第10話 鏡の警告
夜会の外気は、火の予兆を知らない顔で冷たかった。
私は馬車へ駆け込み、ドレスの裾を自分の足で踏みそうになった。エリシャが無言で裾を持ち上げ、向かいの席へ押し込むように座らせる。御者台へ短く命令が飛び、馬車は石畳を激しく鳴らして走り出した。
「今の鏡、毎回ああして映るんですか」
揺れに耐えながら私が問う。
「断片的だ。場所も時刻も揃わない。だが君が戻った夜から、鏡の映りが変わった」
「私が触れたから?」
「あるいは、君が変えようとしているからだ」
答えを断言しないところが、かえって重い。
馬車の窓の外で、王都の灯りが細長く流れていく。冬の深夜は道が空いているはずなのに、今夜はやけに遅い。焦りが喉を焼く。
「火が回ってしまったあとだったら……」
「まだ回っていない」
エリシャの声は断定に近かった。
「鏡は警告として出た。現実が追いつく前に動けるなら、間に合う」
その言葉を信じるしかなかった。
途中の角で、王宮詰めから引き抜かれたオリヴェルが合流した。馬を飛ばして並走し、窓越しに短く状況を聞く。
「救護院だな。裏口と薪置き場を先に見る」
「お願いします」
馬車が南区へ入ったころには、私の指先は冷たく痺れていた。
けれど救護院が見えた瞬間、鼻先に焦げ臭さはなかった。窓にも、屋根にも、火の色は見えない。
「まだ……!」
言い終わる前に、オリヴェルが馬から飛び下りた。
彼は門ではなく、建物脇の細い通路へ迷いなく走る。私たちも後を追った。
裏口の陰に、人影が二つ。
一人は樽を抱え、もう一人は腰をかがめて火打ち石を打とうとしていた。樽の口からは、鼻を刺す油の匂いが濃く漂う。
「止まれ!」
オリヴェルの怒声が夜気を裂いた。
男たちははっと顔を上げ、片方が火打ち石を落とした。もう片方が樽を蹴り倒し、油が石畳へ広がる。もし一呼吸遅ければ、裏口の木壁へ火が走っていただろう。
逃げようとした男の肩へ、オリヴェルが体ごとぶつかった。鈍い音がして、二人とも地面へ転がる。もう一人は路地へ走ったが、エリシャが外套の裾を払うようにして道を塞いだ。
派手な動きではない。けれど相手はそれだけでたじろぎ、振り向いたところを私が落ちていた火打ち石袋ごと蹴り飛ばした。
「そこまでです!」
男は舌打ちし、懐から短刀を抜く。
息が詰まった。けれど次の瞬間には、エリシャの杖の石突きがその手首を正確に打ち、短刀が跳ねた。
「逃がすな」
低い声と同時に、建物の影から公爵家の護衛が二人現れる。いつの間に先回りさせていたのか分からないが、男の両腕はたちまち抑え込まれた。
私は裏口へ駆け寄った。
「ミナ! レオ!」
中から、年長の子どもたちが怯えた顔で戸を開ける。皆、寝巻の上へ毛布を引っ掛けたままだった。
「先生……?」
ミナが目を見開く。
「どうしたの、なんでこんな夜に」
「説明はあと。全員、広間じゃなく食堂へ移って。窓から離れて、年下の子の手を離さないで」
私の声で、子どもたちはただならないことを察したらしい。泣き出しそうな顔をしながらも動き始める。
外では、捕らえた男のうち一人が歯を食いしばっていた。樽を持っていた方だ。まだ若い。頬に痩せた影がある。
「誰に頼まれたの」
私は問うた。
男は私を見上げ、吐き捨てるように笑った。
「知らねえよ。燃えりゃよかったんだ」
「報酬は?」
「銀貨五枚」
安すぎる。
人の寝床を燃やす額として、あまりに安い。つまり捨て駒だ。
その瞬間、男の首筋が不自然にひくついた。
唇の端から泡が滲む。
「危ない、噛んだ!」
オリヴェルが叫んだ。奥歯の裏に仕込んだ毒だ。証言する前に、自分で口封じするつもりだったのか、あるいはそう命じられていたのか。
男の体が崩れかけたそのとき、細い足音が石畳を打った。
「口をこじ開けて!」
駆け込んできたのは、外套の裾を乱したディウセだった。時計職人にして薬師。王都南区で深夜まで診療所の裏口を開けている、あの無口な男だ。
片手に薬箱、もう片方に小さな金具を持っている。
「どうしてここに」
「公爵家から使いが来た」
それだけ言って、彼は膝をついた。
やはり先回りしていたのだ。エリシャは救護院へ向かう途中で、毒も想定していたらしい。
ディウセは男の顎を支え、噛みしめた歯の隙間へ金具を差し込み、苦い匂いの液を流し込んだ。喉が痙攣し、男は激しく咳き込む。泡が地面へ散る。
「全部は防げないが、死ぬまでの時間は稼げる」
「証言は」
「意識が戻れば、少しは」
その言葉に私は息を吐いた。
まだ、繋がる。
もう一人の男は護衛に押さえつけられたまま喚いていたが、仲間の様子を見て急に青ざめた。
「俺は知らねえ! ただ運ぶだけだって言われて……!」
「誰に」
エリシャが問う。
「屋敷勤めの女だよ。顔は隠してた。でも、これを見せられて……」
震える指が懐の布袋を示す。護衛が中身を改めると、小さな銀の章が転がり出た。
月桂樹の意匠に、細い百合。
マリベル家の使用人章だった。
喉の奥が冷えた。
あまりに早い。あまりに露骨だ。けれど、露骨だからこそ捨てるつもりなのだろう。末端へ章を渡し、切らせる。捕まっても下働きが勝手にやったと言い張れる形だ。
「証拠として押収する」
エリシャが言う。
私は章を見下ろしながら、燃えかけた未来の赤を思い出していた。
今夜は止めた。だが向こうも、救護院を黙らせる必要があると認めたということだ。
つまり、こちらが踏んだ場所は間違っていない。
食堂の中では、子どもたちが肩を寄せ合っていた。私はその輪へ入り、一人ずつ顔を見た。全員いる。まだ誰も欠けていない。
ミナが私の袖を握る。
「先生、火事になるところだったの?」
私は少し迷ってから、頷いた。
「でもならなかった。間に合ったから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
レオが毛布の下から顔を出す。
「じゃあ、今日は寝ていい?」
「寝ていいです。むしろ寝てください」
その場にいた何人かが、緊張の切れ目で小さく笑った。
笑えるなら、まだ折れていない。
夜が白み始める前、捕らえた男はディウセの薬でかろうじて意識を保ち、震える手で署名した。火をつける直前に銀章を見せられ、救護院の帳簿が燃えれば褒美が増えると約束されていたと。
私はその紙を見つめた。
救護院の帳簿。
やはり狙いは、子どもたちだけではない。金の流れそのものを消す気だ。
なら守るべきものは二つだ。
子どもたちの寝床と、数字の並んだ紙束。
どちらも軽く見えて、奪われれば人生が消える。
東の空が少し明るくなったころ、エリシャが私へ外套を掛け直した。
「今夜は終わりではない」
「分かっています」
「明けたら屋敷の人員を回す。救護院の夜警も増やす」
「ありがとうございます」
礼を言うと、彼はわずかに眉を動かした。
「礼はあとでいい。まず眠れ」
たぶん私は、ひどい顔をしていたのだろう。
でも、眠る前に一つだけ確かなことがあった。
鏡が見せた赤い未来は、今夜ひとつ潰せた。




