8
幾日を越した真夜中だった。
幾日、という言い方が正しいのかも分からない。
朝は来た。昼は町を白く均した。夕方は窓に灯りをともして、夜はまたそれを一枚ずつ剥がしていった。
そういう繰り返しだけは見ていた。
けれど、そのあいだに何日分の闇を歩いたのかは、もううまく数えられなかった。
その夜、俺は駅裏の高架沿いを歩いていた。
終電は、とうに過ぎている。
高架の上は、空っぽで、下の道にも人の気配はない。
自販機の白だけが、少し離れた場所に浮いて見えた。
昼間なら、ただの抜け道だ。
近道に使う自転車が通って、帰りの遅い誰かが早足で曲がっていく。それだけの道。
だが、真夜中になると、「それだけ」が、頼りない紙細工に見えてくる。
風はなかった。
それなのに、道の奥の暗がりだけが、ゆっくりと身じろぎした。
最初は、よくあることだと思った。
ここしばらく、そういうことは何度もあった。
街灯の色が一瞬だけ紙の黄ばみを帯びたり、何もない角の暗さだけが不自然に深く見えたり、夜の静けさの肌理が、どこか一部分だけ変わることはあった。
でも、その夜は違った。
町の音が、順番に引いていった。
遠くの換気扇の唸り。
信号待ちをしていた車の低い振動。
どこかの家のテレビの漏れ。
それらが一度に消えるんじゃなく、見えない手で少しずつ襟を掴まれて、夜の底へ後ずさっていくみたいに遠のいていく。
その代わりに、聞こえないはずのものだけが近くなった。
足音ではない。
衣擦れでもない。
だが、何かが移動するときにだけ空気の粒の並び方が変わる、あの前触れだけが、道の奥からゆっくり満ちてくる。
俺は、知らないうちに壁際へ寄っていた。
何を避けるのかも分からないまま、ただ道の真ん中に立っているのがまずいと、身体のない身体のどこかが、先に知っていた。
高架下の暗がりの奥で、灯りが揺れた。
ひとつ。
またひとつ。
さらに、いくつか。
提灯のように見えた。
だが、そう思った次の瞬間には、それが本当に提灯だったのか曖昧になる。
火があるのではない。
灯りそのものが、長く折り畳まれていた紙をひらいたときのような、乾いた黄をしている。
黄とも橙ともつかない、古い夜の色だった。
暗がりの中に、灯りだけが浮いてくる。
並んでいるようで、並んではいない。
散っているようで、散ってもいない。
ただ、夜の底に埋もれていた光だけが、順に水面へ上がってくるみたいに、ひとつずつ姿を見せる。
そのあいだを、何かが通る。
最初は、影にしか見えなかった。
だが、ただの影ではない。
人の形に近いものもある。
近くないものもある。
顔のない頭だけが、白く滑るもの。
車輪めいた丸いものを、音もなく転がすもの。
濡れてもいないのに、足元の空気だけを湿らせる女。
閉じた傘のような形のまま、地面に触れずに過ぎていくもの。
どれも、はっきり見えたと思った次の瞬間には、灯りと暗さのあいだへほどけていく。
誰も喋らない。
声はない。
それでも、静寂でもなかった。
無音のまま、通り過ぎる気配だけが、何重にも夜へ重なっていく。
アスファルトの黒は、古い墨みたいに深くなり、ガードレールは月でもない白さを帯び、高架の柱に落ちた影は、地面を離れて少しだけ浮いて見えた。
百鬼夜行。
言葉だけが、どこか遠いところから浮き上がってきた。
昔話の中にしかなかったはずのもの。
絵巻の中でしか連なっていなかったはずのもの。
それが今、コンビニの白と高架のコンクリートと駅裏の湿ったアスファルトのあいだを、現代の町の顔をしたまま通っていく。
逃げようとした。
でも、足は一歩も出なかった。
その代わり、別のものが動いた。
道の脇、街灯の届かないぎりぎりのところ。
濃い影が、一枚多いとしか思っていなかった場所に、いつの間にか何かが立っていた。
背が高い。
痩せている。
人に近い形をしているのに、見ているうちにどこからが顔で、どこからが羽で、どこからが夜そのものなのか分からなくなる。
額から頬にかけて、濡れた黒い羽毛のような質感が、皮膚と混ざっていた。
肩から垂れる外套は、布でも羽でもなく、暗がりを集めて縫ったように見える。
足元は見えない。
立っているのか、影の中へ差し込まれているのかすら曖昧だった。
そいつだけが、あの流れを見送っていた。
呑まれず、退かず、ただその傍らに立っている。
夜のこちら側と向こう側のあいだに、黒い杭のように打ち込まれているような存在だった。
「壁際で息を殺す癖は、まだ人の残りだな」
声がした。
耳で聞いたのか、喉の奥へ落ちたのか分からない。
低い。乾いている。
紙を裂く寸前の薄さを持った声だった。
俺はそいつを見たまま、ようやく喉を動かした。
「……お前、誰だ」
「問う順が違う」
そいつはそう言って、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
目の位置に、濡れたガラス玉みたいな鈍い光が二つだけある。
「まずは己の名を言え」
言われて、俺は口を開いた。
その瞬間だった。
何も出てこなかった。
喉が詰まったんじゃない。
声が出ないんでもない。
ただ、言うべきものが無い。
頭の中に、名前のあるべき場所だけが綺麗に空いている。
下の名の字が、曖昧になった夜もあった。
名字の形が、薄れた昼もあった。
けれど、その先は、まだどこかに残っていると思っていた。
探せば、手を伸ばせば、最後の断片くらいはあると思っていた。
昔、学生証に書かれていた字。
呼ばれれば振り向いた音。
家で呼ばれていた二拍か三拍か、その響き。
何かひとつでも手にかかればよかった。
でも、どこへ手を伸ばしても、名前のあるはずの場所だけが綺麗に空いている。
俺は黙ったまま、口だけを半端に開いていた。
夜の流れは、その沈黙の横をなおも通り過ぎていく。
黄ばんだ灯が揺れるたび、町の色が少しずつ古くなる。
異形はその沈黙を見て、ほんのわずかに顔を傾けた。
「……気づいていなかったのか」
その一言が、冷たい水みたいに胸の奥へ落ちた。
「お前の名は、もう空だ」
空。
俺は反射で、自分の中を探った。
本当に何もない。
下の名の読みも、名字の字も、音の断片も、何ひとつ残っていない。
名前の残りかすだと思っていたものすら、最初から無かったみたいに触れられない。
自分を呼ぶはずの音の痕跡だけが、乾いた井戸の底みたいに空いている。
俺は、誰だ。
その問いに、 答えるための器そのものが失われていた。
「……そんなはず」
そう言いかけて、止まる。
否定するために必要な過去の手触りまで、今はどこにも残っていなかった。
高架下を過ぎていく灯りの流れは、まだ尽きない。
黄ばんだ灯りのあいだを、顔のないもの、車輪だけのもの、布でも影でもないものが、現実の道を現実じゃない滑り方で通り過ぎていく。
そいつはその流れを見たまま言った。
「名は、ここへ留まるための杭だ」
声は低いまま、少しも揺れない。
「生きている間、人は、それを己の中へ打ち込んでおく。
呼ばれ、書かれ、名乗るたびに、己をこの世へ繋ぐ。
お前は、それを失った。ゆえに、もう人の側へ戻れん」
俺は高架下の暗がりを見た。
灯りがひとつ、またひとつと流れていく。
町の表面だけが薄くめくれて、その裏を何かが通っているみたいだった。
「じゃあ……俺は何だ」
やっとそれだけを絞り出す。
異形は、すぐには答えなかった。
鈍い目の光だけが、こちらへ向いている。
「死者だ」
短かった。
「ただし、静かに沈める死者ではない。
名を失い、罪を抱き、それでも、なお現世へ足を掛けている。
そういうものは、夜の継ぎ目に引かれる」
そいつは、外套とも羽ともつかない黒をわずかに揺らした。
「昼の町がお前を受け入れぬのは、そのためだ。
家の灯りが遠いのも、窓の内側へ入れぬのも、もうお前が“あちらの者”ではないからだ」
喉の奥が冷えた。
その言葉は、今まで感じていた違和感に全部、形を与えてしまう。
現実が続いているのに、自分だけがその端へ押し出されている感じ。
平日の町の中で、何ひとつ触れられない感じ。
夜になるほど、歩道橋や高架下や川沿いばかり歩くようになったこと。
それらが全部、ただの錯覚じゃなくなる。
「今、ここを通っていくのは何だ」
俺が訊くと、異形はその流れへ一度だけ目を向けた。
見慣れたものを見る目だった。
敬いも、恐れもない。
「夜の余りだ」
それだけでは足りないと思ったのか、少し置いてから続けた。
「人の世の外へ追いやられたもの、名を薄くしたもの、形だけで歩くもの、古い執着に足を取られたもの。
それらが濃くなる夜には、こうして道を持つ」
百鬼夜行、という言葉はそいつ自身は、口にしなかった。
だが、その説明の冷たさが、かえってそれより古くて重いものに思えた。
「お前は、もうあれに近い」
その一言で、背中側の夜が、さらに冷たくなった。
「だが、まだ同じではない」
「何が違う」
「罪を知っている」
即答だった。
「何をしたかを知り、その重みから逃げきれていない。
それが、今のお前を、流れから半歩だけ外している」
優しい言い方ではない。
救いになる言い方でもない。
ただ、事実だけが置かれる。
「罪を忘れたものは、ただ混じる。
罪を軽いものと言い換えたものも、やがて混じる。
お前はまだ、そこまで壊れていない」
「……まだ、って何だ」
「そのうち壊れる」
そいつは、少しもためらわずに言った。
「名は尽きた。
次は輪郭だ。
輪郭が尽きれば、己と夜の区別も薄れる。
そうなれば、いずれは、あれと見分けがつかなくなる」
黄ばんだ灯のあいだを流れる影を見ていると、その言葉は脅しには聞こえなかった。
脅しよりもっと冷たい、すでに決まりかけている未来の説明だった。
「……止める方法は」
「ある」
俺はそいつを見た。
濡れた羽毛のような黒が、街灯の届かない場所でほとんど夜そのものに溶けている。
それでも、目の鈍い光だけは、確かにこちらを見返していた。
「だが、救いではない」
その言い方に、最初から慈悲などひとつも無いことがよく分かった。
「お前は罪人だ。
助けられるためにここに立っているのではない。
落ちる先を誤らぬために、今ここに立たされている」
そいつは、高架下の流れへ一度だけ目を向ける。
「町へ残れば、やがて名も形も尽きる。
そのまま、夜の縁へ擦り減って、何であったかも分からぬものになる」
それから、今度は俺を見た。
「進むなら、別の道がある。
罪を抱えたまま、名を失ったまま、それでも自分の落ちる先に行く道だ」
地獄、という言葉はそのときまだ出なかった。
だが、その道の先に暖かいものが無いことだけは、声の乾き方で分かった。
「……お前は、誰なんだ」
もう一度訊いた。
そいつは少しだけ黙ったあとで、答えた。
「濡烏」
短い名乗りだった。
「渡し守だ。
渡すだけだ。赦しはしない」
それが、ひどく似合う声だった。
高架下を流れていた灯りは、少しずつ薄れていた。
町の中の異様な色も、ゆっくり現実の顔へ戻り始める。
自販機の白はまたただの白になり、ガードレールの影も地面へ戻る。
異様さは最初から町の裏側にしか無かったみたいに痕跡を失いはじめる。
それでも、俺の中では、もう消えないものがあった。
名が無い。
本当に、ひとつも無い。
その事実だけが、遅れて深く沈んでいく。
濡烏は、外套の裾をわずかに翻した。
布なのか羽なのか分からない黒が、影と混ざって夜の中でほどける。
「来るか」
命令でも誘いでもない。
ただ、分かれ道の前に立てられた黒い標みたいな言い方だった。
「このまま町の縁で削れるか。
それとも、自分が何処へ落ちるべきかを見に行くか」
優しさはない。
慰めもない。
罪人に与えられるのは、選択ではなく方向だけだとでも言うみたいに。
俺は、高架下の暗がりをもう一度見た。
さっきまでそこを流れていたものは、今はもう見えない。
だが、夜の深さだけが一枚余計に残っている。
あれは、見間違いじゃなかった。
あの流れの側へ、俺はもう半分足を掛けている。
そして、俺には自分を引き止める名前がない。
それでも――いや、だからこそ、何も知らないまま削れていくのだけは嫌だった。
俺は濡烏を見た。
あの鈍い光の目は、こちらを哀れんでいない。
ただ、罪人の返事を待っている。
「……行く」
やっと、それだけを言った。
濡烏は頷きもしなかった。
それが当然の答えだとでもいうみたいに、ただ身を翻した。
影の濃い方、街灯の届かない方へ、夜の継ぎ目だけを選んで進み出す。
俺はその背を追った。
振り返ると、駅裏の道はもう、何事もなかったみたいな真夜中の形に戻っていた。
自販機は白く、シャッターは閉じ、どこにも何もいない。
だが、喉の奥の冷たさだけが残っていた。
あの夜、俺は初めて知った。
名を失ったことよりも、その事実に気づかないまま歩き続けていたことの方が、ずっと深いところで自分を壊していたのだと。
そして、壊れきる前に現れたのが救いではなく、赦しを持たぬ渡し守だったことも。




