第一章②
採掘場から僅かに離れたサクラメントの街の中心に位置する巨大な交差点の角に、クァンドというパブがある。夜の遅い時間。騒がしい時間は既に過ぎている。シンデラのピアニストが奏でる音も主張を抑えている。カウンタ席でボトルを傾けるのは、傭兵風の髭面の男、露出の多い服を着た女装男子、黒い頭巾を被った魔女。それぞれ離れて座っている。会話は聞こえない。カウンタの奥ではイタリア人のマスタがニコニコとした表情でこっちを見ている。
テーブル席に座っていた伊達マイコは彼から目を逸らした。奥のピアニストの背中を一度瞳に映してから、対面に座る神尾ケンタロウを見る。
ピンクの髪の色。破裂する魔法使いのケンタロウは目を開けたまま眠っている。寝息は立てていない。眠っていると分かるのは、彼の目の色が暗いからだ。彼は今日、様々なものを破裂させた。疲れたのだろう。エネルギア営為充電中、という感じ。それにしても椅子の上でよく眠れるものだ。体の軸をゆっくりと左右に揺らしながらバランスを上手く取っている。
マイコは五十度のブランデを口に含み、ゆっくりと喉に通す。熱を感じる。シガレロを口に咥え、火を点ける。煙を肺に送り込み、煙を吐く。脳ミソが一瞬クリアになり、すぐに微睡む。
マイコもそろそろ眠い。
宿に戻ろうか。
マイコはケンタロウの頭に手を伸ばした。ピンクの髪を触る。
その時、カウンタの奥から、食器やら調理用具やら何やらが床に落下したような甲高い音が響いた。
「失礼しました」マスタはニコニコとした表情のまま頭を下げ、カウンタの奥へ移動する。
おそらく奥の調理場でコックが躓いてあらゆるものを巻き込んで派手に転んだのだろう、マイコはそう推測する。
甲高い音に遅れること五秒、ケンタロウはビクッと体を震わせて、椅子から落ちた。
「ああ、もう、何やってるの?」
「……ココ、」ケンタロウは立ち上がり、周りを見回しながらマイコに聞く。「どこですか?」
「寝ぼけている?」マイコは煙を吐いて微笑んだ。
ケンタロウは後頭部を触って、マイコのことを見つめ、椅子に座り直した。「……いえ、あの、ああ、やっぱり、夢じゃないみたいですね」
「うん、」マイコはゆっくりと頷く。「夢じゃないんだよ、ココは現実だ、なぁに、宇和島に帰りたい?」
「マイコ様の髪の色が黒い」
「ええ、」マイコの髪は黒くなっていた。髪が黒いのは魔女が開花する十一歳の時以来だった。火の魔女のマイコの髪は今日のあの時までは赤かったが、あの時、ケースを開けて、そこから噴出された、墨、によってマイコの髪は黒くなった。つまり、あの紳士の罠に嵌った形になったのだ。「それも現実よ」
ケンタロウは両手で顔を覆う。「……ああ、僕のせいで、すいません、もう、なんていうか、僕には生きている価値が、限りなくゼロ」
「慰めて欲しいの?」
「いいえ、」ケンタロウは指の隙間を開けてマイコを見る。「でも、正直そういう気持ちがなきにしもあらず」
「ケンタロウの爪が甘かったんだ、」マイコは丸い目でケンタロウを睨む。「この髪の色はケンタロウのせい、酒もまずいし、シガレロもまずいし、ご飯もおいしくない、あらゆる感度が悪くなった、それはケンタロウのせい、ケンタロウの爪のせい」
「……すいません、」ケンタロウは泣きそうな顔で俯いてしまった。「本当に、すいません」
「なんだ、落ち込んでいる?」
「はい、いえ、でも、この気持ちは活力になります、マイコ様の髪の色を戻すための活力です、でも、ああ、なんでしょう、胸が、いや、もっと下の、この辺が、とてつもなく痛いです」
「恋?」
「はい、いえ、あ、でも、コレは叶わぬ恋、いえ、もちろん、僕がマイコ様のことをお慕い申し上げていることは事実、しかし、コレは叶わぬ恋、僕はマイコ様の家来であり、奴隷であり、犬です、それ以上ではありえないのです、」ケンタロウは目元を擦りながら早口で言う。「……いえ、しかし、今の気持ちはもっと、こう、とにかく、深い、深い傷です、何もする気が起きません」
「気にするな、」マイコは自分の黒い髪を触ってみる。潤いは皆無。「魔法が編めなくなったわけじゃないし、ただ少しの支障があるだけ、支障はまだ分類出来てないけど、それほどの影響力は感じない」
「気にしますよ」ケンタロウは腹部を抑えている。
「魔法使いを狙っているのかしら」マイコは頬杖付く。
「え?」
「髪の色を悪くするための罠、」マイコは人差し指を立てて、口元に運ぶ。「この意味は何か」
「……さあ、」ケンタロウは首を横に振る。「ただの罠じゃないんですか?」
「私たち以外にも沢山いるってこと」
「え?」
「クラウンを狙っている魔女たちが他に沢山いるのかもしれない、だから財団は手を打ってきた」
「ああ、それは、確かに、」ケンタロウは小さく頷く。「クラウンの情報は様々なものが入り乱れています、財団が情報を操作している可能性もあります、きっとそうですね、ああ、つまり、もう、最初から、僕らは罠に嵌っていたことに?」
「悔しいけど、そうらしい」
「ああ、破裂させて拳を振るうだけで何もかも解決したらスッキリするんですけど」
「とにかく急がなきゃ、傷を労わっている余裕はないよ」
「いや、でも、痛いから」
「ああ、はい、はい、とにかく宿に戻りましょう、」マイコは立ち上がる。「宿に戻ったら髪を洗って頂戴、存外、洗ったら、簡単に落ちるかもしれないしね」