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 それから、いくつかの朝と夜を見送った。


 何日、とは言えない。

 朝が来て、昼が過ぎて、夕方が町の輪郭を少しずつ畳んで、夜がまた音を減らしていく。

 そういう流れだけは何度も見た。

 けれど、それを一日、二日と数える感覚は、死んだときにどこかへ置いてきたみたいだった。


 下の名前の漢字は、結局戻らなかった。

 「けい」という音だけが、細く残っている。

 音はあるのに、字がない。

 その頼りなさにも、少しずつ慣れかけていた。

 まだ大丈夫だと思っていた。

 名字がある。

 少なくとも、そっちはまだ自分を支えている。

 そう信じていた。


 それが崩れたのは、ある昼下がりだった。

 川沿いの遊歩道を歩いていた。

 昼を少し過ぎたくらいで、人影はまばらだった。

 犬を連れた女がひとり、ベンチに座る老人がひとり、向こう岸をトラックがゆっくり流れていく。

 光はまだ高いところから落ちていて、欄干の影はまっすぐ地面に伸びていた。

 何もおかしなものはなかった。

 だから余計に、嫌だった。

 風は弱い。

 雲も高く、天気は悪くない。

 何かが壊れるような日には、見えなかった。


 俺は、欄干のそばで立ち止まって、水面を見ていた。

 当然、何も映らない。

 もうそれには慣れたつもりでいた。


 そのとき、不意に、自分の名前を確かめなければいけない気がした。


 理由はなかった。

 いや、あるのかもしれない。

 でも、それを理由として掴む前に、いつも身体の方が。先に冷える。

 胸の奥に、見えない針が一本立つ。

 そうするともう、確かめずにはいられない。

 俺は心の中で、自分の名前を呼んだ。


 あいざわ。


 読みは、出る。

 そこはまだ大丈夫だった。

 母さんの声でも、父さんの声でもない、もっと平たい、自分が自分を呼ぶときの音。

 あいざわ。

 それはまだ、俺の中にあった。


 じゃあ、字は。

 頭の中で名字を書こうとした。

 そこで、止まった。

 最初の一画が出てこない。


 下の名前のときとは違った。

 あのときは、字の形のまわりに霧がかかるみたいだった。

 今はもっとひどい。

 字の入口そのものが見つからない。


 俺はもう一度やった。


 あいざわ。


 音はある。

 だが、字がない。

 しかも今度は、一文字だけでは、済まなかった。

 名字の漢字全体が、薄い膜の向こうへ押しやられたみたいに遠い。

 そこにあると分かるのに、こちら側からは読めない。

「……は」

 喉が乾いたような感覚だけが残る。

 声には、ならない。

 ならないまま、焦りだけが先に形を持つ。


 目の前の景色は、何も変わらない。

 川は光を返している。

 犬は立ち止まって草の匂いを嗅いでいる。

 ベンチの老人は缶コーヒーを持ったまま、ぼんやり向こうを見ている。

 向こう岸の道路をトラックが一台、ゆっくり過ぎる。


 世界は、何事もない顔をしていた。

 俺の中だけが、急におかしくなる。

 下の名前の字が無くなったときも怖かった。

 でも、そのときはまだ、自分を掴む場所があった。

 名字があった。

 名字という骨組みの上に、読めない字がひとつ抜けているだけだと思えた。


 今は違う。

 骨組みの方が揺れている。


 俺は反射みたいに、近くの案内板のガラスを見た。

 映るわけがない。

 知っている。

 それでも見てしまう。

 もしかしたら、顔は無くても名前の残り香くらい映るんじゃないかと思ってしまう。

 当然、何もなかった。


 川。

 欄干。

 空。

 向こう岸のマンション。

 どれもきちんとそこにある。

 俺だけがいない。


 その“いない”の中に、今度は名字まで含まれ始めている気がした。


 あいざわ。


 音だけがある。

 でも、その音を支えていた字の並びが出てこない。


 たしか、こういう字だった。

 いや、違う。

 もっと見慣れていた。

 もっと当たり前に、自分の中にあった。

 毎回考えなくても書けた。

 人に問われたら、迷わず答えられた。

 なのに今は、そこへ手を伸ばすたびに、指先だけが、空を切る。


 嫌だった。

 怖い、より先に、嫌だった。

 そこまで削られるのは駄目だと思った。

 下の名前の字だけでも十分だった。

 これ以上どこを失えばいい。

 何を残せば、まだ“俺”と呼べる。


 俺は必死に、生きていた頃のものを頭の中へ並べた。

 学生証。

 大学の名簿。

 家の郵便受け。

 父さんが役所で書く書類。

 母さんが宅配便の受け取りに書く苗字。

 病院の受付。

 葬式の札。


 どれにも名字はあった。

 それなのに、その字だけが、今は一つも読めない。


 人は、こんなふうに自分の名前を失うのか。

 もっと別のものから薄れていくんじゃないのか。

 昔の景色とか、古い会話とか、使わなくなった番号とか。

 そういうものが先じゃないのか。

 なのに俺は、自分の名前のいちばん表側から壊れている。


 誰かに訊きたかった。

 これは何なんだ。

 どこまで消える。

 次は何が抜ける。

 答えがほしかった。

 慰めでも救いでもなくていい。

 ただ、意味だけでよかった。

 

 老人は、コーヒーを飲んでいる。

 犬は、草の匂いを嗅いでいる。

 川は、光を返している。

 町は、今日の午後を、何事もなかったみたいに続けている。

 その無関心さが、残酷だった。


 俺は心の中で、自分をもう一度呼んだ。


 あいざわ。

 けい。


 音だけが、残る。

 それが、ひどく頼りなかった。

 人は、名前を音だけで持っているんじゃない。

 字がある。

 書ける。

 読める。

 誰かが見て、それを自分だと分かる。

 今の俺には、それが無い。

 読むことも、書くこともできない名前を、ただ内側で抱えているだけだった。


 俺は、欄干から離れた。

 逃げるみたいに、少しだけ後ろへ下がる。

 足音はしないのに、後ずさる感覚だけはちゃんとある。


 あいざわ。

 けい。

 もう一度、確かめる。

 音はある。

 音しかない。

 その心許なさを抱えたまま、俺はしばらくその場から動けなかった。

 午後の町は、穏やかだった。

 穏やかなまま、俺の内側だけを、少しずつ別のものに変えていく。

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