第11話 救護院防衛線
火をつけられかけた翌朝、救護院は妙に静かだった。
泣き疲れて眠った子どもが多かったせいもある。けれど本当は、皆、昨夜のことを言葉にする前で止めているのだ。火は上がらなかった。壁も焼けていない。けれど、もう少し遅ければ終わっていたかもしれないと、大人も子どもも肌で知ってしまった。
静かな朝ほど、やることは多い。
「避難経路は二本必要です」
私は食堂の長机へ紙を広げた。
「正門側と、裏の洗濯小屋を抜ける道。年長組が年少組の手を引く組み合わせも固定します」
向かいにはタミア、オリヴェル、院長代行のグリンダ夫人、そして公爵家から連れてきた使用人が四人。
タミアは昨夜ほとんど眠っていないはずなのに、髪一本乱れていない。
「寝具は何組足りません」
「厚手が十二、薄手なら二十」
私が即答すると、タミアは頷き、横で控える侍女へ書きつけさせた。
「窓の鍵は」
「西側二つが緩んでいます。釘打ちではなく金具で補強を」
「食料庫」
「乾物は三日分、薪は五日分。油は昨夜の件があるので別保管」
問答が、ほとんど呼吸みたいな速さで進む。
タミアは元々、感心した顔を見せる人ではない。けれど私の答えを聞くたび、否定のためではなく次へ進めるために頷く。そのことが、言葉よりずっとありがたかった。
グリンダ夫人は途中から小さく目を見張っていた。
「あなた、公爵家へ上がったばかりでは」
「寝る前に数えました」
「全部?」
「全部です」
数えないと眠れなかった、とは言わなかった。
オリヴェルは壁に背を預けたまま、真面目な顔で紙を覗き込んでいたが、途中で眉を寄せた。
「待て。避難の順に六番と九番が抜けている」
私は顔を上げた。
「抜けていません。六番ではなくミナ、九番ではなくトールです」
部屋の空気が一拍だけ止まる。
グリンダ夫人が咳払いをした。
「管理上、番号の方が――」
「番号は札に書けば十分です」
私は紙から目を離さず言った。
「呼ぶときは名前で。避難のときほど、人は自分の名前で動きます」
昨夜の恐怖を思い出せば、なおさらだった。
タミアが静かに口を開く。
「公爵家の使用人にも伝えます。札の番号ではなく、名前で呼ぶように」
私は思わず彼女を見た。タミアは相変わらず無表情に近い顔をしている。
「何か」
「……いえ」
「有事の指示は短い方が良いだけです」
照れも飾りもない言い方だった。けれどそれで十分だった。
午前のうちに、救護院の空気は目に見えて動き始めた。窓の補強。寝具の運び込み。薪置き場の移動。裏口へ増やす見張り台。公爵家の若い従者が慣れない手つきで水桶を運び、救護院の年長の子が得意げに近道を教えている。
境目が少しずつ薄くなる。
公爵家の者と救護院の子ども。屋敷で働く大人と、守られるばかりだった子ども。
立場は違っても、同じ場所を回す手になれる。
「先生ー!」
昼近く、食堂の奥からレオの声が響いた。
「見て!」
振り向くと、子どもたちが小麦粉だらけになっていた。
嫌な予感しかしない。
「何をしているの」
「夜食!」
「朝です」
「じゃあ朝に食べる夜食!」
理屈になっていない。
大鍋の横には、砕いた堅焼き菓子、溶かした干し果物、蜂蜜、木の実、なぜかバターの塊まで並んでいた。昨夜の騒ぎであまり眠れなかった子どもたちへ、腹持ちのいいものを作ろうと誰かが言い出したらしい。
年長のミナが胸を張る。
「強いやつ作るの」
「どのくらい強いの」
「たぶん、十万」
「何が」
「カロリー?」
私は思わず額を押さえた。
前世の断片的な記憶にある単位を、どこで覚えたのか分からないまま子どもたちが面白がって使っている。たぶん以前、私が食堂で冗談半分に言ったのだ。これ一つで十万カロリーありそう、などと。まさかこんな場で回収されるとは思わなかった。
「十万はありません」
「八万?」
「多く見積もってもそこまでいきません」
そこでタミアがひょいと鍋の中を覗いた。
「砂糖は入れすぎです。固まらない」
「えっ」
「蜂蜜を減らして、代わりに粉を足す。ほら、そこを空けなさい」
気づけば彼女が袖をまくり、混ぜ方まで指示している。子どもたちは最初こそ緊張したが、すぐに「タミア先生」と勝手に呼び始めた。
「先生じゃありません」
「じゃあ隊長」
「それも違います」
言葉は冷たいのに、手元は正確だ。混ぜる速さ、焼き加減、切り分けの厚さまで無駄がない。
オリヴェルがそれを見て吹き出した。
「屋敷でも見たことのない顔をしてるぞ、タミア」
「黙って薪を運んでください、騎士様」
食堂に、ようやく普通の笑いが戻った。
焼き上がった菓子は、見た目だけなら煉瓦に近かった。
けれど一口齧ると、意外にもおいしい。蜂蜜の甘さに干し果物の酸味が混じり、歯応えはあるが嫌な固さではない。
「どう?」
レオが期待に満ちた目で私を見る。
「……生き延びられそうな味がします」
「やった!」
その言い方が気に入ったらしく、子どもたちは大騒ぎになった。
そこへ、遅れてエリシャが食堂へ入ってきた。公爵が子どもだらけの食堂へ現れるだけでも珍しいのに、全員の視線が一斉に集まる。
「公爵さま!」
「食べる?」
「十万のやつ!」
誰か説明してほしい。いや、しなくていい。
レオが皿を差し出し、エリシャはそれを見下ろした。焼き色の濃い四角い塊が三つ。見た目の圧はかなりある。
「何だ、十万のやつとは」
「いっぱい元気になるやつです」
ミナが真剣に言う。
エリシャは皿を受け取った。私は咄嗟に止めかけたが、彼は先に一つ齧る。
子どもたちの期待の視線。タミアの無表情。オリヴェルの面白がる顔。
数秒の沈黙のあと、エリシャは二口目を食べた。
「悪くない」
その四文字で食堂がひっくり返るほど沸いた。
「ほんと!?」
「公爵さまが二口いった!」
「じゃあ成功だ!」
成功の基準が雑すぎる。でも、子どもたちが笑っている。昨夜の震えが、少しだけ身体から抜けていくような笑い方で。
エリシャは結局、三つとも食べ切った。さすがに最後は水を飲んでいたが、顔色一つ変えない。子どもたちはすっかり英雄を見る目になっている。
「無理をなさらなくても」
私が小声で言うと、彼は淡々と返した。
「君が先に“生き延びられる味”と言った」
「それは比喩です」
「子ども相手に比喩は危険だな」
たしかにそうかもしれない。
午後には、避難訓練の段取りまで決まった。夜番の表も作り直した。グリンダ夫人は最後には疲れ切った顔をしながらも、書類へ署名した。
その署名が終わったとき、私はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
守るというのは、剣を抜くことだけではない。
窓の金具を替え、寝具を運び、食堂で笑わせることも、同じくらい大事だ。
火を止めた夜の次の日に、こうして菓子の甘い匂いが残っている。
それだけで、未来はまだ書き換えられると思えた。
ただし、数字の方はまだ何も終わっていない。
夕方近く、玄関で一人の男が帽子を握り潰しそうな手つきで立っていた。
会計院の下級書記官、コバチェフだった。
顔色が紙より白い。
「……少しだけ、見てほしいものがあります」
そう言った声が、今にも逃げそうに震えていた。




