第三章④
マイコはルッカと一緒に飛び立った魔女の一人の顔に見覚えがあった。マイコとケンタロウが泊まる宿がある交差点を挟んで対角線上のクァンドというパブの二階ベランダに溢れる魔法の緑。その生みの親の魔女の顔を、マイコは宿の窓から何度か見かけたことがあった。髪の色は悪かったが、可愛らしい目元に、濃い色の唇は彼女に間違いないと思った。確信していると言っていい。クァンドに行けば、ルッカに会えるのではないか、というのがマイコの期待である。
甲原ルッカ。
彼女は江戸城の東に位置する学問所に通っていた優秀な魔女だった。容姿端麗、頭脳明晰で、幕府のまだ幼い姫も彼女のことを懇意にしていた。マイコはルッカに直接あったことはなかったけれど、写真でその顔を見たことがあった。その顔はマンブルズ家の屋敷で目が合った魔女と等しい。
彼女が行方不明になったのは丁度一年前のことだった。アヤ姫の命令で幕府に仕える魔女たちが江戸中を探したが、結局彼女を見つけることは出来なかった。彼女が最後に目撃されているのは横浜。シンデラの蒸気船四隻が停泊中だった横浜での目撃だった。
行方不明になる前、ルッカは奇妙な行動を取っていた。日本各所の湯ノ花の収集。同門の魔女、徳富アオバの病を治す、そのために必要なのだと言っていた、というのが父甲原テッシュウから聞いた情報だった。アヤ姫はマイコをシンデラに送り出す際に、ルッカの捜索も合わせて命令した。「マイコ様、ルッカの匂いを少しでも嗅いだなら「紅華計画」よりもルッカのことを優先して頂戴、私はルッカにゴールド・ラッシュのことを話したことがある、ルッカは私に言ったわ、最後の膝枕をしてくれているときだった、日本には黄金の湯の伝説があるよね、アオバは治るかな、その伝説をヒントにしたら……、そう私に言った、もしかしたらルッカは横浜で蒸気船に乗って、ええ、誰の許可も得ずに、私の許可も得ずにシンデラに向かった可能性がある、ゴールド・ラッシュに沸くシンデラに、だから、マイコ様お願い、優先順位をよく考えて、難しいことだと思うけれど、ルッカは私の大事な魔女なんだ、だから、見つけたらすぐに私のところまで連れてきて、これは何よりも先立つこと、どうか、お願いします」
マイコたちが着くころにクァンドは丁度開店時間を迎えたようだ。三人の若い紳士のグループがベルの鳴る扉を押して中に入る。彼らに続いて、マイコとケンタロウは中に入った。三人の若い紳士はカウンタに座った。笑顔でグラスを磨くマスタの前だ。紳士たちは前のめりでマスタに何かを注文している。マスタは笑顔でそれに応じる。相変わらず、可愛らしい笑顔。彼女の笑顔に普通の男たちは夢中になるのだ。魔女も例外じゃないが、マイコはマスタよりもここで働くウェイトレスのソフィアの方が好み。マイコはとても恥ずかしがり屋だから、まだ一度も話したことはないんだけれど、彼女の歌を聞いて、遠い異国の地で、センチメンタルになった。だから、マイコはソフィアのことを気に入っていた。しかし今、彼女の姿はどこにもない。そしてテーブル席についてやっと気付いたのだが、今夜はシンデラのピアニストがピアノの前にいなかった。ピアノの音がない空気。とても違和感があって、奇妙だ。
カウンタの奥からコックの装いの見慣れない女の子が出てきた。注文を聞きにマイコたちのテーブルにやってくる。
「い、いらっしゃいませ、」彼女の笑みはぎこちない。前掛けから紙とペンを取り出し、マイコの頭の上の方を見ながら言う。明らかに慣れていないという感じ。「えっと、ご注文は?」
「ビールを、」マイコは言って、彼女に尋ねる。「……あの、いつものウェイトレスの娘は?」
「ソフィアのことですか?」
「うん、いないみたいだけど」
「もうすぐ来ると思うんですけど、ソフィアに何か?」
「ううん、別に、」マイコは微笑んで、マスタの方に視線をやる。一瞬だがマスタと目が合う。「あ、注文はビールだけでいいよ」
そう言うとコックはカウンタの方に行き、サーバを操作し始めた。途中でマスタがその作業を変わり、ジョッキ二つを片手に持ち、マイコたちのテーブルに近づいてきた。
「お待たせしたました、」マスタは笑顔のまま、ジョッキを置く。「お呼びでしょうか?」
「どうして分かったの?」マイコは泡を舐めてマスタに聞く。
「えっと、」マスタは指を立て、それを目元にやって微笑む。「目で呼びましたよね?」
「まだ乾杯してないですよ」ケンタロウはジョッキをこっちに傾けてから、ビールを一気に飲んだ。喉が乾いていたようだ。「くぅ、たまんないねぇ」
「そういう目をしていらっしゃいましたよね?」マスタは目元から指先を降ろし言う。「なんでしょうか?」
「その通り、素晴らしい、そうなの、マスタに聞きたいことがあって、」マイコはマスタの手を握り、空いている椅子に座らせた。耳元で囁く。「この上に住んでいる緑の魔女、東洋人の魔女のことなんだけれど」
「ネイチャのことですか?」
「ネイチャっていうのね、中国人?」
「細かいことは知りませんが、ええ、確か出身は、上海、と言っていたと思います」
「彼女は今、いるかしら?」
「上に?」マスタは天井を指差し言う。
「ええ、」マイコも天井を指差す。「上に」
マスタは微笑みを絶やさずに首を横に振る。「今はいませんね、今夜はピアニストもいないでしょう、彼女たち一緒に出かけてしまって、ああ、彼女たち、というのは、ネイチャと暮らしている魔女たちとピアニストのミケのことです、それから今日はなぜか、もう一人、知らない女の子がいましたね、その女の子も東洋人のようでしたね、ついさっきです、私は明日にしなさいと言ったのですが、聞かなくって、急いでいるみたいでしたね、細かいことは、ええ、知らないんですけれど」
マイコは目を細めて、目を瞑った。「どこに行くって?」
「ボストンです、」マスタは歯切れよく言って、そこで笑顔の濃度を低くして聞く。「……あの、ネイチャがその、どうかしたのですか?」
「いや、ちょっと、気になってね、」マイコは無理に微笑む。「同じ東洋人の魔女がいるなって思ったから、少し、会いたいなって思って、でも、どうしてボストンに?」
「ピアニストのミケの知り合いがボストンに来ているようで会いに行きたいと、一人、ボストン出身の魔女がいますから、里帰りに皆、一緒に付いて行ったのかな? いえ、細かいことは分かりませんけど」
「そう、ありがとう、」マイコはマスタに小判を渡して言う。「もういいわ」
「はあ、」マスタは要領の得ない笑顔をして聞く。「あの、失礼ですけれど」
「何?」
「この金貨の純度は?」
「百度」マイコは即座に返答する。
「本当?」マスタは疑う目をしている。
「伊予宇和島の精錬技術は、なんていうか、」マイコは首を竦める。「凄いんだから、この店に工学博士が来たら測定してみて、きっと驚くと思う、そして私に下らない質問をしたことを後悔すると思う」
「ありがとう」マスタは小判を胸元で抱きしめて微笑み、マイコたちから離れた。カウンタに戻り、紳士たちとの会話に加わっている。
「さて、乾杯、」マイコはジョッキを向こうに傾け、ビールを一気に飲み干した。「うーん、うめぇ、……けぷっ」
「なんですか、今の?」ケンタロウはマイコを見てニヤニヤしている。「凄く、なんていうか、反則的に、可愛いげっぷじゃないですか」
「さて、ケンタロウ、ねぇ、ケンタロウ、」マイコは空のジョッキをテーブルに静かに置いた。「ボストン行きの最終列車には間に合いそう?」
「ええ、」ケンタロウは頷き、きっと過去に一度だけ見たことのある時刻表を脳ミソの中で捲っている。「そうですね、急げば十分に余裕が発生します」
「変な言い方、つまり、ギリギリってこと?」
「チケットの方が問題ですね、」ケンタロウは腕を組み言う。「最終列車は混みますから」
「行ってお金を払えば、乗せてくれるかもしれないわ」
「簡単に行きますかね?」
「ここはシンデラよ、ケンタロウ、」マイコはテーブルの下で足を組み直す。「日本じゃないわ」
「……ここにもう一度来ることは、あるでしょうか?」
「うーん、ルッカ次第?」
「リンプに伝えてきます」
「恋心?」
「何言ってるんですか?」ケンタロウはつまらなそうに口を開く。「紅華のことについてですよ、マイコ様、少し待っていてください、すぐに戻ってきます」
「ギリギリまでいても構わないわよ」
「最近マイコ様のことがよく分かりません、困ったことだ」
ケンタロウはそう言い残し、店内から出て行く。マイコはシガレロを口に咥える。火が点かない。ああ、自分の髪の色が悪いからだと気付くのに、少し時間が掛かった。しょうがないのでテーブルの上のマッチに手を伸ばす。
マッチに火が付き。
ああ、これから先。
もし髪の色が戻らなければ。
私はずっとマッチを使わなければいけないのだなと思うと。
憂鬱だった。
煙を吐き。
白く煙る、空気の動きを見る。
二十九歳。
そろそろ自分の限界が見えてきた。
黒い髪は、その限界をよく分かるための、レンズだろうか?
違う。
関係ない。
限界を超えるために。
私はここに来たのだから。
そのための。
紅華なのだから。
マイコは目を閉じ思う。
「マイコ様!」
店の扉を開け、仕立屋のミストラル・リンプが姿を見せた。その登場には勢いがあり、憂鬱に埋もれそうだったマイコには鮮烈に映った。リンプはテーブルに手を付き急いでマイコの名前を呼ぶ。「マイコ様、マイコ様、マイコ様!」
「どうしたの?」マイコは微笑みながら眉を潜め、シガレロを灰皿に押し付ける。「眼鏡が傾いているわよ」
リンプは眼鏡の傾きを直さず、テーブルの上に置いた。そして深呼吸してから高い声で言う。「もう帰っちゃうんですか!?」
「まだ帰りたくない、」うっとりとした目元を意識して、マイコはゆっくりと横に首を振った。「でも、別れはときとして唐突に来るもの」
「そんな、嫌だ、」リンプはマイコの手を触って俯いた。「寂しい、嫌だ」
リンプの目から涙がマイコの手の甲に落ちる。
「……ケンタロウはなんて?」マイコはリンプの頭を撫でながら、リンプの反応が過剰だと思った。
「もうここには二度と来ない、だから仕事が終わったら、それを魔女の配達屋に頼んで日本に届けてもらえって」
「ケンタロウ、」マイコはリンプの後ろに立つケンタロウを見上げ、きつく睨んだ。「説明が足りないわよ、戦争の原因はどの時代でもどこの国でもどの天体でも、例外なく全部説明不足が引き起こすもの」
「え、急になんの話ですか?」
「さぁね、」マイコは首を竦めてリンプを見る。「ごめんね、リンプ、大丈夫よ、ええ、あの、大丈夫って意味分かんないんだけど、うん、えっと、安心して、すぐには帰らないから」
リンプは顔を上げて言う。「本当ですか?」
「うん、少しボストンに行って、それから今後の予定を決める、そういう予定を考えていただけ」
「ボストン?」
「うん、会いたい人が、そこにいるかもしれないから」
「……じゃあ、私も行きます」
「え?」
「ボストンに私も行きます、」リンプは真っ直ぐマイコの目を見て迫ってくる。手をぎゅっと掴んでくる。「私も連れて行って下さい」
「えっと、その、ええ、」マイコは困った。「別に一緒に行くのは構わないけど、……っていうか、どうして? ケンタロウがいるから?」
「なんでケンタロウの話に? ケンタロウは確かに優秀な助手ですけれど、違います、そうじゃなくて」
「優秀な助手はお前の方だ、」ケンタロウが即座に言う。「お前が助手で、僕が博士だ」
「お前、少し黙ってろ、」リンプは振り返ってケンタロウに怒鳴った。こんなに激しいリンプを見るのは初めてだ。眼鏡を取ると、激しくなるかもしれない。激しいリンプにケンタロウも押し黙った。でも、マイコを見るリンプの目はなぜか、ロマンチックだった。「……その、マイコ様、えっと、あの、」リンプはマイコに指を絡めてくる。「……言わないと、駄目、……なんですか?」
「……ケンタロウ、少し待ってて」
マイコはリンプの手を引いて店から出た。クァンドと仕立屋の間に隙間がある。薄暗くて細い隙間の奥まで歩いて、リンプと向かい合った。「……私の思い過ごしだったらごめん、ごめんさい、その、えっともしかして、ああ、駄目だ、……恥ずかしいなぁ、えっとぉ」
「大好きです、」リンプは言って、マイコに抱きついて来た。「私はマイコ様のことを愛しています」
「……冗談じゃなさそうね、はは、」マイコは笑いながらリンプの頭を触る。そして様々なことを考え直さなきゃいけないと思った。主にマイコとケンタロウとリンプの人間関係について。「……えっと、私、勘違いしていたのかな?」
「なんのことです?」
「リンプはケンタロウのことが好きなのだと思ってた」
「そんなことありえません、」少し不機嫌な調子でリンプは言う。「どうしてあんな男のことを好きになんてなれますか?」
「うん、そうなんだけど、でも、分からないな、リンプ、よくケンタロウのこと、聞いてきたよね?」
「それ以上にマイコ様のことも聞いたはずです、それにケンタロウのことを聞いたのは敵だからです」
「私がピクニックにケンタロウとリンプで二人で行けって言ったとき、喜んでいたよね」
「違います、企んでいたんです」
「何を?」
「ケンタロウを殺せばマイコ様は私のものだって、そのチャンスだって、思ったら、嬉しくなっちゃって」
「……なんていうか、」マイコは汗を掻いている。「魔女みたい」
「魔女ですよ、私」
「え?」
「私の瞳をよくご覧になって下さい」
リンプの瞳の位置はマイコの瞳の位置に近い。「……色が付いているわ」
「私、髪に出ないんです、目に印が出るんです」
「珍しい、気付かなかった」
「普段は細工した眼鏡で、魔女の色が見えないようにしていますから」
「……リンプ、一体あなたは?」
「街の仕立屋、ミストラル・リンプです、」リンプは首を傾けて微笑む。「レディに似合う服を着せるのが仕事です、でも、私は今、マイコ様にとても似合う服を着させたい、マイコ様、実は紅華はもう出来ているんです、あとはファンダメンタル・ピュア・ゴールドと遭遇するのみです、ケンタロウは優秀な助手でしたからすぐに完成に辿り着くことが出来ました、でも、ケンタロウだけだったら無理だったと思います、彼のアイデアは凄く優秀、しかし彼はそれを形にするほどの超絶技巧を持ってはいなかった、私がいなければおそらく計画は泡沫なものだったでしょう、私がこの街で仕立屋を開いたのはきっと神の定、私の天命はマイコ様のために超絶技巧を振るうことだったのです、だから一緒に行きます、どこまでも一緒に行きます、マイコ様には私が必要なのだと思います、だから、」
「キスしていい?」マイコはリンプの言葉を遮って聞く。彼女の瞳の色を見てから、マイコはずっとキスのことばかり考えていた。他のことは正直言って、考えてなかった。「私、リンプとキスがしたいわ」
リンプはマイコの唇を唇で塞いだ。
魔女とのキスにとろける。
リンプをきつく抱きしめて、服を脱がせようとする。
リンプもマイコの帯を解こうとしている。
息が大きくなる。
声がかすれていく。
同じタイミングで、高い声を出した。
「私がなんとかしますから、」リンプはマイコの耳元で囁く。「私がマイコ様の髪の色を取り戻しますから」
二人は店内に戻った。ケンタロウは目を瞑って腕を組んで待っていた。マイコとリンプが席に付くと、ケンタロウは言った。「もう出ないと最終列車に間に合いませんよ」
「リンプも一緒に行くわ」
「……分かりました、」ケンタロウはリンプの同行に素直に頷いた。「とにかく、急ぎましょ、それから、マイコ様」
「何?」
「帯の締め方が間違っています」
「え?」指摘され、マイコは顔が熱くなる。「……え、ああ、えっと、なんでだろう?」
ケンタロウはニヤニヤと笑いながら立ち上がった。「今更隠さなくたって、いいでしょ?」
「ばか!」マイコは叫んだ。
三人は店から出る。夕日がすでに沈み始めていた。丁度いいタイミングで馬車が目の前に停まった。
「あ、駅までお願いします」
馭者は少女だった。彼女は頷き、馬車から降りた。「すいません、ほんの少しだけお待ちいただけますか?」
馭者は一度クァンドに入り、言葉通り、すぐに店から出てきた。「えっと、駅まででしたね、どうぞ、乗り下さい」




