第4話 公爵家の朝
ヴァレントワール公爵家の屋敷は、朝日まで冷静だった。
王都の北区にあるその屋敷は、遠目には冬の城壁みたいに見える。灰色の石で組まれた外壁、高い窓、広い前庭。門をくぐった馬車が止まっても、誰一人として慌てて走ってこない。使用人たちは静かに整列し、執事は朝靄の中でも皺ひとつない服で頭を下げる。
その整い方に、私は少しだけ気後れした。
昨夜は救護院へ寄って、最低限の説明だけしてきた。子どもたちは眠そうな目をこすりながらも、私の袖を離そうとしなかった。明日また来ると約束し、ミナに帳場の引き出しの鍵を預けたところで夜明けが近づき、そこから公爵家へ移ったのだ。
眠っていない。けれど目は妙に冴えていた。
「こちらへ」
前へ出たのは、年齢の読みにくい女性だった。濃紺の侍女服を完璧に着こなし、髪は一筋も乱れていない。声だけで、屋敷の空気がその人を中心に回っていると分かる。
「筆頭侍女のタミアでございます。奥様のお部屋、衣類、必要な手配についてご案内いたします」
「……奥様」
「何か」
「いえ。まだ慣れなくて」
うっかり本音を漏らすと、タミアの目がほんの少しだけ動いた。笑いはしない。驚きもしない。ただ、値踏みの秤に一つ重りを足したような顔だった。
「慣れていただくほかありません」
「そうですね」
優しくはないが、無駄がない。嫌いじゃない。
屋敷の中は広かった。玄関広間を抜け、東棟の客間ではなく、きちんと夫人用に整えられた部屋へ通される。そのことにまず驚いた。契約結婚なら飾りの客間でもおかしくないと思っていたからだ。
「昨夜のうちに、閣下から指示がございました」
タミアは扉を開けながら言った。
「必要最低限ではなく、必要十分に整えよ、と」
「……そうですか」
たぶん、公爵なりの合理だ。妻を迎えたのに待遇が粗ければ、屋敷の統制が乱れる。そういう判断だろう。そう思うのに、胸のどこかが少しだけ温かくなるのは困る。
部屋の窓からは、まだ霜の残る庭が見えた。暖炉には火が入り、寝台には新しいシーツ。机には紙束と封蝋、インク壺まで用意されている。
「帳簿仕事をなさると伺いましたので」
「助かります」
「助かるだけでは困ります」
タミアは淡々と続けた。
「奥様がどういう事情でこの屋敷へ入られたか、私は存じ上げません。ただ、閣下が夜のうちにお決めになった以上、理由はあるのでしょう。ですが使用人たちは突然現れた新しい女主人を見ます。見て、判断します」
「ええ」
「怯えた顔を見せれば軽んじます。高慢な顔を見せれば反発します。どちらにしても屋敷は乱れます」
まっすぐな言葉だった。針はあるが、刺すためではなく縫い止めるための針だ。
「では、どうすれば?」
「動いていただきます」
言い切られ、私は少しだけ口元を緩めた。
「分かりました」
休む間もなく、私は屋敷の中を歩いた。
厨房。洗濯室。食料庫。子ども部屋として使えそうな空き部屋。使用人の休憩所。救護院で雑務を抱え込みながら覚えたのは、人の流れを見る目だ。どこで水が滞るか、誰が黙って無理をしているか、どこに物が足りないか。帳簿の数字だけではなく、生活の動線にも同じ癖が出る。
厨房では、朝の仕込み台が遠すぎて無駄に歩数が増えていた。洗濯室では、乾いた布と濡れた布の運びが逆方向にぶつかっている。食料庫では、冬野菜の置き場が暖炉の熱を受けやすい位置にあった。
「この棚、こちらへ動かせますか」
「は、はい?」
「それと、洗濯籠は二つ足りません。濡れたものと乾いたものを分けておかないと、仕事が遅れます」
「ですが、そのようなものは今まで……」
「今までで足りていたなら、昨夜の時点で侍女が二人も寝不足にはなっていませんよね」
きょとんとした若い侍女が、はっとして頷く。責めるつもりはない。回る形を知らないだけだ。
タミアは最初、腕を組んで見ていただけだった。けれど私が厨房の台を半刻で並べ替え、布の流れを整理し、使用人用の朝食の配膳時間まで逆算し始めると、やがて無言で一人の侍女へ指示を飛ばした。
「台車を二つ。空き部屋の寸法も測って」
「承知しました」
その声色が少しだけ変わっていた。試す側の声から、回す側の声へ。
昼前には屋敷の空気が少し変わった。人の動きに引っかかりが減り、足音が揃ってくる。こういう変化は目に見えにくいが、毎日働く人ほどすぐ気づく。
私は廊下の窓を開け、こもっていた熱気を逃がした。冷たい風が頬に当たる。
「無茶をしますね」
振り返ると、エリシャが立っていた。
朝から一度も姿を見ていなかったのに、いつの間にかそこにいる。整った黒髪も、ぴたりと閉じた外套も隙がない。けれど目だけは、屋敷の変化をちゃんと拾っていた。
「無茶ではありません。救護院より歩く距離が短いです」
「比較対象がおかしいな」
「公爵家は、もう少し不便な屋敷かと思っていました」
「そう見えたか」
「いいえ。人が良いので、仕組みで損をしている屋敷です」
エリシャの眉がわずかに上がる。
「随分な評価だ」
「誉めています」
「そうは聞こえない」
「事実は、たまに口当たりが悪いので」
ほんの一拍置いて、彼の口元がかすかに動いた。笑った、のだと思う。たぶん他人が見たら見逃す程度に。けれど私は見た。冷血公爵と噂される男が、屋敷の廊下でほんの少しだけ笑うところを。
「タミアが珍しく忙しそうにしていた理由が分かった」
「怒っていますか」
「逆だ。珍しく機嫌が悪くない」
それはかなり大きな成果ではないだろうか。
私は窓を閉め、机の上に置かれた注文票を手に取った。そこには毛布、冬靴、子ども用の寝間着の数が書いてある。
「これは」
「救護院向けです」
答えると、エリシャの目が注文票へ落ちた。
「昨夜のうちに数だけ確認しておきました。寒さが本格化する前に、足りない分を揃えたいんです」
「まだ屋敷にも慣れていないのに、先にそちらを考えるのか」
「慣れるのはあとでもできますから」
「倒れれば元も子もない」
「では倒れない範囲で急ぎます」
言いながら、私はつい口元を引き結んだ。急がなければならない。来月の監査まで、そう時間がない。
エリシャは何か言い返しかけ、しかしその前に玄関側から騒がしい声が響いた。
「どけ! 私はあの娘の後見人だぞ!」
低く酒焼けした怒鳴り声。忘れようもない声だった。
背筋が、嫌な冷たさで固まる。
叔父、バザント。
救護院に入る前、私の名義を借金の担保にしかけた男。領地の最後の麦まで売り払い、それでも自分は昼間から酒を飲み、困れば家族の名を使った男。一度目の人生では、この人が差し出した書類が、私をさらに追い詰めた。
足が一瞬止まりそうになった。
けれどそのとき、隣から低い声が落ちた。
「行くぞ」
エリシャだった。
短い二文字に、変な落ち着きがあった。慰めではない。大丈夫とも言わない。ただ、逃げる時間を与えず、並んで前へ出る声だ。
私は息を吸い、頷いた。
「はい」
玄関広間には、すでに酒気をまとった中年男が立っていた。派手な指輪をいくつもはめ、くたびれた上等服を着て、いかにも自分だけは立派だと言いたげな顔をしている。
バザントは私を見るなり、勝ち誇ったように顎を上げた。
「スカイラー。勝手な真似をしてくれたな。今すぐ戻れ」
処刑台の記憶が、一瞬だけ喉を締めつける。
でも今の私は、あの日の私ではない。
そして、もう一人ではなかった。
玄関の磨かれた床に、私とエリシャの影が並ぶ。
その向こうで、叔父の笑みがゆっくり歪んだ。




