第12話 帳簿の穴
コバチェフは、救護院の食堂へ入るなり三度ほど振り返った。
追われている人間の振り向き方だった。確認しても安心できず、確認すること自体がもう癖になっている顔。帽子の鍔は指で潰れ、襟元は寒さ以上に汗で湿っている。
「座ってください」
私が勧めても、彼は椅子へ腰を下ろす前に窓を見た。
タミアが黙ってカーテンを引き、オリヴェルが戸口へ立つ。それだけでようやく、コバチェフは崩れるように座った。
「すみません……来るつもりじゃ、なかったんです」
「でも来てくださった」
「来ないと、もっとひどいことになる気がして」
彼の声は細かった。
会計院では、こういう男が一番すり減る。自分で筋書きを描けるほど強くない。だが紙の違和感に気づく目だけはある。強い者の命令へ従いながら、その従った先の匂いに怯え続ける。
「見せてください」
私が手を差し出すと、コバチェフは上着の内側から帳面を出した。会計院の正式台帳ではない。書記官が控えを取るための薄い革表紙の帳面だ。
「原本じゃありません。けど、移し替えの前に……ちょっとだけ、控えを」
「十分です」
私は長机の上へ帳面を開いた。
列は細かい。寄付金、救済金、物資の搬入、支出、保護児童の人数。数字そのものは一見すると整っている。けれど三頁目で、すぐ分かった。
「ここ」
私は指先で行を押さえた。
「この週だけ、支出が丸ごと飛んでいる」
コバチェフがびくりとする。
「やっぱり」
さらに頁をめくる。
月末締めのはずなのに、中旬で一度切れている。寄付金の受領印も、同じ印影が二度使われていた。救護院向けに計上された毛布代が、その翌頁では別名目の運搬費へ化けている。
数字は嘘をつく。
でも、つき方には癖が出る。
「穴です」
私は小さく言った。
「丁寧に埋めたつもりでしょうけど、飛ばした場所の前後が整いすぎている。人が本当に使ったお金は、こんなに綺麗に揃いません」
エリシャが私の隣に立ち、帳面へ視線を落とした。
「どこまで辿れる」
「控えだけでは、改竄されたと示すのが限界です。原本が要ります」
その言葉に、コバチェフの肩が目に見えて縮んだ。
「やっぱり、そうなりますよね……」
彼は乾いた唇を舐めた。
「原本は、もう会計院の普通の棚にはありません」
「封印庫ですか」
私が言うと、彼は恐る恐る頷いた。
「監査前に一度、封印庫へ移します。名目は“保全”。でもそのあと……」
「そのあと別の場所へ流す」
私が続けると、コバチェフは目を剥いた。
「どうしてそれを」
答えられない。死に戻ったからです、とは。
「予想していました」
代わりにそう言い、私は次の頁を開いた。
「そして、あなたはその移送の控えも見た」
コバチェフはしばらく黙り込み、やがて力なく頷いた。
「命令書を、綴じる前に少しだけ……見てしまったんです。見ないふりをするつもりだったのに、印が変で」
「変?」
「会計院の封印印だけじゃなくて、別の副印がありました。王家の。正式な大印じゃない、でも王宮の保管命令で使うやつです」
室内が、すっと冷えた気がした。
王家の副印。
ラフォントやマリベルだけではない。もっと上が、少なくとも紙の移動に関与している。
plot整合? yes.
エリシャの表情はほとんど変わらなかったが、声が一段低くなる。
「見間違いではないな」
「見間違いならよかったんですけど……。あの印、昔、保管庫の出納文書で見たことがあります」
私は帳面を閉じ、少しだけ身を乗り出した。
「その命令書、今どこに」
「今は封印庫の綴りに入ってるはずです。でも、監査の前日には抜かれるかもしれません」
時間がない。
コバチェフはそこで急に立ち上がりかけた。
「やっぱり無理だ。僕はここまでです。帳面は渡した。だから、もう」
逃げるように椅子が鳴る。
オリヴェルが戸口で身構えたが、私は首を振った。
「責めません」
コバチェフの動きが止まる。
「でも、これだけは言わせてください。あなたが今まで黙っていたことを、私は責めません。黙らなければ生き残れない場所だったんでしょうから」
彼の喉が動く。
「……なら」
「ただ、次は私が前に出ます」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「あなたに剣を持てとは言いません。会計院で誰かに噛みつけとも言いません。でも、逃げるだけでは終われないと思って、今日ここへ来たのでしょう」
コバチェフは帽子を握り締めたまま、何も言えない。
「次に必要なのは、命令書を見た日時、綴りの位置、担当の出納係。それだけです。あなた一人で全部背負わなくていい。背負わせたくて呼んだわけでもありません」
長い沈黙のあと、彼は椅子へ座り直した。
「……第三保管列の二段目です」
消えそうな声だったが、確かに前へ進む声だった。
「出納係は、グレナート。封印当番は二日に一度代わりますけど、あの男は酒に弱い。夜番の前には絶対に飲まない。だから逆に、休憩へ入る時間がきっちりしてる」
言葉が出始めると、止まらなくなった。
怖がりながらも覚えていた細部が、次々に机の上へ並ぶ。保管列。鍵束の色。綴りの厚み。副印の位置。
私はそれを一つも逃さず書き留めた。
やがてコバチェフは、力を使い果たしたように背もたれへ寄りかかった。
「これで、僕はもう終わりですか」
終わり、という言い方が胸に残る。
「いいえ」
私は答えた。
「これで、ようやく始まります」
彼は泣きそうな顔で笑った。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない笑いだった。
帳面を包み直しながら、私は頁の端へもう一度目を落とした。空白に見えた行。その裏に、人の運命が丸ごと抜かれている。
原本がなければ、公の場で勝ち切れない。
けれど原本の流れは見えた。封印庫。そこから別の保管庫へ。しかも王家の副印つきで。
出口が見えたわけではない。
むしろ、敵の階段が思ったより上まで続いていると分かっただけだ。
それでも、一度目の人生よりずっとましだった。
あのときの私は、穴に落ちてから穴の存在を知った。今の私は、落ちる前に穴の位置を見ている。
夕暮れが食堂の窓を薄青く染め始めたころ、エリシャが机の上の紙をまとめた。
「今夜のうちに動く」
それは独り言のような低さだったが、私には十分聞こえた。
「封印庫へ?」
「まずは入口までだ。中へ入るには鍵だけで足りない」
「副印の照合も必要ですね」
「そのために、書庫側の知恵も借りる」
真夜中の図書館。アリッサ。王家の保管慣習。
線が一本ずつ繋がり始める。
私は閉じた帳面へ手を置いた。
「今度は、数字を燃やさせません」
エリシャはその手の上に視線を落とし、短く頷いた。
「数字だけではない。君もだ」
息が、少しだけ止まる。
でも彼はそれ以上何も言わず、紙束を取り上げて歩き出した。合理の顔をしたまま、時々だけそういう言葉を落とすからずるい。
食堂の戸が閉まる。
外はもう夜へ向かっている。
封印庫の中にある原本台帳。
その移送命令書についた王家の副印。
そして、まだ消えていない子どもたちの名前。
奪われたものを取り返すための道筋が、ようやく次の階段を見せた。




