第5話 叔父の請求書
バザント叔父は、公爵家の玄関広間に立っているだけで場違いだった。
床に映るほど磨かれた石の上へ、泥の乾きかけた靴跡を半歩ぶんだけ残し、鼻の奥に刺さる安酒の匂いをまとっている。服は一応それなりの生地なのに、襟も袖も手入れが悪く、指に嵌めた大ぶりの石だけが妙に新しかった。生活の優先順位が、見栄の方へだけきれいに傾いている男の格好だ。
「聞こえなかったのか、スカイラー。戻れと言っている」
叔父はそう言って、私ではなく、先にエリシャへ視線を向けた。
「公爵閣下。姪が勝手にこちらへ転がり込んだようでしてな。田舎娘は夢を見ると困る。後見人として引き取らせていただきたい」
引き取る、という言葉に胃の底が冷えた。
一度目の人生でも、この男はいつも同じ言葉を使った。守るふりをして囲い、面倒を見るふりをして搾り、家族だと言いながら逃げ道だけを塞いだ。私の名義を借金の担保へ回そうとしたときも、言ったのだ。身内が面倒を見てやらなければ、女一人で生きられるものかと。
でも今日は、その台詞を最後まで聞いてやるつもりはなかった。
「叔父様」
自分の声が思ったより落ち着いていて、逆に少し驚く。
「私は昨夜、ヴァレントワール公爵閣下と正式に婚姻契約を結びました。後見の話は、もう成立しません」
「婚姻だと?」
叔父の顔がみるみる赤くなる。怒りというより、計算が外れた色だった。
「ふざけるな。お前にはまだ私の管理下にある財産が――」
「私の財産、ではなく、私を財産として数えていたのでしょう」
ぴしり、と空気が鳴った気がした。
周囲に控えていた使用人たちの視線が静かに集まる。誰も声を上げない。けれど黙って見ている。その沈黙が、今日はありがたかった。
バザントは鼻を鳴らし、胸元から紙束を引き抜いた。
「なら話は簡単だ。この娘の父の代から続く借財がある。返済義務は家名に属する。姪が公爵夫人になったのなら、なおさら支払えるだろう」
差し出されたのは、借用証の束だった。
黄ばんだ紙。大げさな署名。赤い封蝋。見た目だけはもっともらしい。けれど私は、その一番上の一枚を見た瞬間、胸の奥で何かがすっと冷えた。
知っている。
一度目の人生で、この紙に押し潰されかけた。泣きながら「こんなはずはない」と言った私へ、叔父は酒臭い息で「書類は書類だ」と笑った。そのときは、書類の形をした暴力に勝つ方法を知らなかった。
今は違う。
「見せてください」
紙束を受け取り、私は玄関脇の卓へ移った。エリシャは止めなかった。代わりに、私の横へ静かに立つ。逃げるでも庇うでもなく、見える位置にいる。その在り方がありがたかった。
一枚目。日付。
二枚目。印紙。
三枚目。署名の筆圧。
私は順番に目を走らせ、ふっと息をついた。
「叔父様。この借用証、随分お急ぎで整えたんですね」
「何だと」
「少なくとも一枚目は、父が亡くなった三か月後の日付です。亡くなった人が新しい借財の保証人にはなれません」
「っ、細かい誤記だ」
「誤記では済みませんよ。こちらの印紙も、去年廃止された旧式です。会計院に提出すれば、その時点で差し戻されます」
バザントの頬が引きつる。
私は二枚目を置き、三枚目を持ち上げた。
「それから、この署名。父は右払いをこう長く引きません。手首を痛めていたので、晩年はいつも短かった。昔の領地書簡なら幾らでも照合できます」
「そんなもの、覚えているわけが――」
「家族でしたから」
私がそう言うと、叔父の目が泳いだ。
家族、という言葉に最も弱いのは、この人だ。自分だけがそれを盾に使えると思っているから。
「さらに申しますと」
私は最後の紙を裏返した。
「この借用証の証人欄、同じ筆跡で二人分書かれています。書記官へ見せれば一目で分かります」
玄関広間の空気が、静かに変わっていく。
さっきまで暴れ込んできた身内の怒鳴り声に気圧されていた使用人たちが、今は叔父の足元を見ている。足元が崩れ始めた人間は、自分で気づくより先に、周囲に見抜かれる。
バザントは紙束を奪い返そうと手を伸ばしたが、その前に黒い手袋の手が一つ、私の前へ出た。
エリシャだった。
「その先は私が引き受けよう」
低い声は大きくない。それなのに、広間の隅までよく届いた。
「ヴァレントワール公爵家へ虚偽の借用証を持ち込み、当家の夫人へ不当な金銭請求を行った。軽い戯れで済ませるには、少々見苦しいな」
叔父は一瞬だけたじろいだものの、すぐ顔を歪める。
「こ、これは身内同士の話で――」
「残念だが、昨夜をもって彼女は私の配偶者だ。すでに身内同士ですらない」
その言い回しに、胸の奥がわずかに跳ねた。
契約だ。演技だ。分かっている。分かっているのに、言葉だけはまっすぐ届く。
エリシャは執事へ軽く視線を送った。
「法務官は」
「すでに別室でお待ちです」
叔父の顔色が、今度こそ変わった。
「は……?」
「朝から怒鳴り声が聞こえたので、必要かと思って呼ばせた」
公爵家の準備の良さが怖い。いや、今は頼もしいと言うべきかもしれない。
やがて隣室から、黒の法服を着た法務官が現れた。若くはない男で、羊皮紙よりも乾いた顔をしている。叔父を見るなり、感情の入らない視線を向けた。
「事情を伺います」
「いや、これは誤解で」
「誤解かどうかは、文面と提出経路を見れば分かります」
逃げ道が一つずつ塞がれていく。叔父はそれを肌で感じたのだろう。呼吸が浅くなり、指輪だらけの手が落ち着きなく動き始める。
「スカイラー、お前まで……! 身内を売る気か!」
「売る、という言葉をそんなに簡単に使わないでください」
自分の声が、思った以上に冷たかった。
「売られかけたのは、いつだってこちらです」
叔父の口が開き、閉じる。
初めて聞いた顔をしていた。そうだろう。私がこんな声音で返すとは思っていなかったはずだ。
エリシャはそれ以上、感情の応酬を許さなかった。
「バザント卿。今日は二つから選べる。一つ、法務官の前で正式な聴取を受ける。二つ、虚偽請求を撤回し、本件に関わる書類一式を置いて退く。どちらを選んでも、今後は私の許可なく夫人へ接触できない」
「なっ……」
「三つ目はない」
たったそれだけで、広間の主導権が完全に移った。
叔父は歯を食いしばり、私とエリシャを交互に見た。ここで暴れれば、今度こそ終わる。そう分かっている顔だ。
結局、バザントは紙束の一部を卓へ叩きつけるように置き、吐き捨てた。
「……覚えていろよ」
「忘れません」
私は答えた。
「今度こそ」
叔父は法務官に腕を取られはしなかったが、案内という名の監視付きで別室へ連れて行かれた。広間に残った酒臭さだけが、嵐の名残みたいに漂う。
静かになってから、ようやく私は息を吐いた。思った以上に肩へ力が入っていたらしい。指先がじんとする。
「立てるか」
隣から問われ、私は頷いた。
「大丈夫です」
「大丈夫な人間は、そんなふうに拳を握らない」
言われて、自分の手を見た。爪が掌へ食い込むほど握りしめている。
力を抜こうとしても、すぐには抜けなかった。
「……負けたくなかったんです」
「今日は負けていない」
「でも、まだ終わっていません。叔父一人を退けても、後ろにいる人たちは別ですから」
マリベル。ラフォント。会計院。あの処刑台へ続く紙の流れ。
私が見上げると、エリシャは短く頷いた。
「だから次を打つ」
「はい」
返した瞬間、執事が新しい来客札を持って現れた。差し出された札を見て、エリシャの眉がごくわずかに動く。
「誰ですか」
「夫人のお叔父上の退出と入れ違いで、伯爵家から使者が」
伯爵家。
嫌な予感が、喉の奥を冷たくなぞる。
札に記されていた家名を見て、私はすぐ理解した。
マリベル家だ。
使者は「叔父上のご心痛をお見舞い申し上げる」と、あまりにも整った文句だけを残して帰ったらしい。気遣いの顔をして、早すぎる。
つまり、もう向こうへ話が届いている。バザントは転んだ先で、次の手を求める。
その日の夕方、王都南区の伯爵邸では、薄桃色の茶を前にマリベルが小さく微笑んでいた。
「まあ。失敗したの」
絹手袋を外した指で、叔父から届いた走り書きをつまむ。汚れた紙は、その部屋にいるだけで場違いだった。
マリベルは一行だけ目を走らせ、すぐに火皿へ落とす。紙は静かに丸まり、黒く縮んだ。
「仕方ないわね」
向かいに立つ侍女が息を潜める。
マリベルは紅茶の表面へ映る自分の顔を見ながら、困ったように、けれど楽しそうに首を傾げた。
「では予定を早めましょうか」




