第3話 契約結婚の条件
真夜中の図書館の閲覧室は、地下とは思えないほど静かだった。
長い卓の上に置かれた魔導灯が、青白い円を幾つも作っている。私はその端に座り、向かいのエリシャはまだ外套を脱がずにいた。逃がさないためでもあり、自分もいつでも動けるようにだろう。
信用されていない。それでいい。
信用は、今から奪い返す。
「まず確認する」
エリシャは指を組み、感情を挟まない声で言った。
「来月の監査で救護院の帳簿がすり替えられるという話だが、どの帳簿だ」
「寄付台帳と支出台帳です。表向きは修補のため回収されます。けれど本当は、支出欄と保護児童の移送記録を書き換えるためです」
「回収を指示する名目は」
「会計院からの監査準備通達。救護院側には、帳簿の保全のためと言います」
エリシャの視線がわずかに動く。知っている情報と噛み合ったときの目だった。
「回収の日は?」
「来月三日。雨の予報の朝。馬車は二台来ますが、本物の箱を積むのは後ろの荷台です」
「……そこまで具体的か」
私は頷いた。口の中が乾いている。
「そのあと、原本はいったん会計院の封印庫へ入れられます。でも監査の直前になると、原本だけ別の場所へ移されます。封印庫に残るのは写しと、改竄後の帳簿です」
「移送を行う人間は」
「表向きは下級書記官二人と衛兵一人。けれど命令書を出すのはラフォントです」
ラフォントの名を聞いた瞬間、エリシャのまぶたがわずかに下がった。やはりこの人は、もうあの男を疑っている。
「証拠は」
「まだありません。だから、閣下が必要なんです」
「ずいぶん率直だな」
「回り道をした結果、私は一度死にました」
言ってから、しまったと思った。死に戻りをそのまま口にしたようなものだ。
けれどエリシャは言葉尻を咎めず、ただ静かにこちらを見た。
「先ほどから、未来を知っている者の話し方をする」
「信じますか」
「まだ信じない」
即答だった。
「だが、嘘をつく者は普通、そこまで具体的に話さない。検証されれば終わるからだ」
少しだけ息が楽になる。
「では、次です」
私は卓に身を乗り出した。勢い込んだせいでインク壺が揺れ、慌てて押さえる。そんな小さな失敗が、妙に今の自分を現実へ引き戻した。
「二か月後、南橋で襲撃があります。時間は深夜一時前後。閣下が城から戻る経路を読まれていて、橋の欄干の陰に三人潜みます。最初の一撃は囮で、本命は右手側から来ます」
「私の護衛の数は」
「表向き二人。でも、その夜は一人が呼び出されて減ります」
エリシャの目に、初めて明確な緊張が走った。そこまで知っているなら、ただの噂では済まない。
「なぜそのことを知っている」
「……あのあと、王都で広まりました。閣下が橋で襲われた、と。助かったと聞いた人もいましたけど、実際は傷がもとで……」
言葉が喉に引っかかる。
私は見ていない。けれど知っている。一度目の人生で、処刑前に耳にしたのだ。王家の不正を追っていた公爵が、病で伏したまま亡くなったと。あのときは、そう発表されていた。
エリシャはしばらく黙り、やがて椅子の背にもたれた。
「私に近い場所にいる者でなければ知り得ない情報ばかりだ」
「だから、私が敵の手先かもしれないとも思っているでしょう?」
「当然だ」
言葉は冷たいのに、不思議と残酷ではなかった。無駄な慰めを入れない分、むしろ話が進む。
「では、どうすれば信じてもらえますか」
「信じるとは言っていない。使えるかどうかを判断している」
その言い回しに、胸の奥で何かがひどく静かになった。
ああ、この人はそういう人なのだ。優しい言葉で包まない。けれど必要なものを必要な形で差し出す。処刑台の下で何か言おうとしていたのも、たぶん同じだ。間に合わなくても、最後まで手を伸ばそうとした人の目だった。
「……それで十分です」
私がそう言うと、エリシャはほんのわずかに眉を動かした。
「十分?」
「はい。信じると言われて、守れなかった人たちがいましたから。使えるかどうかで見てくれる方が、今の私には安心です」
「変わった女だな」
「よく言われませんでした?」
「いいや。ここまで変わった求婚は初めてだ」
その一言に、さすがに少しだけ頬が熱くなった。こんな状況で求婚の形だけがまともに響くのは困る。
エリシャは卓の上の白紙を一枚引き寄せ、細身の筆を取った。
「条件を出す」
紙に走る筆音が、静かな書庫に細く響く。
「第一に、結婚は契約とする。君は私の妻として王都の表へ立つ。私が与える名と立場を利用し、救護院と関連帳簿へ近づけ」
「はい」
「第二に、君が掴んだ情報はすべて私に渡す。独断で敵へ接触しない。勝手に囮になるな」
「……努力します」
「努力では困る」
「守ります」
すぐに言い直すと、エリシャは続きを書いた。
「第三に、君の守りたいもの――救護院の子どもたちと、君自身の身柄には、私が手を出させない」
「……私自身も?」
「君が死ねば、こちらの損失が大きい」
「そういう言い方をするんですね」
「甘い言い方が好みか」
「いいえ。むしろ分かりやすいです」
本心だった。優しい約束ほど、壊れたとき痛いことを私は知っている。
エリシャは書き終えた紙をこちらへ回した。簡潔だが隙のない文面だった。最後の一行に、契約成立の条件として双方の署名が必要とある。
「君の条件は」
「子どもたちを救うこと。帳簿の原本を見つけること。そして……」
少しだけ迷った。
「そして、南橋の夜を変えることです」
エリシャの手が、ほんの一瞬止まった。
「私のためか」
「あなたが死ねば、その先で助けられる人が減ります」
「合理的だな」
「そう聞こえるなら、それで結構です」
本当はそれだけではなかった。
処刑台の下で、間に合わなくても私を見上げていた人を、今度は見殺しにしたくない。それはきっと合理だけではない。でも今ここで、それを名前のついた感情にする必要はなかった。
エリシャはしばらく私を見つめ、それから自分の名を書いた。
エリシャ・ヴァレントワール。
流れるような筆跡が、白い紙に深い黒で残る。
「次だ」
紙と筆が、私の前へ置かれた。
指先が少し震えた。震えながらも、私は書く。
スカイラー。
一度目の人生では、罪状書の下に書かされた自分の名が、今日は契約の下に並ぶ。
書き終えた瞬間、妙な実感がこみ上げた。後戻りできない。いや、もうしたくもない。
エリシャは契約書を持ち上げ、魔導灯の下で確認したあと、低く言った。
「これで君は、今夜からヴァレントワール公爵夫人だ」
「ずいぶん急ですね」
「君が急かした」
「そうでした」
思わず小さく息が漏れる。笑いに近いものだった。処刑台から戻ってきた夜に笑うなんて、自分でもどうかしている。でも、笑わなければ立っていられなかった。
「地上へ戻る」
エリシャが立ち上がる。
「明朝までに最低限の手配をする。君は一人で動くな」
「一つだけ」
「何だ」
「今夜、救護院へは帰れませんか」
問いかけると、彼はすぐに意味を察したようだった。
「別れも告げずに消えれば、子どもたちが不安がるからか」
「……はい」
「なら迎えの馬車を回す。説明の時間は短い」
「十分です」
私は立ち上がった。足元はまだ少し頼りない。それでも、処刑台へ向かうときの足取りよりずっとましだ。
真夜中の図書館の扉が開く。地上へ続く長い階段の上には、まだ夜がある。
けれどその夜は、もう終わるだけの夜ではなかった。




