ミケの横顔
ゴールド・シンフォニィから一番近い病院は、ハーバードの大学病院だった。建物から出た時、ちょうど馬車がゴールド・シンフォニィの建物の前で止まった。それに乗せてもらおうと思ったけれど、馭者は僕の声を無視して、ゴールド・シンフォニィの建物の中に入っていった。馭者は少女だった。彼女が何の用があって入っていったかは分からなかったけれど、僕は気を失ったままのミケを馬車に乗せ、そして手綱を握って馬を走らせた。
すぐに病院についた。
医師たちはミケの焼きただれた手を見て、表情を変えた。すぐに治療が施された。世界の最善の医療技術で彼女の手を治療した、と医師は僕に説明した。僕はベッドの脇の椅子に座っていた。ベッドにはミケが静かな表情で眠っている。僕がミケの愛らしい顔を確認して息を吐いたタイミングで、しかし、と続けた。しかし、彼女の右手の火傷は表面の肉と皮だけでなく、神経まで焼いている、指先にはもう、感覚は戻らないだろう、手が残っているだけで幸運だ、感染症の危険がある、様々な危険がある、だから、指先を落として、そう、第二関節まで落とした方がいい、彼女が目を覚ましたら、それを彼女に誰かが伝えなければいけない、私か、君か?
「……僕が伝えますから、」僕は声の震えを抑えることなんて出来なかった。体も震えていた。視界も、定まらないまま、涙が僕の目に溢れて、どうしようもない。「僕がミケに説明しますから、……いえ、本当に、ミケのこと、ありがとうございました」
医師が部屋を出て行く。
しーんとした室内は、ミケの静かな寝息だけが聞こえている。
僕は背中のカーテンを開けて、窓の外を見た。
銀色の月が綺麗だ。
風が強いのだろう、外に立つ木は揺れている。
僕はカーテンをゆっくりと閉め、ミケの顔を見つめる。
僕のせいだ。
彼女の右手がこんな風になったのは。
僕が彼女に手紙を送り、誘わなければ、今だってミケはサクラメントのパブでピアノを弾くことが出来たはずなのに。
僕はファーファルタウ王立楽団の指揮者だった。ミケは楽団のピアニスト。ミケは天才だった。独創的できっと、ファーファルタウの宮廷で一度もなかった音楽をやろうとしていた。僕は彼女のピアノを愛していたし、彼女自身のことも愛していた。だから、僕はミケの情熱的な言葉に耳を傾け、彼女が満足する音楽をオーケストラで実現させるために、本気になった。その試行錯誤の日々はとても楽しかった。ミケに告白して振られたときでさえ、楽しかったのだ。
「カサブランカとは特別な関係になれない、だって私には夢があるからさ、カサブランカの気持ちは嬉しいし、そういう気持ちに触るのは新鮮、でもね、私には夢があるから、きっと、ノイズになるようなことはしたくないんだと思う」
「僕はノイズ?」
「うん、ノイズ」
ミケは僕の頬にキスをして、ピアノを弾き始めた。ミケと特別な関係になれなかったことはとても辛いことだったけれど、同時に彼女のことをもっと好きになった。どうしてだろう。理由なんてないのかもしれない。とにかく、ミケと音楽を作っていくのは、とてつもなく楽しかったのだ。
そして作り上げた一つの音楽。それによって王立楽団はガラリと変わった。王立楽団のメンバでミケと僕が作り上げた音楽を反対する者はいなかった。楽団の形式張った音楽性に皆、飽き飽きしていたのかもしれない。確かトランペット奏者の最古参のマルクが言ったのだ。「これは産業革命だよ、カサブランカ!」
新しい音楽は女王の誕生祭に披露された。女王はとても愉快な表情を僕に見せてくれた。こうやって新しい姿を女王に誉められたことは、僕にとってとてつもなく幸福で、僕にとっては夢が叶ったような、そんな気分だったのだ。そしてミケだって、僕と同じ気持ちのはずだと思ったのだ。
でも、僕はミケのことなんて分かっていなかった。
ミケがファーファルタウを去ったのは突然だった。いつものようにリハーサルをしていた夜だった。ミケはその夜、リハーサルになかなか現れなかった。彼女が遅れてくることは珍しくなかったから僕はあまり気にしていなかった。途中である曲の譜面を忘れたことに気付き、休憩中に僕は家に戻った。
銀色の月の明かりが窓から溢れ、机の上を照らし出していた。
そこに譜面があり。
そしてその横に、手紙があった。
僕は宛名を確認した。ミケの字で、ミケの名前が書かれていた。封を開け、僕はゆっくりと手紙を開いた。長い手紙じゃなかった。短い手紙だった。
シンデラに行くと。
もうファーファルタウには戻らないと。
書かれていた。
僕はミケの気持ちなんて分からなかった。
何を考えているのか、分からなかった。
僕は急いでオーケストラの皆がリハーサルをするホールに戻った。
戻ったが、しかし、言うべき言葉が見つからない。
僕の顔色の悪さを見て、メンバが心配そうに何があったのか聞いた。僕は答えた。「ミケ、一人で旅行に行ったらしい、シンデラに、」僕は剽軽に振舞った。「港への最終列車って、もう、ないよね?」
僕はファーファルタウの魔女の郵便屋に駆け込んだ。その場で手紙を書き、ルーシィに港まで飛んでもらうことにした。夜七時を過ぎたため、高額な料金を支払った。ルーシィは確かに届けてくれた。ミケのサインを見ることは出来たが返事はなかった。
ミケがいなくなった王立楽団は僕にとって、少し、いや、もう全く、面白いものではなくなっていた。表面では情熱的に振舞い、ミケと作り上げた音楽をさらに新しくするためにいろんなことをしたけれど、何もかも楽しくなかった。ただ女王様を微笑ませるだけの音楽を作る日々。
気付けばミケとともに新しい音楽を作り続けていた僕のことを、僕は思い出せなくなっていたし、あの楽しかった記憶でさえ、忘れてしまったように、色を失った。
あの日の音楽が思い出せない。
どこに消えてしまったのだろう。
ミケはまだ、覚えている?
二度と戻れない日々のことを。
でも、僕は。
戻りたい。
そんな風に思い続けた時間は長かった。ミケに何度も手紙を送り、ファーファルタウに戻って来ないか、って書き続けた。僕は彼女が僕の手紙の誘いに絶対に乗るわけがないと思っていながら、そんな手紙を送り続けた。ミケと少しでも繋がっていたいという、細やかな抵抗だったのだ。ルーシィは年中眠そうに欠伸をして一見頼りなさそうに見えるけれど、絶対にミケに手紙を届け、サインを貰って来た。
そして僕がボストンでゴールド・シンフォニィを設立するという内容の手紙もルーシィはきちんと届けてくれた。交響楽団の設立には様々な苦労をしたが、マーブル財団のおかげで実現された。まずはパブの中で演奏して、それが上手くいったなら、シンフォニィ・ホールを作ろう、というのが彼らの提案だった。彼らの傘下に入ることになるし、パブの地下は研究施設だという話だったが、僕はシンデラで交響楽団をやれればなんだってよかったのだ。
そしてミケは今日、僕に会いに来てくれた。
「違うわ、せっかくボストンまでのチケットをくれたから、仲間たちと、ああ、今はいないんだけどさ、別行動中、とにかく、カサブランカの楽団に入るために来たわけじゃないわけ、なんていうかな、うん、そう、ピクニックに来ただけなんだから」
僕はミケを抱き締めて、泣いた。嬉しかった。また会えて。もう会えないかもしれないと、どこかで思っていたから。
涙が止まらない僕の頭を撫でてミケは言った。「しょうがないな、しょうがないな、少しだけ、少しだけだからね」
ミケはピアノを用意させた。オーケストラのメンバはミケの登場にとても驚いていた。懐かしい、ミケの奏でるピアノ。
ミケは変わっていなかった。
リズムも、技巧も格段に上手くなっていたけれど。
彼女の天才的に無邪気にピアノを奏でる姿勢は何も変わっていなかった。
本当に、あの頃に戻ったような気がした。
いや、あの時の続きが今からまた、始まり出したような。
そんな気分になった。
酒に酔ってステージに歌う魔女のせいかもしれない。
なぜか、ミケのピアノとの相性は最高。
僕は彼女もゴールド・シンフォニィのボーカリストとしてメンバに入れようと思った。
新しい何かが始まる。
そんな予感に胸が溢れた。
しかし、その時だった。
マーブル財団のマリエ博士が突然、発狂。髪の毛の色を紅くして。
ミケの右手をこんな風にしてしまったのだった。
「……なんでよ、」僕は呟き、包帯に巻かれたミケの右手を見つめ、囁く。「どうして、どうしてなんだよぉ」
「……また泣いている」
ミケの小さな声が聞こえた。顔を見ると、微笑んでこっちを見ている。「泣き虫め、男のくせに」
僕はミケになんて言ったらいいか分からなかった。「……大丈夫か?」
「ちょっと頭が痛いな、」ミケは目を閉じ、左手で額を触る。「鎮痛剤を打ってくれてるの? なんだかぼうっとしてる、」そしてミケは自分の右手を持ち上げ、目元に近づける。「もしかして、もう駄目?」
僕は黙ってしまった。
なんて説明したらいいのだろう。
指を切断しなきゃならない。
そんなこと。
僕が言えるはずがないじゃないか。
「感覚がないわ、痛みもない、」ミケは右手を乱暴に空中に揺らしている。「コレ、指を落とさなきゃ駄目なんじゃないの?」
「……ごめん」
「なんで謝るのさ」
「だ、だって、」僕はミケの横顔を見る。「君を、泣かせてしまったから」
「……そう、」ミケは鈍感を演じているみたいだ。「私、泣いてるんだ、知らなかった」
ミケは僕に顔を見せないように、向こう側に顔を向けた。表情は分からないけれど、ミケは静かに泣いている。体が少しだけ震えている。
僕はミケを抱きしめることも出来なかった。
「……私ね、」ミケの声は掠れている。「店に火をつけられて悔しかったんだ、だから怒っちゃった、カサブランカの店だから、許せなかった、素敵なステージに、大きなミラーボール、下手くそなオーケストラ」
ミケがククッと小さく笑うから、僕も無理に笑った。「メンバは皆こっちで集めたんだ、王立楽団の連中もこっちに来たがったけど、僕はそれは違うって思って、どうだったかな?」
「はずれよ」ミケは素早く言った。「大はずれだ」
「そう、」僕は息を吐いた。「やっぱり、ミケと同じ気持になるんだね」
「何の話?」ミケは袖で涙を拭いて、天井を見た。「これからでしょうが、これから」
「……これから?」
「これからゴールド・シンフォニィの音楽を作っていくんでしょう?」
「……そうだね、」僕はなんだか、ミケに励まされた気がした。「そうだ」
ミケは左手と右手を持ち上げ、目を瞑り、中空でピアノを弾く素振りをした。
僕には音が聞こえた。
ミケのメロディが聞こえている。
僕は人差し指を軽く立てて、タクトを振った。
あの時の、音楽の続きが、聞こえる。
「ミケ、」僕は勇気を出して言った。「ずっと、ここに、僕の傍に、いてくれないか?」




