれば、それで良し。
もし彼が自分自身で設けた期限中に目的を達成できない場合は、それはそれでスゥと死ぬまで一緒にいられる。
「いいだろう。やってみろ」
「はいっ!」
少年は選んだようで選んでいない。
第三の選択肢として彼が選んだのは、情報弱者であるが故の先送り。
実に、俺好みの選択だった。
「クーちゃん、本当に行っちゃうの?」
出発の日。
早朝、皆が起き出す前の時間。
まだ日も出ていない中、スゥは少年との別れを惜しんでいた。
「大丈夫です。ちゃんと帰ってきますから」
少年とアレーネは旅支度を整えて、スゥの家の前にいた。俺もミネルヴァとしてアレーネの肩にとまっている。
「わたしも行ったら、駄目だよね」
「駄目に決まってるでしょ」
スゥが無謀なことを言ったが、ダネにあっさり止められる。
「うん。じゃあ、待ってるから……」
スゥは寂しそうに引き下がる。
ついていきたいと思っていても、口には出さない。
彼女もこれまでの失敗からきちんと学習していた。
「あ、姉さん。これを……」
倉木少年が空間収納からペンダントを取り出し、スゥに手渡した。
「なに、これ。きれい……」
それは銀でできた十字架を鎖で括った代物で、この世界では高級宝飾品に分類されるものだった。
「念話の護符というそうです」
「ねんわのごふ?」
「それがあれば、離れたところにいても僕と話ができるって神様が」
スゥが目を丸くした。
「……ホント?」
「はいっ。だから、離れてても姉さんとはお話しできますよ」
これには少年も嬉しそうに笑った。
「クーちゃん……」
「はいはい、ラブラブおしまい。そろそろ行くわよ」
アレーネが二人の間に割り込むように体を入れた。
そのままスゥの耳元に囁く。
「大丈夫よ。弟君を盗ったりしないから」
「あうぅっ……」
これにはスゥも真っ赤になって俯いてしまった。
アレーネが余計なことを言わなければ、初なスゥは考えもしなかっただろうに。
「ふふっ、かわいいわねぇ」
「からかわないでくださいっ」
倉木少年の抗議もどこ吹く風。
アレーネは適当に手を振りながら歩き去っていく。
「そ、それじゃ僕も」
「いってらっしゃい。気をつけていくんだよ」
ダネの言葉に笑顔で応え、少年もまたアレーネの背中を追いかける。
「クーちゃーん!」
遠くなった少年に向かって、スゥが叫ぶ。
少年は振り返ると大きく手を振った。
「いってきまーす! 姉さーん!」
少年も笑顔で手を振り返した。
そして今度こそ、少年はスゥの見えないところまで行ってしまった。
「ほら。風邪ひくよ、スゥ」
「ううん、もうちょっとだけ」
ダネに注意されても、スゥは家の外で少年の旅立った方向を見つめていた。
見かねた母が自分のショールを愛娘に巻いてやる。
「母さん……」
「大丈夫。すぐに帰ってくるさね」
「うん」
娘の笑顔を見て満足気に頷くと、ダネは一足先に家の中へ戻った。
「神様……」
一人の残ったスゥが、少年から受け取ったペンダントを握りしめる。
「どうか、クーちゃんをお守りください」
少女は瞑目し、祈りを捧げた。
――その願い、聞き届けよう。
「………………えっ?」
こうして。
倉木少年はリバーフォレストを旅立った。




