第2話 深夜、真夜中の図書館で
石段の冷たさで、私は目を覚ました。
息がうまく吸えない。喉に残っていたはずの血の味がない。両手を見下ろす。縄の痕も、処刑用の白い衣もなかった。代わりに、擦り切れた外套の袖口と、見慣れた作業用の指なし手袋がある。
深く息を吸った途端、紙と革と古い蝋の匂いが肺に満ちた。
真夜中の図書館だ。
王宮地下の最深部にある書庫は、昼でも薄暗いというのに、深夜ともなればほとんど夜そのものだった。高い天井まで届く書架の影が幾重にも重なり、壁に掛けられた青白い魔導灯が、通路を細く照らしている。磨かれた黒い石床に、その灯りがぼんやり揺れていた。
私は石段の途中に座り込んでいたらしい。指先で段差をなぞると、削れた縁の感触まで覚えがあった。
この夜だ。
救護院に寄付された古い台帳の補修を終え、例外的に地下書庫への返却を許された夜。会計院の者ではなく、ただの救護院書記だった私が、たった一度だけこの場所へ通された夜。あのとき確か、外の鐘は十二を打ったばかりで、台帳の返却札に署名をもらい、急いで地上へ戻ろうとして――。
「……戻ったの?」
言葉にした途端、全身が震えた。
夢ではないのか確かめるように、自分の頬をつねる。痛い。石段の冷たさも、爪先の痺れも、全部はっきりしている。
一年前の、あの夜。
なら、まだ間に合う。
来月の監査が始まる前なら、救護院の帳簿はまだ完全にはすり替えられていない。子どもたちを売る契約書も、表に出る前で止められる。私に濡れ衣を着せる筋書きだって、今なら壊せる。
頭の奥に、処刑台の景色が焼け跡みたいに残っていた。泣いていたミナ。必死に背伸びしていたレオ。何もできないまま死んだ私。
「今度は……」
今度は、誰にも渡さない。
立ち上がろうとして、足元に銀のきらめきが散っていることに気づいた。小さな鏡片だった。階段の下、書庫の最奥へ続く扉の前に据えられた大きな魔導鏡の縁から、ほんの欠片だけ剥がれ落ちたらしい。
覗き込んだ鏡片には、青白い灯りに照らされた私の目が映っていた。死の直前よりもずっと若い顔。けれど瞳の奥だけが、もう別人みたいだった。
そのとき、書架の向こうで布ずれの音がした。
反射的に身を引き、階段の陰へ半歩隠れる。こんな時間に書庫へ来る者は限られる。司書か、王家の許可を持つ者か、それとも――。
「そこにいるのは誰だ」
低くよく通る声だった。聞き間違えるはずがない。
エリシャ。
胸が強く跳ねた。処刑台の下でこちらを見上げていた灰色の瞳が、今は書架の間の闇を冷静に見据えている。黒の外套を羽織り、片手には封印書庫用の鍵束を持っていた。公爵がこんな深夜に一人で地下書庫へ降りる理由を、私はもう知っている。
一度目の人生で、この人もまた王家の汚職を追っていた。
そして、真実へ近づきすぎて殺された。
未来を知っている私だけが、その死を知っている。
恐怖より先に、切迫感が込み上げた。ここで黙ってやり過ごしても、何も変わらない。変えたいなら、今日この場で掴まなければならない人がいる。
私は物陰から出た。
「……私です。救護院の書記、スカイラーです」
エリシャの視線が鋭く細まる。こんな時間に、王宮地下の最奥で、ただの書記がうずくまっていれば怪しまれて当然だ。
「返却記録は先ほど受理されていたはずだ。なぜまだここにいる」
「少し、気分が悪くなって……」
半分は本当だった。死んで戻ってきたばかりで平然としていられる人間などいない。
けれどエリシャは言い訳をそのまま受け取る男ではない。灰色の目が、私の手元、足元、鏡片にまで一瞬で走った。
「その顔は、ただ気分が悪い者の顔ではないな」
「……そうですね」
喉の奥がひりつく。
今から言おうとしていることは、正気の人間の台詞ではない。けれど、正気のまま死んだ結果があの処刑台だった。
なら、みっともなくても、狂って見えても、言うべきだ。
私はまっすぐエリシャを見た。
「公爵閣下。お願いがあります」
「内容による」
「私を妻にしてください」
沈黙が落ちた。
魔導灯の微かな唸りだけが、書架のあいだで続いている。
エリシャの表情が、初めて崩れた。驚いたというより、予想の外から殴られたような顔だった。あの冷徹な公爵にそんな顔をさせたのが自分だと思うと、本来なら少し怯むところだ。でも今はそんな余裕もない。
「……ここが地下書庫でなければ、冗談として切り捨てている」
「冗談ではありません」
「なら、正気を疑う」
「疑ってください。でも、その前に聞いてください」
一歩だけ近づく。足が震えないよう、外套の裾を握った。
「来月の監査で、救護院の帳簿はすり替えられます。会計院の封印庫へ移されたあと、元の原本は別の場所へ隠されます。子どもたちは奉公の名目で売られ、私は横領の罪を着せられます」
「……誰から聞いた」
「聞いたわけではありません。知っているんです」
エリシャの目が、温度を失った剣のように光る。これ以上言えば、捕らえられてもおかしくない。けれど私は止まらなかった。
「そして閣下は、二か月後の深夜、南橋で暗殺されます」
「何だと」
空気が変わった。
さっきまで怪しい女を見ていた目が、今は危険な証言者を見る目に変わっている。嘘なら許されない一線を、私はもう踏み越えた。
「私を信じなくて構いません。でも、私を使ってください。私は、あなたが追っている汚職の証拠へ辿り着けます。その代わり、救護院の子どもたちを守りたいんです」
処刑台で見た顔が、胸に次々と浮かぶ。
ミナ。レオ。ユナ。熱が出るたび私の袖を握って眠った小さな手。入所順の札で呼ばれ、本当の名前より先に番号を覚えさせられていたあの子たち。
「もう、失いたくないんです」
最後の一言だけ、どうしても声が震えた。
エリシャはすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、彼は手にしていた鍵束を静かに鳴らし、私を見下ろした。
「救護院の書記が知り得ないことを、君は二つ知っている」
「はい」
「一つは、会計院の動き。もう一つは、私の予定だ」
「はい」
「そのうえで、私に求婚した」
「はい」
自分でも馬鹿みたいだと思う返事をしたのに、笑われなかった。
エリシャはほんの少しだけ目を細めた。警戒の色は消えない。それでも、完全に切り捨ててもいない。
「いいだろう。まずは続きを聞く」
「……続き?」
「君が本当に未来を知っているのか、それとも非常に質の悪い策を抱えているのかを見極める。話はそのあとだ」
その言い方に、冷たさとは別の救いを見た気がした。即座に否定しない。判断を先送りするのではなく、確かめる余地をくれる。
死ぬ前の私なら、それだけで泣いていたかもしれない。
でも今は泣かない。
あの鏡の中の私に、もう約束してしまったから。




