第二章②
ミケのドレスを纏ったソフィア・コポラは無響室で歌う。
音がない世界。音が吸いこまれる世界。音が速やかに消える世界。
歌を歌う、ソフィアの声は届いているだろうか?
定かじゃない。
目の前の凄く近い所に、黒い頭巾を被った、ゴールド・ブロンドのマリエが膝を抱いて座っている。
こめかみに指を当て。
目を閉じ。
おそらく。
ソフィアの歌を聞いているのだろう。
また一つ、歌が終わった。
ソフィアは眩暈がした。
くらくらした。
酸素が足りていないようだ。
こんな真剣に歌を歌う機会なんてないから、少し疲れた。ソフィアは円卓を挟んでマリエの対面のソファに腰かけ、グラスに注がれた水を飲んだ。呼吸を整えて、目を閉じたままのマリエに聞く。「……どう、私のこと、細かいところまで分かった?」
「うーん、」マリエはこめかみに指を当てたまま、丸い目を開く。「まだ分かりません、しかし、ここはググッと、」マリエはこめかみを指で叩く。「いえ、クラッと、ううん、ギュウっとします、だから、私がソフィアをここに招待したことは間違っていませんでした、ソフィア、あなたは特別な魔女です」
「随分凝った口説き文句ね」そう言いながらソフィアは笑う。
「次は、そうですね、」マリエは指を立てる。「私のことを想って歌って下さい」
「え、まだ歌うの?」ソフィアは息を吐く。「もう、私のレパートリは全部歌っちゃったよ、もう、歌えるのは、ピクニックくらいしか」
「いいですね、ピクニック、」マリエは手の平を合わせて微笑んだ。「私を想ってピクニックを歌って下さい、先ほどまでは私のこと想っていませんでしたよね?」
「別に何も考えてなかった気がする、あ、でも、いい声を出そうと努力しました」
「それじゃあ、私のことを想って下さいね」
「どう想えばいいの? 想うって言ったって、ほら、種類があるよね」
「憎んでもらっても、嫌いになってもらっても、好きになってもらっても、愛してくださっても、なんでも構いません、とにかく私のことだけを想って下さい」
「それはつまり私が君に、」ソフィアはマリエから目を逸らす。「恋をしろって意味?」
「恋?」マリエは首を傾ける。「あの、ソフィア、恋って、あの、何を考えているのか?」
「本当は年上が好みなんだけど、うん、」ソフィアはマリエのバーミリオンの瞳を見る。「そんなに言うなら、君と両想いになってあげてもいい」
「ああ、なるほど、」マリエは微笑む。「そういう発想はありませんでした、凄い」
「え、何、もしかして、一方的なのがお望みだった?」
「いいえ、」マリエは首を大きく振る。「一方向からでも、試してみる価値はあります、でも双方向から、想う、というのは、私は考えていませんでした」
「考えていませんでしたって、」ソフィアは苦笑する。「変なの」
「そうでしょうか?」マリエは眉を潜める。
「それじゃあ、歌うよ、」ソフィアはソファの上で背筋を伸ばした。「あ、ピクニックじゃなくてね、実はまだ一曲、隠している歌があって、とっておきのラブ・ソングなんだけど、いい?」
「ラブ・ソング? ああ、ジャンルも、いえ、詞も関わってくるかもしれませんものね」
「君を想って歌うよ」ソフィアは頑張って気障な台詞を言った。マリエに本気になっているみたいだと自分で分かった。こういう気持ちになるのは、とても久しぶりだった。マリエは少し変わった女の子だけれど、それは黒い頭巾を被っていることからでも分かる、でも、エキセントリックな一面がソフィアの目には魅力的に映った。初めての恋から、ソフィアはどうやら、成長したらしい。昔のソフィアだったら、おそらくマリエのことをこんな風に思えなかっただろう。
「私もソフィアのことを想います」マリエはさらりと言って、五指を組み、目を閉じた。
こんな反応も、昔だったら許せなかったはずだ。でも、今は、可愛いな、って思う。ソフィアはマリエのことを想って。
「いくよ」
ソフィアは息を吸った。
そのときだった。
「マリエ」
無響室の扉が開き、男が顔を覗かせた。昨夜、ソフィアに招待状を渡した、傭兵風の髭面の男だった。「……あ、すみません、実験中でしたか?」
「ドナルド、何?」マリエの口調はソフィアに対するのと明らかに違っていて、厳しかった。そのことにソフィアは少し驚く。扉の方をマリエは睨むように見た。「速やかに要件を言って」
「魔女が目を覚ましました」
「薬はまだ効いている?」
「ええ、髪の色は黒いです」
「行くわ、」マリエは立ち上がり、ソフィアに微笑んだ。「ごめんなさい、ソフィア、少し待っていてくれますか?」
「え、ここで?」
「嫌ですか?」
「うん、なんていうか、気持ち悪いから、」無響室は感覚を反応させる空気の揺れを吸収している。だから、あらゆることに鈍くなったように感じるのだ。それから耳鳴りがしていた。最初は気にならないくらい小さなものが徐々に大きくなっているようだ。そろそろ痛みを伴うような気配もする。ソフィアでさえ、こんな風に変化している。だから、普通の人はもっと早い段階で狂ってもおかしくないと思うのだ。マリエはおそらく普通じゃない。だから彼女の具合は分からない。「気持ち悪くない?」
「いいえ、でも、ああ、そう、ですか、」マリエは考え込むように顎に手を当て、ソフィアを見る。「あの、今、ソフィアはフリー?」
「うん、フリーだけど、」ソフィアはマリエの唐突な質問に少しぐらつく。「……それが何?」
「私に所属してみませんか?」
「所属?」ソフィアの思考は停止した。「……所属って何?」




