第一章④
鋼の魔女、甲原ルッカ、十四歳。
彼女が日本から新大陸シンデラにやってきたのは今から丁度一年前の春。
嘉永五年、西暦一八五一年の三月のことだった。
ルッカの父は蘭方医甲原テッシュウ。将軍家の御用医であり、テッシュウには旗本の身分が与えられていた。ルッカは江戸城の東に位置する学問所に通い、同年代の魔女たちと共に学んでいた。学問所では魔法の研究はもちろんだが、儒学、漢学を基礎とした、ヨーロッパ文化の比較研究も公然と行われていた。語学教育も盛んだった。ルッカは語学の成績がとてもよかった。
幕府に仕える一部の魔女たちは流入してくる諸外国の文化を積極的に収集していた。長く続く鎖国政策だが、鎖国はあくまで一面的なものだった。文化交流の窓口は様々な場所に、様々な形で存在していた。歴史が進み、様々な技術が登場してくるにしたがって、日本に流入してくるものの量と、その勢いは日に日に増していく。新しい世界の登場、あるいは変化の兆しは、それを体感する魔女たちの目にはよく見えていた。それは古い世界の危機でもある。連日幕府上層では、いつ新世界への舵をきるべきかと議論が続いていた。速やかな体制の移行、具体的な新時代の姿がイメージされていた。そこへ新大陸シンデラに漂流したという土佐出身の一人の男が登場する。男はシンデラの様々な情報を幕府にもたらした。その情報の中に、ゴールド・ラッシュがあった。
ルッカはゴールド・ラッシュのことを幕府の姫から聞いた。姫はまだ十一歳で、魔女に目覚めたばかりだったが、無類の女好きだった。姫は学問所に視察に訪れた際、ルッカのことを気に入り、屋敷に招くようになった。建前は魔法の研究だったが、怠け者の姫は魔法の研究に熱心じゃなかった。いつもルッカを正座させ、太ももの上に頭を乗せ、匂いを嗅ぎ、一方的にしゃべってばかりいた。内容は幕府に仕える魔女たち人間関係についての話だったり、地方の姫たちから届く愛に溢れた手紙の話だったり、城下で流行っている魔女の小説の話だったり、襖に耳を当てて盗み聞きしたという幕府の機密事項だったり様々だった。ゴールド・ラッシュのことも、姫を膝枕しているときに聞いたのだった。
ルッカがそれを聞いた時、同じ天体の話を聞いているとは思えなかった。姫がルッカを困らせるためにする猥褻な話の方がずっと現実味がある。ルッカは江戸から出たことがなかった。世界はこの城下だけだった。だから想像には限界があり、姫に上手く感想を伝えられなかったと思う。
ゴールド・ラッシュの話を聞いてから数日後のことだった。学問所で同輩の魔女、徳富アオバが病に倒れたのだ。ルッカは父のテッシュウとともに彼女の屋敷に訪れる。彼女の容態は安定したが、その病の原因は不明。アオバは闘病生活を強いられることになる。
テッシュウに分からないことが、医学に素人のルッカには分かるはずはない。それでもルッカは医学を研究しながら、少しでもアオバが良くなればと、湯の花の収集を始めた。確立の小さな可能性に掛けているな、とルッカは客観的に自分の考えと行動を評価していたがしかし、科学ではまだ解明されていない温泉の効能に掛ける、それくらいが、ルッカの考えが及ぶ範囲だった。
シデンに出会ったのはルッカが草津温泉に出かけ、湯の花を採取していたときだった。彼女はほんのりと紫色を輝かせ、L字の針金を両手に持ち、草津温泉街を歩き、ダウジングしていた。シデンの後には白い浴衣姿の男性が数人続く。なんだろう? ルッカは彼らの最後尾に着いて一緒に歩き始めた。シデンは草津温泉街中心に位置する湯畑から東の方に歩いて行く。徐々に勾配がきつくなり、上流の方から流れてくる小川に出た。シデンは躊躇うことなく小川に足を入れる。水の量は少ない。溺れる心配は皆無だが、彼女の足取りは不安定だった。
小川のちょうど真ん中あたりでシデンの針金はゆっくりと開いた。男たちの歓声が上がる。シデンは色を出すのを止めて振り返って言った。「ココ掘れ、わんわん」
男たちは鋤や鍬でシデンの指摘した小川を掘り始めた。しかし苦戦している。少し離れた場所から見ていたルッカは、着物の裾を捲って川に入り、彼らに近づき協力を申し出た。この時初めてシャベルを編んだ。ルッカのシャベルは硬い岩の層を簡単に砕いた。瞬間的に吹き出すものがあった。温泉だった。温泉は噴水のように吹き出し、手の届くところに虹を作った。ルッカは温かい液体に濡れて気分が良くて笑った。シデンとは一言も言葉を交わしていないのに、なぜか彼女はルッカの手を握り、体を密着させていた。「とてもロマンチックですね」
その日はシデンと一緒に群龍館という温泉宿に泊まった。彼女は伊香保温泉街出身の魔女。今日は草津温泉委員会に呼ばれ、温泉を掘り当てにやってきたのだという。お酒を飲んだせいもあるだろう。ルッカはシデンのことを気に入った。幕府の姫にするみたいにシデンに膝枕してあげる。膝枕しながらルッカはシデンに自分のことを話した。思えば、江戸から離れた場所で、こんな風に話すことは今までなかった。少し興奮する出来事。気付けばずっとしゃべりっぱなしだった。江戸のこと、漢学の専門的なこと、シンデラのゴールド・ラッシュのことも、シデンがなんでも楽しそうに聞いてくれるから、楽しくなってしゃべった。お酒を飲みながら話した。アオバの病のことも話した。彼女のために湯の花を収集していることも話した。
「……ふぁれ?」いつの間にか、ルッカはシデンに膝枕されていた。「なんで?」
「うーん、あながちルッカ様の考えは間違ってはいないかもしれませんよ」シデンは口元に指を当て言う。
「え、何のこと?」
「黄金の湯のことは知っていますか?」
「だから、何のこと?」ルッカは目を擦る。ああ、呑み過ぎたんだと思う。
「古い時代から伊香保にある、伝説です、」シデンはルッカの頭を優しく撫でながら語り出した。「昔々、日本が黄金郷と呼ばれた時代、伊香保には黄金の湯と呼ばれる、金色に輝く温泉がありました、その温泉に体を沈めるとあら不思議、瞬く間にあらゆる傷が癒え、肌も産まれたばかりのようにつるつるになったのだそうです、その噂を聞いた東国の武士団は病に伏していた姫を籠に乗せ伊香保までやってきました、姫は自分では歩けないほどに衰弱していました、家来たちは慎重に姫を湯に沈めました、するとどうでしょう、姫は家来たちに向かって微笑んだのです、病は消え、失った魔力さえも姫は取り戻したといいます」
「ありがちな話ね」ルッカは微笑む。
「はい、全国各地でこのような伝説はあるでしょう、千年以上前、黄金郷と呼ばれていたこの国ではよくあった話です」
「だから?」ルッカはシデンが何を言いたいのかがよく分からない。
「新大陸シンデラを掘ってみてはどうでしょうか?」シデンは笑窪を作って言う。「シンデラの土地を掘って黄金の湯が出たら、その湯の花を持ってくる、というのはどうでしょうか?」
「んふっ、」ルッカはシデンのお腹に顔を埋め、彼女の匂いを嗅いだ。「じゃあ、シデンも一緒にシンデラに行ってくれるの?」