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9/27

 濡烏の背は、歩くというより、夜の深いところへ身体を預けながら進んでいた。

 俺が、そのあとを追うたび、駅裏の道は少しずつ見覚えのある形を失っていく。

 自販機の白は、まだ背中側にあるはずなのに、振り返るともう見えなかった。

 高架の柱は、同じ本数のまま並んでいる。

 路面の割れ目も、フェンスの高さも、見覚えのあるままだ。

 それなのに、そのあいだを満たしている空気だけが、現実より一枚ぶん深かった。


「逸れるな」

 濡烏は、振り返らずに言った。

「ここから先は、町の顔をしたまま、町ではない」

 俺は、何も返さず、その黒い背を追った。


 高架下のコンクリートは、昼間と同じ灰色のはずなのに、夜の中では少し青みを帯びて見えた。

 壁に走る古い雨筋。

 剥がれかけた注意書き。

 鉄骨の継ぎ目に溜まった黒い汚れ。

 昼なら視界の端で済むものたちが、今はどれも妙に近く、妙にくっきりと見えた。


 濡烏は、影と影の縫い目だけを選ぶように進んでいく。

 街灯と街灯のあいだ。

 柱の裏の細い黒。

 シャッターの下へ落ちた濃い影。

 そういう場所を通るたび、周りの空気だけが少しずつ重たくなった。

 足音はしない。

 俺にも、濡烏にも。

 ただ、濡烏の進むたび、ごく小さく水滴の落ちるような音だけが遅れて響く。

 雨は降っていない。

 路面も乾いている。

 なのに、その音だけが夜の底へひとつずつ沈んでいく。


 歩道橋へ上がるための階段の下へ入ったとき、空気の質が変わった。

 冷たくなったわけではない。

 むしろ、温度そのものが、少し曖昧になる。

 外の夜より、ここだけ空気に厚みがあった。

 見えない薄布が、何枚も吊られていて、そのあいだを肩で押し分けて進むみたいな感覚。

 濡烏が、鉄骨にも壁にも触れず、ただ片手をかざした。

 その途端、さっきまでただの暗がりだった場所に、妙な奥行きが生まれた。

 階段の裏だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 なのに、影の奥に、もう一枚同じ影があるように見える。

 鉄骨の交差も、壁の染みも、そのままの形をしているのに、今だけ“裏側”をこちらへ見せているみたいだった。


 濡烏は言う。

「人の町は一枚ではない」

 声は低いまま、何の情も乗せない。

「朝に使われる顔、昼に開かれる顔、夕に畳まれる顔、夜に残る顔。

 それぞれが重なっている。

 お前は今、その継ぎ目を歩いている」

「継ぎ目……」

「名を失ったものだけが、そこへ足を滑らせる」

 濡烏はそれだけ言って、深くなった影の方へ入っていった。

 俺も続いた。

 段差を越えたわけじゃない。

 壁を抜けたわけでもない。

 それなのに、一歩進んだあと、背中側の夜が妙に遠くなった。


 振り返る。

 そこには、まだ階段裏がある。

 鉄骨もある。

 壁も、路面も、見える。

 見えているのに、さっきまで自分が立っていた側だけが、薄い硝子越しの景色みたいに頼りなく見えた。

「戻るな」

 濡烏が言った。

「今のお前は軽い。半端に振り返れば、どちらにも定まらずに裂ける」

 裂ける、という言葉の意味を訊き返す気にはなれなかった。

 今いる場所の方が、問いの答えより先に身体へ入ってきていたからだ。


 階段裏を抜けた先は、やはり町だった。

 道がある。

 塀がある。

 信号が、遠くで赤から青に変わる。

 住宅街の窓には明かりがあり、どこかの家の二階ではカーテンの影が一度だけ揺れた。

 見慣れた町だ。

 それなのに、何もかもがほんの少しずつ違っていた。

 家の窓は明るいのに、その光が外までこぼれてこない。

 電柱は立っているのに、そこから伸びる影の終わりだけがどこにも見つからない。

 標識の文字は読めるのに、読んだ瞬間に意味だけが遠ざかる。


 何より、音が違った。

 犬が一度、遠くで鳴いた。

 その声は聞こえた。

 だが、鳴いた場所だけが分からない。

 近くも遠くもなく、夜そのものが一度だけ吠えたように聞こえる。

 どこかの家で食器の触れる音がした。

 それも聞こえる。

 けれど、それが生活の中の音ではなく、閉じた箱の中で、誰かが規則通りに鳴らした音みたいに平たかった。

 町はそこにある。

 だが、触れられる前の輪郭だけを並べられたような町だった。

「……同じ場所、なのか」

 俺が言うと、濡烏は歩みを止めないまま答えた。

「違うと言えば、お前は異界だと思って安心する。

 同じだと言えば、まだ戻れると勘違いする。

 だからどちらでもない」

 冷たい声だった。

 それでも、その冷たさの中には、妙な正確さがある。

「人の町が、こちらへ背を向けたときの顔だ。お前は今、それを裏から見ている」


 濡烏は細い道を曲がり、川沿いの遊歩道へ出た。

 欄干の向こうで、水面が街灯を細く崩している。

 昼にも見たはずの川だった。

 けれど、今の水は、光を映しているというより、光の方を底へ引いているように見える。

 対岸のマンションの窓明かりも、ちゃんと点いている。

 なのに、そのどれにも人の温度が感じられなかった。

 暖かそうに見えるだけで、触れればただの明るさに崩れそうだった。


 濡烏は、欄干の前で止まった。

「見るなとは言わん」

 川面を見たまま言う。

「だが、同じものだと思うな。

 お前が今見ているのは、戻れなくなった側から見た町だ」

 喉の奥が、少し乾いた。


 戻れなくなった側。

 その一言で、今まで感じていた違和感の全部に、鈍い重さがついた。

 平日の昼に、町の流れへ混ざれなかったこと。

 窓の向こうの生活が、どこまでも遠かったこと。

 夜になるほど、道の端や高架下や川沿いばかり選んで歩いていたこと。

 それらが全部、ただの気分じゃなかったと突きつけられる。

「……俺は、ずっとここに近づいていたのか」

「近づいたのではない」

 濡烏が言った。

「軽くなっただけだ」

 その一言が、鈍く胸へ落ちた。

「名を失い、人の呼び声から外れた。

 お前はもう、人の世に留まる重さを持たん。

 だから、夜の薄いところから順に足を滑らせる」

 濡烏は、そこで初めてこちらを見た。

「今夜は、あれを見た」

 あれ。

 高架下を通っていった、黄ばんだ灯りと影の流れのことだと分かった。

「見た以上、お前は今までのようには歩けん。

 何も知らぬまま町を彷徨って削れるか、理を知ったうえで進むかだ」

「進むって、どこへ」

 濡烏は、すぐには答えなかった。

 川面に映る街灯が、風もないのにひとつだけ歪む。

「まずは、町の継ぎ目を覚えろ」

 濡烏は言った。

「どこで夜が深くなるのか。

 どこで人の世の顔が薄くなるのか。

 どこで己が引かれるのか。

 それを知らぬ罪人は、勝手に削れて終わる」


 罪人。


 その呼び方に、濡烏は一度も迷いがない。

 若い死者でも、名を失った哀れなものでもなく、最初からそこへ置かれている。

 優しさは無い。

 慰めも無い。

 だが、ごまかしも無い。


「お前は、お前が奪ったものの側へ引かれている」

 濡烏の声が、夜の中でわずかに低くなる。

「金だと思っていたなら見当違いだ。

 お前が先に奪ったのは、人の眠れる夜だ。

 疑わずに済む時間だ。

 だからお前は、夜の縁から外れられん」


 川沿いの空気が、少しだけ重くなる。

 どこかで水滴が落ちたような、小さな音がした。

 俺は、何も言えなかった。

 否定する言葉も、言い訳も、全部、喉の手前で乾いていく。

「……ここから、戻れるのか」

 やっと、それだけを言う。

 濡烏は、川の向こうを見たまま答えた。

「戻る、という言葉を、人は便利に使いすぎている」

 乾いた声だった。

「家へ戻る。昨日へ戻る。名のある側へ戻る。

 お前が求めているのがそのどれかなら、もう遅い」

 濡烏は、俺へ視線を戻す。

「だが、落ちる先を誤らぬことはできる」

 その言葉に、救済の匂いは、ひとつも無かった。


 川沿いの道を、濡烏はまた歩き出した。

 街灯の円と円のあいだ、いちばん夜の濃いところばかりを選ぶように。

「来い」

 短い声だった。

「今夜はまだ浅い。

 継ぎ目をひとつ越えただけだ」

 俺は、その背を追った。


 振り返ると、さっき抜けたはずの階段裏も、高架下の道も、もうどこに続いていたのか曖昧だった。

 戻るべき位置そのものが町の中から擦れていく感じがした。

 それが、ひどく恐ろしかった。

 川面には、街灯が揺れている。

 住宅街には、窓の明かりがある。

 遠くで信号も変わる。

 町の形はそのままだ。

 そのままなのに、全部が少しずつこちらを見なくなる。


 人の世が背中を向け続けている横を、俺は名もないまま歩いていた。

 濡烏の黒い背は、歩くたびに夜の濃いところへ溶け、また輪郭を結ぶ。

 まるで、最初からこの町の継ぎ目だけを縫うために作られた存在みたいだった。

 その背を追いながら、俺は思った。


 自分はもう、ただ死んだのではない。

 ただ彷徨っているのでもない。

 現世の表と、夜の裏側のあいだを、名前も無いまま滑り続けている。


 そして、そのことを教えたのは、救いを持たず、赦しも持たない渡し守だった。


 濡烏の背を追いながら、俺はずっと落ち着かなかった。

 怖い、という言葉だけじゃ足りない。

 目の前にいるのが人ではないことも、さっき見たあの流れがこの世のものではなかったことも、もう分かっている。

 分かっているのに、それを理解した俺自身の方が、まだ追いついていなかった。

 遅れたら駄目だ、と理由もなく分かっていた。

 見失ったら終わってしまう。

 何がどう終わるのかは分からない。

 でも、今の俺には、あの黒い背を見失った瞬間に、自分の輪郭ごと夜にほどけていく予感があった。


 川沿いの道は、見慣れた形をしていた。

 欄干がある。

 対岸にはマンションの窓明かりが並び、ところどころカーテン越しに薄い影が動く。

 それなのに、さっき濡烏に連れられて継ぎ目を越えてから、町の見え方は少しずつ変わってしまっていた。

 窓の明かりは、点いている。

 だが、その光はどれも部屋の中で閉じていて、夜気の中へこぼれてこない。

 光があるのに、温度が無い。


 濡烏は立ち止まらなかった。

 歩きながら、低い声で言う。

「見えているものに気を取られるな」

「……見えるだろ」

「見える。だから厄介だ」

 声は乾いていた。

 叱るのでもなく、慰めるのでもない。

「人の世の表は、夜になっても完全には消えん。

 窓も、道も、川も、そのまま残る。

 だが、お前が今歩いているのは、その残りの裏だ」

「裏って言われても……」

「分かった気になるな」

 濡烏は、即座に言った。

「分からぬまま歩け。

 今のお前に許されるのは、それだけだ」

 その言い方が、癇に障った。

 だが、腹を立てるほどの熱が自分の中に残っているかと言えば、それも怪しい。

 怒ったところで、どこへ向ければいいのか分からない。

 濡烏は最初から、俺を人間扱いしていない。

 説得する相手でも、守る相手でもなく、ただ誤った方へ落ちかけている罪人として見ていた。


 川沿いの道を抜けると、住宅街へ入った。

 夜半の住宅街は、昼より広く見える。

 家と家のあいだの細い道も、塀沿いの影も、駐車場の白線も、何もかもが少しだけ間延びしていた。

 距離が伸びた、というより、空白が増えた感じだった。

 ベランダに吊るされたタオルが、風もないのにわずかに揺れている。

 どこかの庭先に置かれた子どもの自転車が、妙に新しく見える。

 門灯の下の植木鉢だけが、湿ってもいないのに雨上がりみたいな色をしていた。

「……なんで、こんなふうに見えるんだ」

 濡烏は、細い角を曲がりながら言った。

「お前が薄くなったからだ」

 簡単に言う。

「名を失った。

 呼ばれる側から外れた。

 人の世に留まるための重さが無くなれば、町はお前に本来の裏面を見せる」

 理解は出来る。

 だが、理解することと受け入れることは別だった。

「名前が無いだけで、そんなに変わるのか」

「“だけ”?」

 濡烏が初めて、ほんのわずかにこちらを見た。

 その目は濡れたガラス玉みたいに鈍く、怒っているのか、呆れているのかも分からない。

「人は己の名を軽く見すぎる。

 呼ばれ、書かれ、記されることで、己を人の世へ縫い留めているはずなのに、失ってからようやくその重さを知る」

 濡烏はまた前を向く。

「お前が今こうして町の裏を歩けるのは、才でも、選ばれた人間だからでもない。

 名を失い、現世の側から弾かれたからだ」

「……弾かれた」

「そうだ。

 残酷だと思うか」

 少し間があった。

 夜の向こうで、どこかの踏切が短く鳴り、それきり沈黙した。

「だが、お前がしたことも同じだ」

 濡烏の声は、少しも変わらない。

「信じていた流れから弾いた。

 疑わずに済んだ夜から弾いた。

 今日の続きが明日へ伸びると思っていた人間を、その道筋から押し外した」

 足が、少しだけ止まりかけた。

 濡烏は振り返らない。

 それでも、俺が遅れそうになったのは分かったらしい。

「立ち止まるな」

 短く言う。

「今さら痛がるな。

 それはお前が先に人へ渡した痛みの、やっと輪郭を持ったものだ」

 住宅街を抜けると、今度はシャッター街に出た。

 昼間は古びているだけの商店街だ。

 八百屋も、薬局も、文房具屋も、もう閉まっている。

 シャッターの銀色が街灯の下で鈍く光り、看板の文字は読めるのに、読んだそばから意味だけが薄れていく。

 濡烏は、並んだシャッターの前でようやく足を止めた。

 商店街の真ん中ほど。

 左右に店が並び、頭上には簡素なアーケードの骨組みが残っている。

 昼間なら買い物袋を提げた人が通り過ぎるだけの場所。

 今は静かで、風もなく、空気だけが古びていた。

「ここも継ぎ目というやつなのか」

 俺が訊くと、濡烏はわずかに顎を上げた。

「どこにでもある」

「……どこにでも?」

「人の営みが濃い場所ほど、継ぎ目も生まれる。生きるものが多いほど、零れるものも多い」

 その言い方が、妙に残った。

 零れるもの。

「お前もそのひとつだ」

 考えを読まれたみたいに、濡烏が言った。

「自分だけ特別だと思うな。

 お前は零れた。

 それだけだ」

 優しさの欠片もない。

 だが、その冷たさが今はかえって現実に近い気がした。

 商店街の奥で、何かがきしんだ。

 ごく小さな音だった。

 風もないのに、店先の吊り看板が一度だけ揺れたみたいな、そんな音。

 俺はそちらを見た。

 奥は暗い。

 街灯はある。

 だが、その光は道の途中から急に古い色へ変わっていた。

 白ではない。

 黄とも橙ともつかない、長く押し入れに仕舞われていた紙を夜の湿り気の中で開いたときの色。

「……またか」

 濡烏は、答えなかった。

 代わりに、立つ位置を半歩だけずらした。

 それだけの動きなのに、黒い外套とも羽ともつかないものが影へ溶けて、濡烏の輪郭が少し深くなる。

「見るな、と言ったらどうする」

「見る」

「そうだろうな」

 濡烏は、低く言う。

 呆れでも嘲りでもない。

 ただ、当然そうなると知っていた声。

 商店街の奥の空気が、ゆっくりと整い始める。

 シャッターの継ぎ目の黒。

 アーケードの梁の影。

 路面の細いひび。

 それらの位置は変わらないのに、そこを満たしている暗さの並び方だけが、こちらの知らない理で組み替えられていく。

 黄ばんだ灯りが、ひとつ見えた。

 ひとつだけでは終わらない。

 その奥に、またひとつ。

 さらに、もういくつか。

 灯りは、揺れている。

 だが、風で揺れているのではない。

 灯りそのものが呼吸しているみたいに、ゆっくり膨らみ、ゆっくり痩せる。

 そして、そのあいだを、影が通っていく。

 高架下で見たときより、少し近い。

 近いのに、やはりはっきりしない。

 顔の無い頭だけが、白く滑るもの。

 車輪じみた丸いものを、転がすもの。

 閉じた傘のような形のまま、地面を選ばず移っていくもの。

 長い布のようなものを引いているのに、その布がときどき脚にも腕にも見える。

 何も喋らない。

 だが、黙っている感じでもなかった。

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