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ミケの逡巡

太陽の光の角度は斜めに鋭い。青い空が徐々にオレンジ色に染まる頃には、すでにクァンドのあらゆる準備が終わっていた。マスタとアレクサンダは少し前に店に出てきていて、今はカウンタの奥の調理場で、仕込みに追われている。

 今日のミケのドレスは黒。水色で縁取られた黒いドレス。

 ミケはピアノの前に座り、髪を後ろで縛った。

 手首を回し、指の体操を念入りにして、鍵盤に触れる。

 一つの音が響く。

さて、何を弾こう。

指が勝手に動き出す。

知らないメロディが。

空間に満ちる。

知らなかったメロディだが、でも。

 どこかできっと、聞いたことのある優しいメロディが溢れる。

 そういうメロディを、今日もミケは発見したのだ。

 知っている、メロディ。聞いたことのないのに、知っているメロディ。

 そういうものがこの天体には無限にあって。

 ピアノが無限にある偶然の発見を。

 容易で愉快なものにした。

 本当にピアノは素敵。ピアノがなかったらきっと、ミケは死んでしまうのだろう。ミケにとっては、それほどなくてはならないもの。好きとか嫌いとかじゃなくて、なくてはならないもの。手放せない道具。これは真実。

 ミケは鍵盤を指で叩きながら、思う。

 このメロディにまた出会うのはいつだろう。

 技巧も、何も振るうことなく出会えたメロディは、ミケに心地よく、ミケに残らない、泡沫のもの。

 また再び、素敵なメロディと会えたらいいなって。

 薄情に思いながら。

 ミケは、今も終わらせるのだ。

 鍵盤から全ての指を離し、手を膝の上に置いた。

 余韻がフロアを覆っていた。

 もうメロディは、聞こえない。覚えていない。ミケは、またとない瞬間の出会いの後が好き。堪らない瞬間なのだ。

 そこに急に始まった。

 拍手。

 ミケは顔を上げ、拍手の方へ顔を向けた。クァンドの入り口の扉が向こう側へ開いていて、深緑色の衣装を身に纏い、皮の巨大なランドセルを背負った魔女の郵便屋さんがそこに立っていた。

 ファーファルタウの魔女の郵便屋さんのルーシィだった。

ミケは椅子から立ち上がって彼女に近づく。「久しぶり」

「……ふわぁ、速達だよ、」ルーシィは欠伸を噛み殺しながらランドセルから封筒を取り出し、ペンと一緒にミケに差し出す。「サインを頂戴な」

「誰から?」サインをしながらミケは聞く。

「誰からって、」ルーシィは眠い目を擦りながら口元だけで笑った。「ミケにと私に頼むのは、あの人だけ」

「とても眠そうだけど」言いながらミケは宛名を確認した。予想通りの人からの手紙だった。

「時差の影響さ、」ルーシィは大きな欠伸をした。「……最近、くるくるくるくる、ガイアの周りを飛び回っているからね」

「ファーファルタウはどう?」

「全然変わらないよ、いや、シンデラで暮らしているミケが見れば変わっているかもしれないけど、きっと何も変わっていないさ、」ルーシィはミケのサインを簡単に確認して、雑にランドセルにしまった。そして手の平を顔の横で広げる。「はい、オッケイ、確かに届けましたよ、これからも魔女の郵便屋さんのルーシィをご贔屓に、それでは、御機嫌よう」

 ルーシィは急ぐようにクァンドから出て、箒に跨って飛び立った。

 ミケもクァンドから早足で出た。空を見上げた。もうルーシィの影は空に小さい。彼女の影に小さく手を振ってから、ミケはすぐに中に戻った。ピアノの前の椅子に座り、宛名を再び確認。溜息。鼻声で唸る。「……今頃、なんだよ」

 ミケは封筒を開ける。二つ折りの手紙。それから、乗車券が同封されていた。大陸横断鉄道、コロマからボストンへの乗車券だ。

 一体、何のつもりだろう……?

 ミケは手紙を広げて読んだ。文字は少ない。三十秒も立たずに読み終わった。

「……ああ、もう、なんなんだよ、もう」

 手紙はファーファルタウ王立楽団での同僚、カサブランカからだった。彼から手紙が来るのは珍しいことじゃない。クァンドで働くミケのところに来る手紙は全てカサブランカからのものだった。

王立楽団に戻って来ないか?

今までの手紙の趣旨は、そういうものが多かったけれど。

しかし今回は違った。

違う誘いだった。

カサブランカはボストンで新しく交響楽団を設立するらしい。

ミケもメンバに加わらないか、そういう誘いだった。

突然だ。

凄く唐突。

「……、」ミケは手紙を睨み、口の中で呟く。「……乗車券を入れたからって、私が行くとでも思っているのかよ」

 ミケは大きく息を吐いた。

 鍵盤を見つめ。

 一つ、音を鳴らした。

 響く。

 技巧は捨てたのだ。

 かざりは捨てたんだ。

 ミケは自由にピアノが弾きたくて。

 ありのままの自分を、自分を知らない世界の人々に感じてもらいたくて。

 シンデラに来たんだ。

 ……でも、少し。

 ほんの少しだけ。

 もう一度、再び、かざりを手に取って、間近で見直したい自分がいることも、……紛れもない事実な気持ちで。「……困ったなぁ」

 そう、ミケが逡巡していたとき。

 クァンドの扉が勢いよく手前に開いた。

「え?」ミケは驚いた。

 クァンドに表れたのはマロリィ、ガブリエラ、ネイチャ、ルッカの四人だった。なぜかマロリィたちはずぶ濡れだった。全身、水に濡れてそこに立っている。マロリィは盛大なくしゃみをして、鼻先を擦りながら人差し指を立て微笑み言う。「……ミケ、何か、温まるものを頂戴な、そう、例えば、ナポリタンとか」

「ナポリタンじゃ体は温まらないよ、いや、それより、それよりもね、」ミケは立ち上がりカウンタの奥の棚からタオルを出して、なぜか髪の毛の色が悪い魔女四人に向かって投げた。「先に体を拭きなさいよ、なぁに、外はハリケーンでも回転中?」



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