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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

おんな冒険者ナァタ

掲載日:2026/06/26

第一部 毒沼の街




第一章 雨の中の祈り




 城壁の前に女がひざまずいていた。


 ぬかるんだ地面に膝を沈めている。二の腕まで泥がはねていた。前夜の雨がまだ石畳の隙間から滲みだし、跪いた膝の下で黒い水たまりをつくっている。


 女の額はそんな汚らしい地面にくっつくくらいに垂れ、両手は胸の前で組まれていた。聖印を握っているのだ。円形の銀細工が曇り、浮き彫りの紋様は半分以上摩耗して、元の意匠が何であったかもう判然としない。それでも彼女の指は聖印の輪郭を確かめるように、繰り返し撫でていた。


「無知のあたたかな闇が、私たちをいたわり包んでくれますように」


 祈りの声は低く、抑揚がなかった。暗唱する者の声だった。


「みんなが明日も、悲しい記憶に負けませんように。復讐心の獣が、いつまでも眠りに就いていますように。私たちが神さまを忘れませんように」


 祈りが終わっても、女はしばらく動かなかった。泥の匂いと、遠くの精錬炉から流れてくる硫黄の匂いが、朝もやの中で混じり合っている。


「おーい、あんたの噂は知ってるよ! 赤い髪色に入門前の平伏礼拝、"シラフのナァタ"だろ!?」


 門番が遠くから呼びかけた。女が最後の一節を唱え終わる前に声をかけ、城門の脇から歩み出てくる。冒険者ギルドの紋章が入った胸当てをつけた中年の男。顎髭に白いものが混じり、右足をわずかに引きずっていた。


「たんまり稼いでるみてえだなぁ!」


 ナァタは返事をしなかった。聖印を首から下げ直し、膝の泥を払いもせず立ち上がった。身長は門番より頭半分高い。背負った大きな剣の柄は使い込まれて黒ずみ、鞘の先端が擦り減っている。


「だがよ、ここの冒険者ギルドは厳しいぜ!」


 門番は声を張った。何百回と繰り返してきた口上だった。


「一定額を稼ぐまで街から出られねえ。そのうえ毒沼の病で死ぬやつの方が多い。無事に出ていくやつよりなあ」


「あー」


 ナァタは腰の革袋から酒瓶を取り出した。栓を親指で弾き、口をつけた。喉が動く。朝の空気に焼けるような火酒の匂いが混じった。


 門番は顔をしかめたが、止めなかった。その低い背の向こう、城門を超えた先に広がるのは、汚濁した緑に霞んだ煙が漂う街。


 門の内側には、毒を含む蒸気を吐く精錬炉が四基並んでいた。炉の周囲で作業員が顔布を巻いて働いている。汚泥を積んだ荷車がわだちを刻みながら通りを横切り、荷台から黄緑色の液体がしたたっていた。道の片側では、回収された装備を洗う作業場が建ち並び、死者の鎧を磨く金属音が途切れなく響いている。


「死んだ冒険者の荷物で回ってる街だってねー」


 ナァタが酒くさい息を吐きながら言うと、門番はへつらうような笑みを浮かべて頷いた。


 毒沼から持ち帰られるものが、この街を成り立たせていた。毒鉱石、薬草、遺物、死体、病原体。冒険者は英雄ではなかった。谷底の毒沼へ潜り、資源を採取し、死ねば装備と遺体まで商品として回収される採掘労働者なのだ


 門番はナァタに陶器の割符を差し出した。二つに割った片方である。表面に守護神の姿が浮き彫りにされている。獣の体に多数の顔を持ち、足元に鎖を引きずる異形の像。


「守護神さまの割符はなくすなよ。再発行の値段は法外だし、そもそも受け付けてすらくれねえ」


 ナァタは割符を受け取り、裏返して眺めた。酒瓶を傾けたまま、片手で。


「入る時の共連れにも気をつけろ。王権の暗殺者を入れちまった間抜けが死罪に……」


「あー」


 ナァタは酒を飲んでいた。その瞼が半分落ち、瞳は焦点が合っているのかいないのか判然としない。門番は舌打ちした。


(朝から酒飲みやがって。ぼーっとした女だ。これでよく……)


 門番の視界の端で、黒い影が動いた。


 ナァタの横をすり抜けて城門へ入ろうとする人影があった。黒い外套で全身を覆い、頭巾を目深に被っている。門番が声を上げるより先に、ナァタの右手が動いた。


 酒瓶を持ったまま、背中の剣が抜かれた。


 鞘走りの音すらなかった。一拍の間があり、黒ずくめの男の身体が前のめりに崩れた。首の側面から赤いものが噴き、泥の上に黒い染みを広げていく。ナァタの剣は既に鞘に戻っていた。


 門番の口が開いた。声が出なかった。


 ナァタは空の酒瓶を門番に投げた。門番は反射的に受け取り、それから死体を見下ろし、それからナァタを見た。


「あ……あんた……やっぱ、噂通りの……本気の時だけシラフになるっていう……」


「邪神がねー、いるって聞いたんよ。この街に」


 門番の喉が引きつった。


「しゅ、守護神様をそんな——」


「いるんしょー?」


 ナァタは城門の向こう、毒煙の上がる街並みの、さらにその奥を見ていた。


「毒沼の奥に」


「何する気だ?」


 門番の声が裏返った。


「か、勝てるわけがねえんだぜ。人間ごときがよ」


 ナァタは答えなかった。泥のついた膝のまま、城門をくぐった。






第二章 神の前で頭を下げる者たち




 冒険者ギルドの建物には壁がなかった。


 正確には、壁はあった。だが部屋と部屋を隔てる仕切りが不足しているために、酒場の喧騒と診療所の叫び声と死体置き場の腐臭が一つの空間に同居していた。


「たのむぅ! もう殺してくれぇ! 足が腐ってるんだ!」


「バカヤロウ! お前にはまだ借金があるんだよ! 物乞いでもして金を返しな!」


 一階の広間では毒沼から回収された希少な結晶が取引され、その背後の仕切り板の向こうでは麻酔なしの手足切断術が行われている。患者の叫びが値段交渉の声にかき消される。壁には毒沼から引き揚げられた武器が並び、床の端には毒に侵された冒険者が毛布もなく寝かされていた。死亡者の装備を誰が相続するかを巡って、窓口では遺族と債権者が唾を飛ばしている。


 ナァタは顔色ひとつ変えずに、新しく手に入れた火酒をあおりつつ喧騒の中を通る。


 奥に進むと、奴隷市場があった。市場と呼ぶには小さく、質屋の延長のような場所だった。借金を返せなくなった冒険者の見習い契約が売買されている。


 受付の前には石像が据えられていた。


 この街で「守護神」と呼ばれるジンの像である。割符に刻まれていたのと同じ異形の姿。四つ足の獣の姿をしていて、盛り上がった頭部に目はなく、大きな顎の上にたくさんの人間の顔が浮き出ている。足元の鎖は台座を伝って床の石畳に消えている。石像に彫られたたくさんの顔にはどれも表情がなかった。目も口も穴だけだ。そんなのっぺりした顔がたくさんついた頭部が、燭台の薄暗い光を受けて鈍く光っている。


 新たに毒沼へ潜る者は、この像の前で平伏しなければならなかった。


 ナァタの前に、四人の人影が並んでいた。


「お前ら、今回は深く潜るぞ。気を引き締めていけよ。じゃないと俺みたいになる。俺のように鱗肌でもこの有り様だ」


 先頭に立つのは中年の半爬虫類人だった。半身を灰緑色の鱗が覆い、左目が白濁している。左手の指は三本しかない。残りの二本があった場所には、滑らかな瘢痕が盛り上がっていた。彼は後ろの三人に左手を掲げて見せ、足りない指を広げたり閉じたりした。


「ボルク、解毒薬の数は揃ったな?」


「ズール隊長、抜かりはねーっすよ。数年分は溜め込めました。もう売るほどあります」


 彼はズールと呼ばれた隊長格より頭一つ大きく、背中に鉄板を重ねた大盾を背負っている。


「準備は万端ですわ。守護神様のいる最奥近くまで行けます。サーラ、薬の確認を……」


「はーい、ボルクの兄貴。荷物はこのガキに背負わせるね」


 巨漢の盾役ボルクの背後に、毒物師のサーラ。腰に下げた革袋からは薬草と酸の匂いがした。ズールは少し離れたところにいる四人目の少女を見る。


「エーリャ。ちゃんと背負ってろよ。そいつが命綱だ」


 年齢は十四か十五に見える。ズールの荷物を背負い、その重さで前かがみになっていた。手首に鉄の輪がはめられている。ギルド所有の見習いを示す印だった。袖の隙間から、腕に紫色の痣が覗いている。古い打撲の上に新しい打撲が重なり、皮膚の色が均一でなかった。


 エーリャ、とズールが再び名を呼ぶと、少女は荷物を揺らしながら駆け寄った。


 パーティが揃うと、ズールが石像の前にひざまずいた。鱗に覆われた額を床石に押しつけ、両手を広げる。ボルクが続き、サーラが続いた。エーリャは最後に、荷物を背負ったまま床に額をつけた。荷物の重みでよろめき、膝をついてから改めて頭を下げて床に伏した。


 ナァタだけが立っていた。


「あの……守護神様に平伏をお願いします」


 ギルド職員が言った。受付台の向こうから身を乗り出し、ナァタの顔を覗き込む。


「ちょっと、新人さん。守護神様はこのダンジョンの恵みを司るお方です。人間では敵わず、そのご意志を推し量ることもできない。我々にできるのは平伏することのみ……」


 ナァタは酒瓶に口をつけつつ言う。


「私が祈る神はただ一つだけでねー」


 職員の口が止まった。ナァタは石像を見上げていた。卵形の頭部、その周りにボコボコと腫瘍のようにくっついた、たくさんの表情のない顔。職員はそれとナァタを見比べる。ナァタの目にあるものを、職員は読み取れなかった。


「ここじゃ信仰の話なんざしてないんだよ」


 職員は声を低くした。


「内心はどうあっても構わんけどねえ。だがダンジョンから生きて帰るための決まりだ」


 ナァタは動かなかった。


 沈黙が広がった。周囲の冒険者たちが振り返り始めている。石像の前で突っ立っている女を、訝しげに、あるいは面白そうに見ている。


 ズールが立ち上がった。膝の埃を払い、白濁した左目でナァタを見た。残った右目は灰褐色で、ジロリとナァタを見る。


「いいさ」


 ズールはギルド職員に向き直った。


「この女の不敬への罰金は、おれの遠征契約の経費に乗せな。有名人だし、きっと返してくれるさ。利子がかさんでも、何年かかっても。なあ、そうだろう?」


 職員は口を開きかけ、ズールの顔を見て閉じた。帳簿に何かを書き込む。


 ナァタはズールを見なかった。石像も見なかった。酒瓶を探すように腰に手をやり、ないことに気づいて、手を下ろした。


 彼女はそこで初めてズールを見る。彼の手には、ナァタの腰にあったはずの酒瓶が握られていた。彼はそれを顔の高さに掲げてチャポンと中身を振って見せる。


「くくく、この街じゃあ油断は禁物だぜ、“シラフのナァタ"さんよ」


 そしてこれみよがしに酒瓶の口の部分を舐めまわしつつ、火酒を一気に飲み干した。ナァタは眉ひとつ動かさない。


 エーリャが駆け寄ってきた。荷物を揺らしながら、ナァタの前に立つ。見上げる目は大きく、瞳は茶色がかった琥珀で、ズールの右目と似た色をしていた。血の繋がりではなく、この谷の汚染された水を飲み続けた者に共通する色だった。


「ねえ、あなた、すごいんですね」


 少女の声は弾んでいた。


「女性なのに」


 ナァタの眉がわずかに動いた。口元の筋肉が一瞬硬くなり、すぐに弛緩した。


「え、えっと」


 エーリャはナァタの表情の変化に気づき、言い直した。


「女の人なのに、逆らえるから。神にだって」


 ナァタはため息をついた。


 長い息だった。肺の奥から空気を押し出すような、意識的な呼気。


 エーリャに悪意はなかった。ナァタにはそれがわかっていた。だが少女の言葉の中に、別の声が混じっていた。低く、太く、自分を見下ろす声。


(ハハハ、お前の母親はいい女だ。女のくせに俺に屈服していないことを、むしろ評価しているんだ)


 ナァタは少女を見なかった。踵を返し、受付へ向かって歩き出した。エーリャは荷物の重みに引っ張られるようにその場に残り、ナァタの背中が人混みに消えるのを見ていた。




第三章 信仰と剣技




 ギルドの実技審査場は、中庭を板で囲った簡素な場所だった。


 地面は固められた泥で、ところどころに前の審査者の血が染みている。周囲の柵には中堅冒険者たちが腰を下ろし、審査を見物していた。


 ナァタは柵の外で酒を探していた。腰の革袋に手を突っ込み、空の瓶を引き出し、逆さにして振った。一滴も落ちない。舌打ちして瓶を柵の上に置いた。


「噂ほどじゃねえ」


 ボルクが言った。


「あんなボーッとした奴、谷じゃ半日も持たねえぞ」


 笑い声が広がった。ナァタは瓶を置いた柵に背を預け、半分目を閉じていた。


 ズールが柵の向こうに立っていた。腕を組み、白濁した左目をナァタに向けている。右目が不気味に見開かれる。


「いや……」


 ズールの右手が腰に落ちた。


 投げナイフが閃いた。


 柵の上を越え、冒険者たちの頭の上を飛び、荷物を整理していたエーリャの顔へ向かった。


 エーリャが気づくまもなく、それは別の軌道へ逸らされていた。


 カキンという金属音。弾かれたのだ。


 ナァタの剣がナイフの腹を打ち、軌道を逸らしていた。ナイフは回転しながら飛び、固められた地面に刺さった。


 中庭が静まった。


 ナァタがいつ動いたのか、誰も見ていなかった。柵に背を預けていた女が、次の瞬間にはエーリャの前に立ち、抜き身の剣をズールの喉元へ向けていた。


「私さあ、邪神を崇めてる街があると聞いたんよ」


 ナァタの声は平坦だった。怒りではない。確認するような口調だった。


「そこの冒険者ギルドは毒沼と同じくらい腐敗してるともさ。一度入った冒険者に借金負わせて二度と出さないとかさー」


 剣先がズールの喉の鱗に触れている。ズールは動かなかった。


「それにしたって」


 ナァタの口が歪んだ。唇の片側だけが上がる、笑いとは呼べない表情。


「冒険者見習いですら人間扱いされないとはねー。聞きしに勝るわなー」


 ズールは笑った。歯の隙間から低い声が漏れた。


「ぼーっとしていながらこの反応」


 ズールの瞳孔が開いた。


「ずっと頭の中で戦闘のことを考えてるからだ。周りに気を巡らせてる。そうだろう? いい剣技だ」


 ズールの手が上がり、剣の腹を掴んだ。鱗に覆われた指が刃を挟む。血が滲んだが、ズールは表情を変えなかった。


 ナァタは剣を下ろさなかった。


 二人はしばらくそのまま動かなかった。ズールの血がナァタの剣を伝い、柄を濡らしている。


 ズールが先に目を逸らした。仲間たちに向き直り、剣から手を離す。


「おい。次の遠征ではこいつを先頭にしろ。生き残れる確率が上がるぞ」


 ボルクとサーラが顔を見合わせた。


「いやとは言わんよなあ」


 ズールはナァタに振り返らずに言った。


「さっき俺がお前の罰金、肩代わりしてやったもんなあ」


 ナァタは無表情だった。剣を鞘に戻し、柵の上に置いた空瓶を取った。逆さにして振る。やはり何も出ない。舌打ちして瓶を下ろし、ズールの背中を見た。彼は振り向き、


「さっきの酒の礼だ。出発前に奢ってやるよ」


 と言った。


 ナァタはため息をつき、剣を背中の鞘に納める。


「いらん。あんたにはもう借りは作らない。行ったら、それっきりだ」


 話に乗るようだった。


 エーリャが駆け寄ってきた。ナァタの前で膝をつき、深く頭を下げ、両手を地面について平伏した。


「ありがとうございます。ありがとうございます。すいません、私の御主人様マイスターはちょっと見習いの扱いが雑なもんで……」


 エーリャは顔を上げた。目が輝いていた。


「すごかった。剣、見えなかった。どうやって……あんなに速く……」


 ナァタは少女を見下ろしていた。


 剣を握った瞬間のことを思い出していた。指が柄に触れた途端、世界から余計なものが消えた。泥の匂いも、酒の渇望も、少女の声も、祈りの言葉も。残ったのは距離と速度と角度だけだった。敵より速く、強く、正確であればよい。相手が何を考え、何を望んでいるかは関係ない。


 ナァタは空瓶を柵の上に戻した。そしてぶっきらぼうに、


「神さまじゃなく、人間相手にそこまでかしこまるなよー。自分を貶めるぞー」




*****




 ズールの目的は、毒沼深部で採れる「腐敗心晶」の回収だった。最深部に近い領域に結晶化すると言われる、毒の凝縮物である。


 ナァタは最深部までの案内を条件に、ズールの一行へ加わった。


「へへ、アンタの目的はなんだろうね」


 ズールは契約書に署名しながら言った。


「あのクソッタレな神様をぶち殺しに行くのかい。王権から密かに依頼を受けてるとかさあ」


 ナァタは肩をすくめて見せる。


「教える必要はないねー」


 契約書には、遠征中に死亡した者の装備、遺体、見習いの所有権がギルドへ帰属すると記されていた。


 エーリャは署名の欄を見つめていた。文字の形を目で追い、それからペンを取り、言われるままに名前を書いた。名前だけは書けた。その下に並ぶ条文は読めないのだ。


 ナァタは契約書の文面に目を通した。眉をひそめ、エーリャを見た。少女は自分が何に署名したのか知らない顔で、ペンを返していた。


 ナァタはエーリャの頭に手を置いた。


 ぽん、と軽く叩くように撫でた。それだけだった。


 エーリャの頬が赤くなった。口を開きかけ、何も言わずに閉じた。荷物を背負い直し、ナァタから目を逸らした。耳まで赤い。




第四章 売られた娘




 遠征の準備は翌朝から始まった。


 毒沼のある腐敗の谷に降りるためのリフトの前で準備がされる。ナァタ、ズール、ボルク、サーラ、そしてエーリャ。


 毒除けの面が配られた。獣の皮を縫い合わせ、内側に薬草の層を挟んだもの。鼻と口を覆うようになっていて、呼吸がひどく苦しくなる。革袋入りの解毒剤、汚泥を渡るための板靴、虫除けの油、呼吸を助ける薬草。すべてがギルドからの貸与品だった。生還した者は高額の使用料を請求される。見習いは装備として勘定され、破損や死亡も損失として処理される。


 エーリャが荷造りに失敗した。


 解毒剤の革袋を縛る紐の順番を間違えた。ズールは無言で近づき、少女の頬を殴った。


「解毒剤は一番上! 絶対に毒沼に浸からないようにって言っておいただろうが。全員分をお前に背負わせるんだ。責任をもっと自覚しろ!」


 開いた手ではなく、拳だった。


 エーリャの身体が横に倒れた。頬が泥につき、口の中に血の味が広がった。


 泣かなかった。


 地面に手をつき、冒険者ギルドの立て札を手がかりに起き上がった。「契約不履行は人間扱いするな」と書いてある。口の中の血を横に吐いた。赤い唾が泥に染み込む。散らばった荷物を拾い、革袋を手に取り、紐の結び方を指で確認した。どこを間違えたのか、自分で見つけている。黙ってやり直した。


 ズールはそれを見ていた。腕を組み、白濁した左目を少女に向けたまま立っている。


 ボルクがニヤニヤしながら横から言った。


「替えはいくらでもいるだろう。次の市が開かれたら別の見習いを……」


 ズールはエーリャの手元を見ていた。荷を縛り直す指の動き。震えているが、紐の通し方は正確になっている。それを確認した後で答えた。


「いや、別のに替えたら、イチから仕込み直しだ」


 ズールは視線を動かさずに続ける。


「割に合わん」


 それ以上何も言わず、自分の装備の点検に戻った。


 ナァタは柱に背を預けて見ていた。ズール達が他に気を逸らした時に近寄り、黙々と荷造りをしているエーリャを見下ろし、声をかける。


「嫌なら逃げろ」


 エーリャは荷を縛る手を止めなかった。目も逸らさない。


「どうせこの街からは誰も逃げられません」


 声は平坦だった。何度も言ったことのある言葉を繰り返す調子だった。


「ナァタさん。外から来たばかりなら知らないでしょう。この谷の毒は、周辺の人々が何百年も捨ててきたゴミが溜まってできたそうですよ」


 エーリャは紐を引き絞った。結び目が締まる。


「私もお父さんやお母さんに捨てられたんです。ここしかないんです」


 ナァタはじっとその姿を見下ろす。小さい背中だった。おそらく、服の下はアザがたくさんあるのだろう。ナァタの右手が頭にいった。赤い髪を鷲掴みにし、ガリガリと掻きむしった。指が毛束に絡まったまま引っ張り、乱暴に離した。腰の革袋に手を突っ込んだ。瓶を探す動きだった。指が空の袋の底を引っかいただけで終わった。短い舌打ちが二度漏れた。


「ならば反抗しろ」


「そうしたら生きられません」


「っち」


 ナァタは舌を鳴らして目を逸らした。




*****




 準備は進み、滑ってが整い、夜になった。出発は翌朝と決まった。


 宿舎は存在しない。ギルドの建物の端にある板敷きの空間に、毛布が積まれているだけだった。冒険者たちは隣り合って眠り、寝返りを打つたびに隣人の武器に触れた。


 ナァタは雑魚寝している彼らからはなっrた壁際に座り、聖印を両手で握っていた。頭が下がる。平伏しているのだ。目を閉じ、唇が動いている。小さな声が漏れ聞こえた。


「無知のあたたかな闇が、私たちをいたわり包んでくれますように」


「みんなが明日も、悲しい記憶に負けませんように」


「復讐心の獣が、いつまでも眠りに就いていますように」


「私たちが神さまを忘れませんように」


 エーリャが隣に座った。荷物を下ろし、ズールの寝息を確認してから、ナァタの方に身体を寄せた。


 ナァタの唇の動きを見ている。


 しばらくして、エーリャの唇も動き始めた。ナァタの言っていることを真似て、言葉を繰り返している。


 ナァタの目が開いた。


「真似しないでよー」


「どうしてですか」


 エーリャは驚いた顔をした。


「きれいな言葉なのに」


「わかりもしないくせにねー」


 エーリャはうつむいた。膝の上で手を握り、指先をいじっている。


 ナァタは少女のうつむいた横顔を見た。


 聖印を弄っていた指が止まった。ナァタは自分の手を見た。指が強張っている。なぜそうなっているのか、一瞬わからなかった。視線が少女のうつむいた首筋に戻った。戻ったことに気づき、顎が引けた。喉の奥に何かがつかえていた。唇を噛み、聖印を首の下にしまった。壁に背をつけ、天井を仰いだ。


 不機嫌な顔のまま、目を閉じた。




第二部 毒沼




第五章 昼も夜もない場所




 谷底には昼も夜もなかった。


 崖上から落ちる灰色の光は、霧と虫の群れに遮られていた。黄緑色の蛍光を帯びた羽虫が視界を埋め、顔布の隙間から入り込もうとする。虫除けの油を塗った肌の上を這い、油に触れると音もなく溶けた。


「ベッベッ、くせえ汁が口に入るぜ!」


 ボルクが唾を吐きながら悪態をつく。


 毒沼の表面は粘っていた。水ではなく、腐敗した有機物と鉱物が溶け合った泥の海だった。踏み込むと膝まで沈み、足を引き抜くたびに黒い泡が浮かぶ。泡が弾けると硫黄と肉の腐った匂いが立ち昇る。泥の中には折れた武器、砕けた杖、人骨、指が沈んでいた。板靴を履いていても、足裏に固いものが当たる。


 サーラがことあるごとに忠告を言う。


「みなさん、気をつけて……この沼の汚れを肌にあまり触れさせると解毒もできるかどうか……」


 頭上には、棺の蓋や廃材を縄でつないだ足場が張り巡らされていた。古い足場は腐って垂れ下がり、新しい足場は冒険者たちの重みで軋んでいる。


 腐敗病に侵された住民たちが、足場の隅で青白い火を囲んでいた。肌は灰色で、目は黄色く濁っている。体の一部が膨張し、布に覆われた箇所から膿が滲んでいた。ズールはそちらを見ながらエーリャに語りかける。


「っけ、監視してやがる。狼が死にかけた獲物をつけねらうみてえなもんだ。俺たちの中に脱落者が出たら、奴らに換金されるわけだ」


 戦闘を行くナァタは振り返る。エーリャは平気そうにしていたが、口数の少なさは恐怖と不安に支配されていることを示していた。


 谷の奥から鐘が鳴った。


 ゴーン、ガゴーン、ゴォーン


 低く、長い音だった。誰しもの腹の底を震わせるほどの。泥の表面が振動し、黒い波紋が広がる。


 住民たちは一斉に顔を伏せた。声もなく、動作もなく、火を囲んだまま額を膝に押しつけた。


 鐘が止むと、住民たちは何事もなかったように顔を上げた。火に手をかざし、会話を再開する。エーリャがすっかり気圧されてしまい、毒沼の中で足を止めてしまう。


 ズールは歩みを止めなかった。


「気にするな。進め」


 一行は足場の上を進んだ。ナァタが先頭、ズールが二番目、ボルクとサーラが続き、エーリャが最後尾で荷物を背負っている。


 最初の襲撃は、鐘が三度目に鳴った直後だった。


 足場の下から何かが突き出てきた。毒沼の汚濁を撒き散らしながら。


「マスクをつけろ!」


 ズールが指示を飛ばす。ボルクは盾を構え、サーラとエーリャははその後ろに位置取る。


 沼の下から現れたのは、蛆と泥に覆われた巨大な腕だった。腕の先の拳が足場の板を掴み、引き裂いた。


 巨人が泥の中から立ち上がった。頭部は人間の三倍の大きさ、顔面の皮膚は剥がれ落ちて筋肉が剥き出しになっている。口はなく、目の位置に蛆の巣ができていた。右手に木槌を握っている。木槌の頭には、人間のものと思しき骨が突き刺さっている。


 足場の上から槍が飛んだ。腐敗病の住民たちが、伏せていた姿勢から一斉に武器を取り出していた。目が黄色く光っている。


「ちくしょう!」


 ボルクが叫んだ。


「これがこいつらのやり方か!」


 ナァタは迷わなかった。


 巨人の足首を斬った。板靴を泥に滑らせ、巨体の外側を駆け抜けながら、腱の位置を正確に切断したのだ。4メートルはありそうな巨体がよろめく。ナァタは足場の支柱を蹴り折った。巨人の体重が足場を押し潰し、足場の上にいた住民たちが泥へ落ちた。


 槍を投げた者たちが泥に沈む。もがく姿が黒い泡に飲まれていく。


 ナァタの剣は次の標的に向かっていた。足場の端にしがみつく住民の首、胴、手首。切っ先が急所を選んでいる。一人を斬り、返す刃でもう一人の武器を弾き、三人目の胸を突く。動作に無駄がなかった。考えている時間がなかった。身体が先に動き、思考は追認するだけだった。


 ズールが口笛を吹く。


「やるねえ。……お前ら! 見とれてないで荷を守れよ!」


 ボルクとサーラがエーリャを守るように後退する。エーリャは足場の陰で見ていた。ナァタの動きを目で追おうとして、追えなかった。


 戦闘が終わった。


 泥と血の中で、一行が態勢を立て直した。ボルクが大盾の泥を払い、サーラが薬草の袋を確認している。ズールは巨人の死体を蹴り、腐敗心晶の有無を調べた。何もなかった。


 エーリャは足場の陰で嘔吐していた。巨人の死体から流れた体液が靴に染み、板靴の隙間から足の甲を伝っている。酸っぱい匂いと腐敗の匂いが混じり合い、吐いても吐いても胃液しか出なかった。


 吐き終わると、口元を袖で拭い、立ち上がった。


 誰に言われるでもなく、泥に沈みかけた荷袋を引き上げ始めた。片手で足場の縁を掴み、もう一方の手で袋の紐を引く。解毒剤の革袋を一つずつ取り出し、破損したものと無事なものを分けている。泥に浸かった袋の縫い目を指で確認し、水が入っていないか振って確かめた。


 サーラが声をかけた。


「座ってな。初めての実戦だろう」


 エーリャは首を横に振った。手を止めずに革袋を並べている。


 ズールは巨人の死体から離れ、ナァタの剣筋を反芻していた。足首を斬る角度、足場を折るタイミング、急所の選択。考えながら、横目でエーリャを見た。


「サーラ。あの荷の仕分け方は誰が教えた」


「私ですけど。一度しか見せてません」


 ズールは鼻を鳴らした。


「一度で覚えたか」


 声には何かが混じっていたが、次の言葉は続かなかった。ズールは先頭に立ち、足場の先を確認し始めた。




第六章 鐘の村




 毒沼の内部には集落があった。


 足場を組み合わせた台地の上に、泥を固めた小屋が十数軒並んでいる。壁は毒沼から立ち上る蒸気で常に濡れ、屋根には苔の代わりに白い菌糸が広がっていた。住民は二十人ほどで、全員が腐敗病のいずれかの段階にある。肌の一部が灰色に変色し、関節が腫れ、指や耳が欠けている者もいた。


 彼らはギルドのことも、地上の神も信じていなかった。谷底に住む者にとって、地上は異世界でしかない。樹上でリスどもが喧嘩していても誰も気にしないのと似たようなものだ。信仰の対象は一つだけだった。


 沼を歩く神。


 最奥に鎮座する神。


 理解不可能で、人間では決して抗うことができない神。


 一行は集落で休息を取った。ズールは住民と物々交換で食料を得た。泥水を濾した飲み水と、正体の知れない干し肉。


 村の老女がナァタを見た。


 老女の目は両方とも黄色く、顔の右半分は腐敗病で崩れていた。残った左半分で笑うと、裂けた唇の隙間から黒い歯茎が覗いた。


「ここでは誰も自分を取り繕えない」


 老女はナァタの胸元を見ていた。聖印の鎖が首から覗いている。


「神は心の奥底まで掘り尽くす。隠しているものから順番に奪っていくのさ」


 ナァタは老女の顔を見た。


「……へー。すべてを奪われた者はどうなんの」


「ケケケ」


 老女は笑った。残った半分の顔で。


 ナァタは目を閉じた。何かを飲み込むように喉を動かし、老女に背を向けた。手は腰を探るが、酒瓶はもうとっくに空になっていた。




*****




 夜になった。鐘は鳴らなかった。沼の底から低い振動が断続的に伝わってくるだけで、音と呼べるものはない。住民たちは菌糸の光を頼りに、沈黙の中で眠りについた。


 エーリャはナァタの隣に座っていた。


「父上は、私を冒険者ギルドに売ったの」


 ナァタは泥の壁に背を預け、聖印を指で弄んでいた。


「母様は泣いてるだけで、何もしてくれなかった」


「よくある話だよー」


「冒険者になって」


 エーリャは両膝を抱えた。足首の鉄輪が暗がりの中で鈍く光った。


「いつか父上をモンスターとして狩ってやるんだ」


 ナァタの指が聖印の上で止まった。


 少女の目を見た。暗がりの中で琥珀色の瞳が光っている。そこにあるものを、ナァタは知っていた。


「殺したのなら……」


 ナァタの声は低かった。


「父親から自由になれると思ってるん?」


「あなたは違うんですか」


「ええー?」


「嫌いな人を斬るために、剣を強くしたんじゃないんですか」


 ナァタは言葉に詰まった。


 聖印を握る手に力が入った。銀の縁が掌に食い込んでいる。


「私のは」


 声が掠れた。


「悪魔みたいな父親に教え込まれただけの……」


 続きは出なかった。ナァタは聖印を首の下にしまい、壁に頭を預けて目を閉じた。




第七章 一人だけの神




 中層への門は、岩壁をえぐり貫いた隘路の入り口にあった。


 門の両脇に、ジンを象った石像が立っている。上層のギルドにあったものより古く、風化して輪郭が崩れている。頭部はヒビが修繕された跡があり、足の爪は欠けていた。足元の鎖だけが黒々と残り、石像の台座から隧道の奥へ伸びている。


 ここでも通行者は平伏しなければならなかった。


 ズールが先に膝をついた。額を地面につけ、三本の指で石像の台座に触れた。ボルクとサーラが続いた。


 エーリャが荷物を下ろし、膝をつこうとした。一瞬ナァタの方を見た。


 ナァタは立っていた。


「私が祈る神は一人だけだ」


 エーリャは少し迷ったあと、目を伏せ、額を地面につけた。


 ズールが立ち上がった。膝の泥を払い、ナァタの顔を見つめた。彼女は完全に飲み終えた酒瓶を革袋から出して放り投げている。驚くほどの量を持ってきて、そしてすでに飲んでしまったようだった。袋が空になったのを確認し、ナァタは子供がお菓子を買ってもらえなかったときのような露骨な不貞腐れ顔をしていた。


「へっ、ナァタさんよぉ。呆れたもんだぜ。こんな生きるか死ぬかの場所に来てまで酒の心配か」


 ナァタの口元がわずかに動いた。


「ずっと見てたが、常に酒を飲んでいやがったな? いつ死んでもいいと思ってるなら、日常を享楽で埋めるのは正しい価値観だろう」


 ズールは歩きながら言った。


「そして遠征中なら流石に酒は手に入らないから、自然と酒が抜け、いつもより調子がいいと感じるようになる」


 ズールは笑って声を上げた。


「強制的に好調の波を作り出す方法だな。ハハ、上にいた時も敵う気がしなかったが、いまはもうどれだけ差がついているのか見当もつかんね」


 ナァタの目が細くなった。


「買いかぶりだよ」


「常に酔っていなければならなかったほど」


 ズールの声が低くなった。


「忘れたいことでもあるのかな」


 ナァタの右手が腰に落ちた。指が剣の柄に触れた。


 ズールは笑って先へ歩き出した。


「怒るなら、当たりだね」


 ナァタは剣の柄から手を離した。親指の腹が柄の革巻きに擦れた跡を、もう片方の手で撫でた。


 隧道の暗がりに、ズールの笑い声が反響して消えた。




第八章 借り物の技




 中層は水路だった。汚水が長年にわたって流れ、谷を削ってできた道だ。


 もう谷の上の光はほとんど届かない。上層の毒沼に溜まった腐食水が酸化して岩盤を穿ち、数百年かけて作られた新しい洞窟のようになっているのだ。そしてそれははるかに古い深層へとつながる……。上を見上げると、ほんの少しの亀裂になった曇り空が見えた。


「気を引き締めろ」


 ズールが全員に聞こえるように言った。


「ここからはジンに突発的にエンカウントする可能性がある。やっこさん、一番下でじっとしてりゃあいいものを……だが不在のチャンスを狙えば毒心晶は取り放題だ」


 崩壊した礼拝堂の廃墟が毒水路の脇に転がっていた。かつて基礎を構成していた石組みが水流で削られてあらわになり、傾いて崩れた石材が散らばっていた。壁に残った祭壇のレリーフは腐食で判別できず、聖水盤だったものには毒水が溜まっていた。




*****




 毒霧が濃くなった。


 顔布に染み込ませたすりつぶした薬草液の層では防ぎきれない濃度の霧。それが水路の底から立ち昇っていた。サーラが追加の薬草を配ったが、みんなの喉に、呼吸のたびに灼けるような熱さが走った。


 ナァタの視界が揺らいだ。


 足元の水面に、馬が映っていた。白い馬だった。鞍の上に男が座り、笑っている。大きな身体に大きな腕、腰に太い剣を帯びた男。馬が敵を踏み潰す。蹄の下で骨が砕ける音。男は笑い続けている。


 水面が波立ち、像が消えた。別の像が浮かんだ。


 泥の中で女が平伏していた。両手を組み、聖印を握り、同じ祈りを繰り返している。目を閉じ、口だけが動き、身体は微動だにしない。馬蹄の音が近づいても、女は祈り続けていた。


「う、く……」


 ナァタの足が止まった。水路の縁で膝が折れかける。


 手が伸びてきた。


 小さな手がナァタの右腕を掴み、引いた。


 崩れる足場の端から、ナァタの身体が引き戻された。エーリャの両手がナァタの腕にしがみついている。


「ナァタさん! しっかりして!」


 背中の荷物の重みで少女自身が引きずり込まれそうになりながら、両足を踏ん張っていた。


 ナァタは足場の上に座り込んだ。額に汗が浮いていた。手が震えている。


「大丈夫ですか」


 エーリャの声が聞こえた。ナァタは目を閉じ、しばらく動かなかった。


 それから立ち上がり、エーリャの手を振り払い、先へ進み始めた。


 毒の水流からできるだけ離れた場所に平らな地形を見つけることができた時、ズールが野営を指示した。もう昼なのか夜なのかもわからなかった。


 ナァタはエーリャを見ていた。


 背中の荷物から毛布を出し、テキパキと準備をこなす。


 疲労のあまり、荷解きをしただけでへたり込むかとナァタは思っていたが、なかなかどうしてその後も元気に荷を何度も確認していた。


 ランタンのそばで、ナァタはその様子を見てじっと何か考え込んでいた。そして立ち上がり、エーリャの方に歩み寄る。大きな背嚢のベルトを締めていた彼女は気づいて見上げる。


「教えることが一つだけある」


 ナァタの言葉に、エーリャは意外だというふうに瞬きした。


 ナァタは剣を抜かなかった。代わりに、足を動かした。


 右足を半歩、横にずらした。それだけだった。


「敵の攻撃を受けるな。力で受けたら、力で負ける」


 もう一度、同じ動作を見せた。右足を半歩ずらし、身体の軸を移す。


「半歩ずれて、流せ」


 エーリャは真似た。右足を横に動かし……足がもつれて転んだ。いや、荷物に引っかかったのか。


 ナァタはあえて手を貸さずに見守る。立ち上がって、もう一度。また転んだ。


 三度目。足は動いたが、身体の軸が残っている。


「軸」


 ナァタは自分の腰を叩いた。


「ここが先。足は後」


 エーリャは四度目に足を動かした。右足が半歩ずれた。軸が遅れたが、倒れなかった。


「あなたの剣は」


 エーリャは息を整えながら言った。


「お父上から習ったんですよね」


「そうだ」


「……教えてくれる人がいたんですね」


「黙って足を動かせ」


 ナァタは背を向けた。


 やがてズールが火を起こし、サーラが解毒剤の残量を確認している。


 エーリャが眠った後、ズールがナァタの隣に座った。


「俺はあいつを育ててるわけだが」


 ズールは火を見ていた。


「いいもんだぜ。ガキの面倒を見るのは。俺はあいつをこき使う。あいつは俺を真っ当に生きる人間にしてくれる。なかなかフェアな取引だと思うぜ」


 話しかけられたナァタは焚き火に背を向けて座っていた。興味なさそうに、


「真っ当な人間の真似ができているとは思えないがなー」


 と言った。ズールは笑って焚き火をいじっていた。


「それはあんたの見方さ」


 ズールは左手の三本の指で火をかき回した。焚き火から抜き取られた手の鱗は少し湯気を上げていた。耐熱性には自信があるのだろう。


「俺は俺なりにあの子のことを大切にしているぜ。その証拠に、死んだらそれまでだーなんてテキトーに育ててるのに、ここまで生き残ってる。あの子は耐える力があるのさ」


「そーかい」


 ナァタは火を見なかった。暗い水路の奥、霧の向こうを見ていた。父親から教わったことだった。


(キャンプ遊びじゃないんだ。野営の時に火を見つめるな。外を常に警戒しろ)


 皆が寝入った後も、ナァタは警戒を続けた。




第三部 泥に平伏す




第九章 徘徊するジン




 鐘が止まった。


 それまで断続的に谷中に響いていた低音が、途切れた。音が消えたのではなく、音を出していたものが動くのをやめたのだった。


 ズールの顔色が変わった。


 鱗の下の皮膚が白くなるのが見えた。三本の指が投げナイフの柄を握り、すぐに離した。握っても意味がないと判断したように。


「顔を伏せろ」


 声が低かった。命令ではなく、懇願に近い響きだった。


「何があっても見るな」


 宣告のような言葉から程なくして、沼の向こうから震動が伝わってきた。


 足場が揺れた。泥の表面に波紋が広がり、黒い泡が一斉に弾けた。硫黄と肉の匂いが濃くなり、虫が一匹もいなくなった。空気が変わった。冷たくなったのではない。重くなった。息を吸い込むたびに、肺の中で何かが膨らむような圧迫感があった。


「うっ、あ、あいつだ……」


 パーティで最も鋭い魔法感覚を持つサーラが震えながら言った。ナァタは闇の向こうへと目を凝らす。……何かがいる、何か大きなものが……それだけはわかった。


 足音が聞こえた。足音と呼ぶには大きすぎる音だった。泥が押しのけられ、水路の水が逆流し、崩れた足場の残骸が波に流されていく。


 ズールは毒沼の中に身体を沈めた。毒水が胸まで達し、顔布が濡れた。それでも頭を下げ、額を毒水とその下の汚泥の表面に押しつけた。


 ボルクとサーラが続いた。二人とも毒沼に身を沈め、頭を水面の下に隠した。そしてエーリャも……。


 ナァタだけが立っていた。


 沼の向こうに、それが見えた。ボルクの背中のランプの灯りのおかげでなんとかその姿が見てとれた。


 巨大だった。大きさという概念がそのまま形を取ったように見えた。闇の向こうの霧の中に輪郭が浮かび、輪郭そのものが揺れている。四本足だった。人間の顔がたくさんその頭部に浮き上がっていた。


(間違いない……だが、体に感じるこの戦慄は…… )


 石像と同じ形をしているはずだったが、石像が模倣しきれなかったものがそこにあった。目も口もない頭部が、ナァタの方を向いていた。彼女の肌に鳥肌が立つ。


(想像以上だ、だが……)


「私は、お前には祈らない」


 ジンの腕が動いた。


 風はなかった。衝撃波もなかった。ただ、空間が歪んだ。ナァタの前の空気が固まり、壁になり、ナァタに向かって押し寄せた。


 とっさに、ナァタは剣で受けた。


 両腕に衝撃が走った。ブーツが泥の中に沈み、剣の刃に亀裂が入り、切っ先から三寸のところで欠けた。両腕から血が流れた。皮膚が裂けたのではなく、筋肉の中の血管が破裂したように、腕全体から血が滲み出した。


 倒れなかった。


「はぁ……はぁ……」


 衝撃で顔布が解けてしまい、剥き出しの顔が毒霧にピリピリする感覚があった。


 ナァタの両足は泥の中に膝まで沈んでいたが、身体の軸は動かなかった。剣を握った両手が震え、血が柄を伝って泥に落ちたが、立っていた。


 ジンがナァタを見た。


 見たという表現は正確ではない。目がないものに視線はない。だが、ナァタの内側に何かが触れた。心臓の裏側を指で撫でられるような感覚があった。


「っく……!」


 さーっと魂が冷気に包まれる気がした。


 ズールが泥の中で息を止めていた。サーラの肩が震えている。ボルクの背中が痙攣していた。


 ナァタの歯が鳴った。


 見られている。中身を。底の方から、順番に。


「い、今は……通せ」


 ナァタの声は自分でも驚くほど低かった。


 ジンは動いた。足音が遠ざかり、空気の重さが薄れていった。虫が一匹、二匹と戻ってきた。


「ふ、ふーっ……」


 ナァタは足元を見た。


 泥の中に沈んだ自分の影に、黒い紋様が浮かんでいた。鎖のような線が影の輪郭を這い、足の先から沼の奥へ伸びている。泥が紋様を覆い、見えなくなった。


 ナァタは剣を鞘に戻した。刃の欠けた剣を、ゆっくりと。両腕から血が滴っている。




第十章 毒は遅れてくる




 ジンが去った後、ボルクが最初に顔を上げた。


「ぐぼぁっ!?」


 顔の右半分が変色していた。灰色ではなく、紫がかった黒。泥に浸かった皮膚が毒を吸い、血管に沿って暗い線が走っている。


 サーラの首筋にも同じ線が現れた。泥から上がった時にはなかった変色が、体温で毒が活性化するにつれて広がっていった。


「解毒剤を!」


 サーラが自分の首を触りながら言った。声がわずかに震えている。


 ボルクが荷物の方を見た。


「おいガキ! さっさと解毒剤をよこせ!」


 石の足場の上に荷物が並んでいた。エーリャが荷物の上に伏せていた。革袋を敷き、その上に腹から胸までを押しつけ、両腕で袋の端を抱え込むようにして額を革に埋めている。ジンの前での平伏と同じ姿勢だった。ただし泥の中ではなく、積み上げた荷の上に。少女の体重で革袋が潰れ、縫い目が横に広がっている。背中の荷物がずり落ちかけ、肩紐が片方だけ首にかかっていた。指の先が白くなるほど革を握りしめている。息をしているのかどうか、しばらくわからなかった。


「おまえ、荷物の上に……」


 エーリャが身を伏せていた荷物。少女はまだその上に伏せたまま動かずにいた。ボルクが荷物を引き出そうとしてエーリャをどんと突き飛ばす。沼の毒水の中に突っ込むが、足の力でなんとか踏ん張るエーリャ。ボルクは荷物を開け、解毒剤の革袋を手に取った。


 袋の底から泥水が滴った。


「あっ……」


 ボルクの声が裏返った。


「このガキ、荷物を足場にして平伏していやがった!」


 革袋の縫い目から泥が染み込んでいた。中の解毒剤は毒水と混じり、使用不能になっている。一つ、二つと確認するたびに、ボルクの顔が歪んでいく。


 残った薬は、二人を救うには足りなかった。


 突き飛ばされたエーリャが起き上がった。顔に荷の跡がついている。荷物の惨状を見て、顔から血の気が引いた。


「てめえ」


 ボルクの手がエーリャの襟を掴んだ。


「これは普段の扱いへの復讐かぁ? いい度胸してんなあ」


 エーリャの身体が持ち上がった。足が地面から離れる。


「ちが……」


 少女の声が震えた。


「咄嗟に思いついて……私がみんなと同じように毒水の中に顔をつけたら……助からない……」


 ズールが立ち上がった。泥水が鱗の隙間から滴っている。ボルクの手を見た。


「下ろせ」


 ボルクが少女を下ろした。エーリャは膝をつき、咳き込んだ。


 ズールはエーリャを見下ろした。白濁した左目と、琥珀色の右目。何かを計算するような目だった。


 それから目を閉じた。


「許す」


 サーラが残った薬を二人分に分けた。ズールとボルクは慎重に毒に塗れていないことを確認し、粉状のそれを飲んだ。とても足りない。毒の進行を遅らせるだけだった。止めるものではない。


 ナァタは二人を担ごうとした。ボルクの腕を肩にかけ、サーラを背負おうとした。


「い、いや、無理だろ……おっ」


 ナァタより何倍も大きな巨漢のボルクはうめいたが、しかしナァタは難なく二人を肩に片方ずつ担いで見せた。足が震えることすらなかった。ズールがたまらずにすげえな、すげえなと笑っていた。


 崩れかけた板道では、全員の重さを支えられなかった。足場が軋み、ナァタの足が泥に沈む。


 サーラがナァタの背中から降りた。


「行きな」


 サーラはボルクの隣に座った。ボルクの顔の変色は首まで広がっている。


「ここで全員死んだら、薬を分けた意味までなくなる」


 エーリャは動かなかった。


「行きなって言ってんだろう」


 サーラの声が荒くなった。


「このクソガキ——」


 サーラは咳き込んだ。口元を押さえた手に赤黒い痰がついた。


 ナァタがエーリャの腕を掴んだ。少女の細い腕を引き、先へ歩き出した。


 背後から、ボルクの声が聞こえた。祈りだった。ジンへの祈りではなく、地上の、どこかの村で教わったであろう古い祈りの言葉だった。サーラの咳がそれに重なった。


 やがて、鐘が二度鳴った。


 低く、長い音が谷底に響いた。二度目の音が消えた後、背後から声は聞こえなくなった。


「あの二人を助けようとしてくれてありがとうな。俺に借金まみれにされた哀れな奴隷どもさ」


 それから少女に向き直った。


「エーリャ。帰ったら色々仕込んでやる」


 ズールの声は淡々としていた。


「お前が代わりになるんだ」




第四部 父の剣と母の祈り




第十一章 娘




 毒がズールを侵食したのは、ボルクとサーラが倒れた翌日だった。


 鱗の隙間から黒い線が広がった。ジンの前で泥に身を沈めた時に吸った毒が、十数回の生還で蓄積された体内の毒と反応していた。


 最初に左足が動かなくなった。引きずりながら歩き、やがて右足も重くなった。投げナイフの柄を握る指が震え、三本のうち一本が曲がったまま伸びなくなった。


「っけ」


 ズールは足場の端に座り込んだ。


「十数回この毒から生還した俺だが、今回はけっきょく、あの二人より一日長く生きただけだったか」


 ズールの顔は灰色になっていた。鱗の光沢が消え、乾いた泥のようにくすんでいる。白濁した左目はもう動かず、右目の琥珀色だけが暗がりの中で光っていた。


 ズールはエーリャを見た。


 それからナァタの方に押しやった。左手の三本の指のうち、動くのは二本だけだった。その二本で少女の背を押した。


「こいつをあんたに託す」


 エーリャは少し迷った後、心の底から悲しそうに、


「マイスター……」


 と呼びかけた。ズールは笑った。


「大切な娘なんだ」


 ズールの右目が閉じた。


 身体が前に傾き、石の上に倒れた。鱗が当たる乾いた音がした。


 沈黙が落ちた。


 ナァタはズールの身体を見下ろしていた。動かない。鱗の色がさらにくすんでいく。毒が死後も進行している。


「エーリャ」


 少女は動かなかった。膝をついたまま、ズールの姿を見ていた。


「こいつはさ」


 ナァタは言った。


「最後にそう思いたかっただけで、じっさい親らしいことなんか……」


「やめてください」


 エーリャの声は低かった。


 少女は立ち上がった。ズールの体に触れなかった。振り返らなかった。荷物を背負い直し、先へ歩き出した。


 ナァタは少女の背中を見た。細い肩に大きな荷物が揺れている。足取りは確かだった。迷いのない歩き方だった。行き先を知っているからではなく、立ち止まることを拒んでいるだけの歩き方だった。


 退路はジンの徘徊域によって閉ざされている。戻れば遭遇する。二人は最深部へ進み、別の出口を探すしかなかった。


 歩きながら、エーリャは何も言わなかった。


 長い時間が経つ。この昼も夜もない谷底では時間の感覚が曖昧になる……ナァタが口を開いた。


「どちらでもいい」


 エーリャが振り返った。


「憎むか慕うか、今すぐ決めなくていい。死んだ人間は永遠に待っている。すぐに感情を整理する必要はない」


 エーリャはナァタの顔を見た。


「あなたも、お父上とお母上にそう思っているんですか」


 ナァタは足を止めた。


「突っ込んだ質問だねえ」


 足場のぬらぬらする滑りやすい石の上で、ナァタはバランスをとった。泥の底から泡が浮かび、弾けた。硫黄の匂いが薄くなっていた。深部に近づいているのだ。


「……母は、父を刺し殺した」


 ナァタの声は平坦だった。事実を述べるだけの声だった。


「母は攫われたんだ。父に。ある王国から。父は騎馬を駆って近隣諸国をおそう大盗賊のボスだった。母は国の神の教えに忠実な敬虔なお人だった。母が平伏するのを。父は『それはヒキガエルの真似事か?』とバカにしていたが。ある日、『もう一人子供をくれてやる』と言った父に、母は刃物で反撃したってわけさ」


 エーリャは青い顔で話を聞いていた。


「その直後、私の目の前で自分の首を刺した」


 エーリャは息を呑んだ。


「最後の言葉は」


 ナァタは聖印に触れた。首から下がった曇った銀。


「私への『愛してる』だった」


 ランタンのせいで、足場の上に二人の影が伸びている。泥の表面にぼんやりと映った影は、ほとんど区別がつかなかった。


「母は」


 今までにない重い雰囲気の中で、ナァタは再び語り始める。


「母は祈りと信仰を教えてくれて、父は剣技を教えてくれた。父は私に戦士になれと言った。だが母は最後まで私に何をしてほしいか言わなかった。ただ愛していると言って死んだ。……私は、母が本当は何を望んでいたのかを、永遠に考え続けている」


 エーリャは慰めなかった。


「それは、ずるいですね」


 ナァタは少女を見た。


「死んだ人は、答えなくていいから」


 ナァタは少女の顔を見た。十四か十五の、痩せた顔。殴打の痕と泥の汚れと、それらの下にある、透き通った怒りの表情。


 ナァタは目を逸らし、先へ進んだ。




第十二章 供物




 最深部の光景を、ナァタは予測できなかった。


 金銀財宝があると思っていた。そうでなければあるいは骨の山、あるいは血の池。冒険者たちの噂に出てくる、邪神の住処にふさわしい光景を。


 だがそこにあったのは紙だった。


 無数の契約書が積み上がっていた。羊皮紙、木簡、石板、布に書かれた文書。契約書の山の間に、首輪が挟まっていた。鉄の首輪、革の首輪、金の首輪。王冠が転がっていた。宝石が嵌まった王冠、錆びた鉄の冠、木を削った粗末な冠。聖印があった。あらゆる神のあらゆる聖印が、泥に半ば沈んで散らばっている。家名を刻んだ墓石が傾き、奴隷の鉄輪が数珠つなぎに積まれていた。


 人間が他人を所有するために作ったものだった。


 それらから黒い鎖が生えている。


 鎖はそのすべてが中央に向かって集まり、中央にいるもの、つまりジンの身体へ繋がっていた。契約書の文字が鎖に変わり、首輪の鉄が鎖に変わり、すべてがジンの輪郭へ流れ込んでいる。ジンはそれらによって形を得ていた。鎖が肉になり、所有と契約と支配が積み重なって、一つの身体を成している。


 ナァタは膝をついた。


 自分の意志で。


「えっ」


 横でエーリャが驚きの声を上げるのにも構わずに。


 唯一神以外に平伏しなかった女が、泥の上に膝を沈めた。両手を地面について、頭を下げた。ナァタは今まで聞いたことがないような低い声で呟いた。


「守護神様」


 エーリャが息を止めた。


「どうか私を眷属にしてください」


 エーリャの口が開いた。声が出なかった。


 ジンは語らなかった。目のない頭部がナァタの方を向いている。契約書と首輪と鎖で構成された身体が、微かに脈動していた。


 ナァタは考えた。何を捧げればいいのか。


 剣を抜いた。


 父から受け取った剣。刃が欠け、柄が血に染まった剣。それをジンの前に置いた。それは沼の毒水に沈んだ。


 剣から鎖が伸びた。黒い鎖が剣の柄を巻き、ジャリジャリと巻き取られ引き上げられ、ある程度のところで止まってジンの身体へ繋がった。剣がナァタのものではなくなった。


 ナァタは目を閉じた。


 口が動いた。祈りの言葉が漏れた。母から受け継いだ祈り。


「無知のあたたかな闇が——」


 言葉が唇から離れた瞬間、鎖が生まれた。ナァタの喉、唇、そのすぐそばの空中で声が鎖に変わり、言葉がジンへ繋がれた。祈りがナァタのものではなくなった。


 ジンは沈黙していた。


 ……足りない。


 ナァタはそう解釈した。


 ナァタはエーリャの方を見た。


 少女はナァタから三歩離れた場所に立っていた。荷物を背負ったまま、ナァタを見ている。目が大きく開かれている。


 鎖がナァタの手元から伸びた。剣を繋いでいた鎖が分岐し、エーリャの方へ向かった。


 ナァタは理解した。


 見習いを殺すこと。それだけは、父に命じられたわけでも、母に教えられたわけでもない行為になる。県でも祈りでもない。自分で選んだ、自分だけの行為。


 鎖に繋がれた剣がナァタの手に戻った。刃が黒く光っている。


 ナァタは立ち上がり、エーリャの前に立った。


 剣先を少女の首に向けた。




第十三章 死にたくない




 エーリャは震えていた。


 膝が笑い、荷物の重みでよろめいた。それでも立っていた。ナァタの剣先を見ていた。黒い鎖に繋がれた、欠けた刃を。


「私を殺してください」


 ナァタの剣先が止まった。


 エーリャの声は震えていたが、言葉は明瞭だった。


「あなたが、望むものになれるなら」


 ナァタの顔が歪んだ。


 口元の筋肉が引きつり、目が見開かれ、歯が剥き出しになった。怒りだった。


「なあ、エーリャ」


 声が低く、太かった。


「そういうふうにすーぐ言いなりになる心根は、すげー嫌いだったよ」


「私が嫌いですか……ナァタさん」


「いや」


 ナァタの声がわずかに緩んだ。剣先は動かない。


「どちらかというと哀れに思ってるねー。せっかく自分の意思ってものに気づけそうだったのに」


 エーリャは目を細めた。涙をこぼしながら、しかし力強い、何かを睨むような目だった。


「では、あなたは違うんですか」


「はあ?」


「街で、頭を下げなかったじゃないですか。みんなが平伏しても、絶対に」


 ナァタは答えなかった。


「なのに今、自分からひざまずいた」


 剣先がわずかに揺れた。ナァタの手が震えているのか、少女の言葉に反応しているのか、判然としなかった。ナァタは一泊遅れて答える。


「……母親から受け継いだ信仰を捨てるためさ」


 エーリャは一歩も退かなかった。


「あの足の動かし方」


 少女は言った。


「お父上に教わったんですよね」


「……そうだ」


「じゃあ、私の頭を撫でたのは」


 ナァタの口が閉じた。


「あれは誰に教わったんですか」


 ナァタは剣を握ったまま動かなかった。鎖が軋んでいる。ジンの身体が脈動している。契約書と首輪と聖印が積み上がった最深部の中心で、二人は向かい合っていた。


 その沈黙は、ナァタのため息で終わりを告げた。


「……変わった命乞いだった」


 ナァタの口が歪んだ。笑いとは呼べない形に。


「面白かったよ。でもこれまでだ」


 剣先がエーリャの皮膚に触れた。首の横、動脈の上。冷たい鉄の感触が少女の肌を押した。


 エーリャは目を閉じた。


 震えていた。全身が。荷物が揺れ、鉄輪が鳴り、歯が鳴った。つぶった目の端から涙が流れた。大粒の涙が頬を伝い、顎から落ち、泥の上に染みを作った。


「……死にたくない」


 漏れ出た少女の言葉にナァタが歯軋りをした。


「さっき殺せと言っただろ」


「でも……」


 声は震えていた。喉の奥から絞り出すような声だった。


 ナァタは剣を向けたまま、少女の顔を見ていた。


 閉じた目から流れる涙。震える唇。鉄輪のはまった手首が身体の横で握りしめられている。爪が掌に食い込んでいる。


 ナァタはしばらく剣を向けたままだった。


「クソがよー」


 やがて、小さく笑った。


 息が漏れるような笑いだった。喉の奥で鳴る、短い音。




第十四章 祈りの続き




 ナァタは鎖に繋がれた剣を見た。


 黒い鎖がジンの身体へ伸び、契約書の山へ消えている。剣の柄は血と泥で汚れ、刃は欠けている。


 ナァタは剣を持ち上げた。鎖が軋んだ。引っ張られている。ジンの方へ。


「これは父から受け取った剣」


 ナァタは鎖に繋がれた言葉に手を伸ばした。空中に浮かぶ文字の列……。母の祈りが黒い鎖に絡まれて、ジンの身体へ流れ込んでいる。


「この祈りも、母から受け取ったもの」


 ナァタは立っていた。膝をついていない。いつの間にか立ち上がっていた。


 自由だと叫ぶことはしなかった。解放を宣言しなかった。何も持っていないという事実が、そのまま胸の中にあった。父の剣は鎖に繋がれた。母の祈りも鎖に繋がれた。残っているのは、空っぽの両手と、泥だらけの身体だけだった。


 ナァタは剣をジンへ向けた。


 鎖が張った。ジンの身体が脈動した。契約書が震え、首輪が鳴り、墓石が傾いた。


 ナァタは鎖を引いた。


 だがそのつながりは切れなかった。剣の刃は欠け、鎖は太く、ジンの身体は膨大だった。一人の人間が断てるものではなかった。


 ナァタは母の祈りを唱え始めた。


 鎖に繋がれた祈りではなく、自分の口から出る祈りを。


「無知のあたたかな闇が、私たちをいたわり包んでくれますように」


 鎖が振動した。ナァタの声と、鎖に繋がれた声が、二重に響いている。


「みんなが明日も、悲しい記憶に負けませんように」


 足元の泥が揺れた。契約書の山が崩れ始めている。


「復讐心の獣が、いつまでも眠りに就いていますように」


 鎖に亀裂が入った。


「私たちが神さまを忘れませんように」


 ナァタは止まった。


 母の祈りはここまでだった。母はいつもここで目を閉じ、聖印を握りしめ、夫が馬を駆る音を聞きながら、沈黙に戻った。


 ナァタの口が動いた。


「……そして、私たちが」


 声が掠れた。喉が締まっている。泥と血と毒で汚れた喉から、言葉を押し出すように。


「生きることに夢中になれますように」


 鎖が砕けた。


 一撃ではなかった。亀裂が走り、繋ぎ目が外れ、黒い破片が空中に飛び散った。ナァタの胸からジンへ伸びていた鎖が実体化し、目に見える太さの黒い鉄として現れ、そして砕けた。


 ジンは……震えた。


 身体を構成していた契約書と首輪と鎖の網はそのままで、ただナァタとエーリャに向かう鎖だけが形を維持できなくなっている。


 ジンが二人へ向かってきた。


 ナァタは剣を構えた。欠けた剣。鎖から解放された剣。


 エーリャが横に立った。足を半歩ずらし、軸を低くした。ナァタに教わった、一つだけの動作。


 ナァタの剣がジンの鎖を断った。一本、二本、三本。斬るたびに契約書が燃え、首輪が砕け、聖印が割れた。ジンの身体を構成するものが一つずつ消えていく。


 最深部が崩壊を始めた。天井から岩が落ち、壁が割れ、泥が噴き上がった。


 ジンは闇へ沈んでいった。形を保ったまま、しかし人間たちとの契約がないさらなる泥の底へ。


 ナァタは最後に声をかけた。


「去れ。この世界にお前の居場所はない、邪悪なものめ」


 天井が崩れた。岩と泥が降り注ぐ中を、二人は走った。エーリャがナァタの手を掴み、ナァタがエーリャの手を掴み返した。足場が崩れ、壁が迫り、泥が足を取った。


 光が見えた。


 灰色の、鈍い光。崖上から落ちる、谷底の光。


 二人は崩壊する最深部から這い出た。




第五部 誰のものでもない者たち




第十五章 人間の値段




 谷門街の城壁が見えた時、ナァタは立ち止まった。


 二人とも泥だらけだった。ナァタの両腕には乾いた血の跡が残り、剣の刃は半分以上欠けている。エーリャの荷物はほとんど失われ、握りしめた手にはズールの投げナイフが一本だけ残っていた。


 門番が二人を見て目を丸くした。あの門番だった。右足を引きずる、白髭の男。


「生きてたのか。あんたが気になって、こっちの見張りを買って出たんだ。ズール一行は全滅扱いだぞ。だが俺は信じてた!」


 ナァタは会釈だけして門番の前を通りし、ギルドの建物へ向かった。


 受付は混雑していた。遠征の帰還報告、死亡届、装備の回収申請、債権の移転手続き。ズール一行の全滅が既に記録されており、ズールの遺産……装備、契約、そして見習いの所有権は、ギルドへの返還手続きが進んでいた。


 ギルドの職員がエーリャを見た。手首の鉄輪を確認し、帳簿を開いた。


「ズールの所有見習い、エーリャ。所有者死亡により、契約に従い所有権はギルドへ返還。債務残高……


「待てよー」


 ナァタが受付台に手をついた。


 もう一方の手で、革袋を台の上に置いた。口を開くと、中から黒い結晶が転がり出た。受付が目を丸くする。


「こ、この輝き、この純度!?」


 毒心晶だった。


 崩壊した祭壇から剥がれ落ちた、拳大の黒い結晶。表面に虹色の光沢があり、中に細い脈が走っている。結晶の周囲の空気がわずかに歪み、台の上の書類が縁から変色した。


 職員だけでなく、その場にいた他の冒険者の手も止まった。


「これ、は、これほどのものを……」


 ナァタは言う。帰りの道中でエーリャに教わった知識を。


「腐敗心晶の上位結晶。複数の毒を中和する薬を作れるかもしれない。ギルドにとって、見習い一人とは比較にならない価値があるだろう」


 職員は結晶を見つめ、上司を見、帳簿を見、結晶を見、それからナァタを見た。


 ナァタは台に肘をついた。


「この毒心晶と引き換えに、エーリャの債務、違約金、所有権のすべてを買い取る。交渉の余地はないよー」


 交渉は長くはならなかった。


 ナァタが受け取ったのは、一枚の紙だった。所有証書。エーリャの名前と、所有者の欄にナァタの名前が書かれている。


 街を出た。


 城壁の外、ぬかるんだ道の上で、ナァタは証書をエーリャに差し出した。


「はい」


 エーリャは紙を受け取った。文字は読めない。だが何が書かれているかは知っていた。


 エーリャは紙を両手で持ち、端を折り曲げた。燃やそうとしていた。腰の革袋から火打ち石を探している。


 ナァタが少女の手を押さえた。


「売れるかもしれん。紙は高い」


 エーリャはナァタの顔を見た。


「こういう時くらい、格好をつけてください」


「全財産をキミに使った直後だからさー。格好をつける余裕はないよ」


 エーリャは証書を見つめた。紙の表面を指で撫でた。自分の名前の文字を、形で覚えている。その横にある、知らない文字……ナァタの名前……を指で辿った。


「これをくれたってことは、私は」


 少女は紙から目を上げた。


「あなたのものではないんですね」


「違うね」


「弟子では」


「それも自分で決めな」


「では、弟子になります」


「断る」


「じゃ、娘で」


 ナァタの顔が動いた。


 口が開き、閉じ、もう一度開いた。眉が上がり、目が泳ぎ、鼻の頭に皺が寄った。


 ジンの前で剣を構えた時より、ズールの投げナイフを弾いた時より、母の祈りに自分の言葉を加えた時より、ナァタは困った顔をしていた。


 エーリャは笑った。


 ナァタは答えなかった。


 二人は歩き出した。城壁が背後に遠ざかり、毒煙が薄れ、泥の道が乾いた土に変わっていく。


 ナァタの腰に剣はなかった。聖印は首に下がっている。銀は曇ったまま、紋様は摩耗したまま。


 エーリャの手首に鉄輪があった。外す方法はまだ見つかっていない。


 道の先には何もなかった。目的地はまだ決まっていない。


 それでも二人は歩いていた。

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