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永久を統べる少年  作者: 水下たる
■本編
2/18

01 - 魔物と魔法、剣士ジャック

 野々部千秋は、なぜか、暗い森の中を必死で走っていた。

 運動用のスニーカーが、泥に塗れて重くなっている。何度もバランスを崩し転びそうになったが、必死に足を動かした。

 ドクドクと血が駆け巡っている。身体全体が心臓になったかのようだった。息は既に切れ、何も考えることができない。限界は近い。背後に迫る『何か』の気配が恐ろしくて、ただただ身体を動かしている状態だ。

 眼前に迫る大きな樹の根をくぐり抜け、千秋はおきあがりながらちらりと背後を振り返った。


「はッ――はあッ――」


 『それ』は、行く手を遮る木々を薙ぎ倒しながら、自分との距離をじわじわと詰めてきている。何百倍もの大きさがあってもなお、彼よりも早いのだ。


「ヒッ――」


 千秋は自身の死を幻視した。

 自分の体格ではおそらく前脚のひとふりでさえ受け止めることができないだろう。体ごと突っ込んで来たなら、臓器が破裂し骨が粉砕されるに違いない。


「あれっ!?」


 彼は絶望した。

 足が竦んで動かなくなってしまったのだ。


「なんで、なんでだよ、動けッ、動けよ――おれ!」


 顔から血の気が引く。必死に自分を鼓舞するが、足の震えは全身にまで伝染してしまって、立っていることすら叶わなくなってしまう。


「来ちゃうだろ……来ちゃうだろ、『あれ』が」


 『あれ』は巨大だった。巨大な四足歩行の怪物だった。これまでの人生で見たことも聞いたこともない、禍々しい形をしている。

 ぬめぬめと黒光りした表皮には毛が一本も生えておらず、筋肉のような、繊維の束のようなものが隆々と盛り上がりっている。四つの足にある十を超える節が、バネのようにぐにゃりと収縮と反発を繰り返し、巨体を恐るべきスピードで走らせている。


「うわぁああッ!」


 とうとう、眼前にまで『それ』が迫り、千秋は思わず目を瞑った。

 どしっと何か熱くて固いものが、がしりと自分の腰に巻きついて、グンッと後方に引っ張った。少年は息苦しさと軽い衝撃を受けたが、想像していたような痛みは無い。身体が宙に浮いている、と千秋は思った。


「な、なんだ!?」


 目を開けてみれば、ぶらりと自分の手足がぶら下がっているのが見える。腹には、あの気味の悪い怪物のものではなく、人間の筋肉質な腕が巻きついていて、自分の身体をその腕一本で荷物のように運んでいるらしい。


「いてっ」


 その腕に巨木の根元まで運ばれ、投げるように放り出された。べしゃりとうつ伏せで地に落ちる。

 慌てて起き上がろうと腕に力を入れると、ぐっとより強い力で頭を地面の上に押しつけられた。


「動くな」


 男の声だった。


「――え」

「ここでじっとしていろ」


 行われたのは殺戮だった。

 肉を斬り裂く音とともに、黒い液体があたりに飛び散った。


 血だ。


 びちゃっ、どうっ、と大きくて重たいものが血だまりの中に倒れ込む音がする。

 それはピクピクと微かに痙攣し、やがて動かなくなった。命が消えたのだ。

 先ほど自分を襲った大きな『何か得体のしれない怪物』の最期を目の当たりにして、千秋は安堵よりも先に心が抉られるような不快感を覚えた。

 一歩遅かったなら、死んでいたのは千秋のほうだっただろう。


「あ……う……」


 血の滲む大地の上に立つ男に、千秋は呆然と目を移した。

 地面を踏みしめるのは使いこまれた革製のブーツ。ブーツインしたズボンの生地は染色もされていない素材そのままの粗末なものだ。腰に巻きついたベルトには、ダガーナイフとサバイバルナイフ、それに大ぶりの鞘が提げられている。

 鞘の中身はといえば、一目で大柄な男のものだとわかるゴツゴツした大きな手の中に握られている。両刃の片手剣であることから、本来は盾やガントレットを装備する用途に作られたものとわかるが、男はその剣と、ナイフ2本以外何も持ってはいなかった。

 その片手剣の刃先は先ほど斬った何ものかの血で濡れている。男は軽々と剣を振り払い、布切れで血を拭って鞘に収めた。

 男は革製の胸当てをしただけの、無防備な背をこちらに晒している。

 だが、それは油断ではないのだ。千秋が無力であり、かつ、何か行動したならすぐに察知できるだけの能力があることの表れなのだ。


「おい」

「ひゃいっ」

「……」


 対面しないまま声を掛けられると思わなかった千秋は、思いっきり舌を噛んだ。男はゆっくりと振りかえり、顔を怪訝そうに歪めて千秋を見た。


「……喋れるか」

「はっ、はい!」

「先ほどは、悪かった。急いでいたものだから……立てるか?」

「あ、すいません、ありがとうございます」


 千秋は差し出してきた男の手を借り、慌てて立ち上がった。

 並んでみれば、男は千秋よりも頭二つ分も大きい。千秋には逆転することのできない体格差だ。


「あの……あのでかい怪物って」

「もう、死んでいる。私が殺したから」

「あ……そ、そうっすか」

「ああ」


 千秋は男が背を向けた奥にある先ほどの『何か』をチラッと見てから、再び身を震わせた。言葉の通じない怪物に襲われる恐怖が、あんなに死をまざまざと感じさせるものだとは知らなかった。自然の野山でさえ珍しいビルに囲まれた都会で平穏に暮らしていた千秋には縁のないことだったからだ。


「あのデカブツって、何なんですか?」

「悪いが、話している時間はない。真新しい血の臭いを嗅いで、新たな『魔物』が来るだろう。群れで来られると厄介だ。一旦ここを離れよう。ついてこい」

「まもののむれ……って、はは、そんな。RPGじゃないんだし」


 あまりに非日常的な単語が出てきたことで、千秋は乾いた笑いをあげた。だが、男は千秋の言葉に構うことなく、さっさと『魔物』の死体のある方角とは逆に歩いていった。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ。オレを置いて行くな……行かないでくださいよっ!」


 鬱蒼と茂る木々の闇の中に、今後出会える確証もない唯一の人間が消え行こうとしていた。千秋は慌てて男の後を追った。






■ ■ ■






 男に案内された場所は、川沿いの見通しのいい開けた場所だった。焚火の跡やサンドバッグ大の長い荷物のようなものが置いてあった。一枚布を巾着のように上部の口を絞りあげた形の、簡素な袋だ。着替えと食糧を数日ぶん入れただけでパンパンに張ってしまいそうな大きさだ。

 野宿の跡なのか、用意をしていただけなのかは分からない。

 男は荷物の近くに座ると、千秋にも座るように促した。立ちつくす理由もないので、素直に従い男のすぐ近くに座った。


「ここは魔物が出ないんですか?」


 男は答えなかった。代わりに、サンドバッグ状の円筒形の荷物から黒く光沢のある素材でできた小さな袋を取り出した。


「なんすか? それ」

「……火をつける道具だ」

「はあ。つか、整理上手っぽいっすねえ。袋にちっさい袋入れて整理してるとか、フツーにすげえ。オレなんかカバンいっつもぐちゃぐちゃですよ」

「黙っていろ」

「あ、邪魔でしたか。ごめんなさい」


 火をつける道具、なんてなぜわざわざ遠まわしな言い方になったのだろうか。チャッカマンだのライターだの商品名がないってことは、火打ち石や火起こしの木と板みたいな原始的なものなんだろうか。

 こちらの話を聞いてくれるまで、時間が掛かりそうだなと千秋は思った。


「なんだかな……」


 自然に頬を掻き、ふと、千秋は右手になにか蒼いものが付着しているのに気がついた。


「なんだ、これ?」


 左手の指で擦ってみると、ぱらぱらと粉状になって剥がれた。感触はなめらかな砂のようだった。キラキラと輝き、千秋のズボンに落ちた。

 変なものに触っただろうかと周囲を見渡すと、座るときに手をついたらしい地面に、手についていたのと同じ蒼い砂があった。注意深く見てみなければ分からないが、その砂はキラキラと蒼い光を放ち、タコ糸くらいの太さで線を描いている。焚火の周囲を大きな円をつくって囲っているようだ。男と千秋はちゃんと円の中に入っていた。


「……ん? これっていわゆる――」

「【行使する、炎の力を封じ込めた聖なる物質よ】」

「へ?」


 聞き取れない言葉を耳にして、千秋は慌てて振り返った。男の武骨な手の中には細長い紙のようなものが収められていた。


「【自ら燃えよ】」


 と、次の瞬間、紙の端にボウッと音を立てて炎が発生した。ガスバーナーにいきなりスイッチを入れたような激しさだった。炎のついた紙はその勢いでは一瞬のうちに燃え尽きてしまいそうなのに、一向に灰になろうとしない。それどころか少しの変化も見せずに、ずっと炎の勢いを保ちつづけているのだった。

 男はその紙を焚き木のなかに放った。見る間に火は燃えうつり、キャンプファイヤーなんかで聞いたことのある、おなじみのパチパチという木の爆ぜる音がし始める。


「わ、わーお……。なんつうか、これは」


 感想に困った。ちょっと見ただけでも、現代科学じゃ証明できなさそうな現象だった。

 例えて言うなら、――まるで『魔法』みたいだ。


「……今のは、『魔法』の行使だ。力を込められた聖なる物質<マテリアル>を消費して行使する。魔法行使の言葉<ヴェムノム>を使うことができれば誰にでもできることだ。お前は、知らないのか」

「魔法……? ヴェムノム? えーっと、ヴェノム、なら、聞いたことあるんですけど。英語でちょっとヤバめな意味だったよーな?」

「なるほど。知らないか」

「知ったかは認めてもらえないんすね、あはは……」

「お前は」


 男は少しだけ考えるようなそぶりを見せ、次いで千秋の全身に観察するような視線を向けた。

 千秋はオーソドックスなどこにでもある詰襟の学生服を着ている。襟には桜を象った校章と、学年を表すローマ数字の2のピンが嵌っている。先ほど逃げる際にちょっとボロボロになってしまったが、さすがに三年間持つように設計されているためかまだまだ着れそうだ。スニーカーは泥まみれで汚い。洗うか破棄して新しいものが欲しいくらいだ。


「お前のような男、いや、子どもを私はこれまで一度も見たことがない」

「こ、子どもって! あなたから見たらそりゃ子どもでしょうけど、言い直してまで言う!?」

「魔法行使の言葉<ヴェムノム>を知らない。聖なる物質<マテリアル>の入った特徴的な袋を知らない。武器も防具も持たない。命知らずにこのノーヴェルヴィアに入った。子どもと判断するに充分な要素だと思うが」

「そ、そーなんすか?」

「子どもと言われて不服か」

「特に不服ってわけじゃないんですけど、けど」


 男の冷静な口調で淡々と話されるとなぜか調子が狂う。聞きたいことはたくさんあるのだが、ありすぎてどれから聞いたらいいのか分からない。


「命知らずは子どものすることだ。知らぬから自然の摂理に裁かれる」

「それって、どういうこと? 知らないのが罪みたいなこと?」

「罪? 咎められることではないな。知らなければ命を落としても仕方がない、それだけのことだ」

「い、命……って。……マジ?」

「まじ? とは?」


 真面目な顔で聞き返されたが、千秋には軽い調子で「本気で言ってるんですよねー」なんて問いかけ直すことはできなかった。事の重大さにやっと頭がおいついてきたのだ。

 どうやらここは、獰猛でおそろしい大きな動物、『魔物』がいて、<マテリアル>を使って<ヴェムノム>を唱えなければ使えない『魔法』があって、武器や防具の必要な世界らしい。

 丸腰の千秋が一歩進めば、きっと、待っているのは――死。


「う、あの! 知ったかしてすんません。オレ、実は何にも知らないんです。ていうか、えっと、ここはどこなんですか。そんな危ないところなんですか? ノー……なんでしたっけ?」

「ノーヴェルヴィア。<審判の葉>と呼ばれることもある、この山の正式名称だ。現在位置は麓の村から歩いて二日ほどの距離。お前のような子どもが立ち入っていい場所ではない。何も知らないと言ったな。なぜ、何も知らぬのにここに立ち入った?」

「あー。いや、だから……。分かんねえんですよ。なんも、なんも分かんねえんです」


 千秋が必死に首を振ると、ようやく、男も詰問の態度を和らげる。


「ふむ。分からないというのは、記憶がない、あるいは自分の意思で来た訳ではないということか」

「はい。オレ、気づいたらここにいたんです。こんな森――じゃなくて山? があるなんて、全然知らなかったから……。なんつうか、オレがいたところって、ノーヴェルヴィアとかいう山から、すっげえ遠いところにあるんだと……思います。オレもよく分からなくって、あの、ちょっと、うまく説明できないんですけど……、気づいたらこの森にいて。ホントです。なんか、こう、はっと我に返った時には、一瞬のうちにノーヴェルヴィア、みたいな。目覚めた時にはノーヴェルヴィアでした。みたいな。トンネルくぐったわけじゃないし、変なもんに触った記憶もないし、ただ学校行って帰ってただけなんですけどね。で、そんで、とりあえず道っぽいところを辿ろうと思って移動してたら、あの、ワケわかんねーでっかいヤツ、『魔物』? に出会って……。あー、すみません。分かんないですよね。こんなんで分かります?」



 自分の状況を分かりやすいように説明していたはずが、考えながら話していると段々と曖昧さが増していく。

 千秋は自信がなくなってきて、後半は呟くような声量になり、とうとう話すことすら諦めてしまった。


「お前が分からないようなことを、分かれと言われても困る」

「あはは。ですよねー。的確すぎ」


 肩を落とし、項垂れた千秋の頭に、ぽん、と大きくあたたかい手が置かれた。


「つまり。とにかくお前は、遠いところから来たと」

「はい」

「だが、それがどこだかわからない」

「そ、そうっすね」

「ここの場所も分からない」

「めっちゃアホみたいですけど、そーっす」


 男が的確に現状を言い当ててきて、千秋はほっとして何度も頷いた。男はふむ、と顎に手を当ててしばらく何かを考えるそぶりを見せた。

 ピチチチ……と何かの鳴き声がした。羽ばたく音も聞こえる。それが鳥なのか、翼を持つだけの違う生きものなのか、千秋には分からない。

 分からないことが千秋には多すぎた。


「ゆくところがない、現状どうするつもりもない」

「へ? え、えーっと、そうすね」

「ゆくところがないのなら、私が面倒を見てやろう」


 男は、命を助けてくれただけにとどまらず、親切にも面倒を見てくれるつもりらしい。

 千秋はまじまじと男を見つめた。

 男は――千秋の感覚では――年の頃は二十代後半ほど。

 金色に輝く瞳。切れ長の目。日本人ばなれした彫りの深い容貌。鍛え上げられた筋肉を覆う浅黒い肌。短く切りそろえられた赤みがかった黒い髪。どれも野性味を帯びているのにどこか美しいと感じさせる、この男に似合った造形だった。

 千秋は少しだけ見とれて、イケメンっていうより男前だな、と訳の分からない感想を抱いた。


「ま、マジで? じゃなかった。本当にいいんすか? オレ、えーっと、自分で言っちゃうけどめっちゃ怪しくないですか? なんも知らない、できない、超お荷物なんですけど」

「子どもを守るのは年長の義務だ」

「こ、子どもって……」


 もう高校生にもなるのに改めて子ども扱いされるとは思わず、少しはあったプライドのかけらがうずくが、確かにこの訳の分からない世界では千秋は無力な赤子状態だった。

 千秋が逃げるしかなかった『魔物』を一刀のうちに切り捨てる能力と『魔法』を持つ男の庇護のもとに居た方が、生存確率は高いだろう。プライドなど命の前には捨てるべきものだ。

 そもそもなぜ自分がこの世界にいるのかすら、千秋はまだわかっていないのだ。訳の分からないまま死ぬのは嫌だった。


「うう、お願いします! またお世話になりま……っつーか、さっきのお礼がまだでした」


 千秋は改めて男にまっすぐ向き直り、正座をして姿勢を正すと、がばっと45度のお辞儀をした。


「危ないところを助けていただいて、ありがとうございました!!! 助かりました。マジ死ぬかと思いました!! じゃなくて、えーっと、あなたさんが助けてくれなかったら、オレ確実に死んでたと思います」

「礼はいらない。年長として、『出来る人間』として当然のことをしたんだ」

「いや、でも、やっぱこういうのはちゃんとしとかないと。あざーっす!」


 何分経っただろうか。その間ずっとお辞儀をしたままの千秋に呆れたのか、男が小さくため息をついた。


「あなたさん、ではない」


 千秋は顔を上げて、男の顔を見た。わずかに、固い印象のあった顔つきが柔らかくなっているような気がした。アホみたいなやりとりしかできてない気がするが、なんとなく心を許されたようで嬉しい。


「私の名前はジャックという」

「あ! オレは野々部千秋っす」

「ノノ?」

「あ、違う。名前は千秋のほう。ち・あ・き」

「チ・ア・キ」

「そう。千秋」


 一音一音確かめるように区切った口の動きを、ジャックは忠実に再現しようとする。


「チアキ……千秋」


 繰り返される自分の名前がくすぐったくて、千秋ははにかんで頬を掻いた。






■ ■ ■

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